第11話 愛する腹の探り合い
好き合った男女の間に疑惑が入り込むと、泥仕合が始まる。疑惑を晴らすために手段を選ばなくなり、その結果、人間的な汚さをさらけ出すことになる。僕が登紀子と経験したこの泥沼に、空井は、この時、入り込もうとしていた。
バーからマンションに戻ると、空井はまっすぐ自分のコンピュータに向かった。僕は一緒に行くのを躊躇し、自分の部屋に入ろうとしたが、「いてくれないか。何が出てくるかわからないから」と引き止められた。
空井は、トロージャンタイプのウィルスをメールに仕込み、それを愛に送った。そのウィルスは、二年後に「ニムダ」と命名されて世を騒がせたものの一種で、相手がメールを開いただけで感染するようになっており、愛がウィルスにいくら用心していても、防ぎようのないものだった。(※6)
愛はこの時間にも起きていてインターネットをやっていたらしく、ウィルスはすぐに入り込んで活動を始め、愛のコンピュータを空井のものと繋いだ。
空井は、愛のコンピュータの中をざっと見て回りながら、住所録や予定表など大事そうなものを自分のマシンにコピーした。回収したキーロガーのログレポートが見つかると、マウスを動かす空井の手が震えはじめた。
これで愛が犯人だったことに、疑いはなくなった。
次に空井は、愛のメールボックスを開いた。
「何だろう……」そうつぶやきながら、彼は画面を指した。愛は「島村一郎」という人物と頻繁にやり取りしていた。
「誰です?」
「ヘッドハンターだよ、前に話した。ちゃんと断ったはずなんだが、その後愛とも連絡を取っていたなんて、あいつは一言も言ってなかった」
空井はメール本文を開いた。
送信日時:4/19 AM11:03
送信者:島村一郎
宛先:ai—ai—ai@×××.or.jp
タイトル:先日はありがとうございました。
本文:こんにちは。先日、初めてお目にかかりました島村です。お忙しい中、ありがとうございました。あの時も申し上げましたが、空井様へのオファーは、またとない好条件のものです。お二人の将来にとっても、非常に有益と思われます。ぜひ、お二人で相談なさっていただければ幸いです。 島村
「この日付……島村っていう奴と、最初に、愛と二人で会った時のすぐ後だ……」と空井。「島村が電話でオレにコンタクトを取ってきて、愛に相談したら、あいつも一緒に話を聞きたいって言うから連れて行ったんだ」
次のメールを開いた。
「愛の返事だ」
送信日時:4/19 PM9:46
宛先:shimamura@×××.co.jp
送信者:瀬間愛子
タイトル:Re:先日はありがとうございました。
本文:こちらこそありがとうございます。彼とも、これからよく相談してみます。それでは、また。
「どうということはないですね」僕は言った。他人同士の普通のやり取りだ。
次のメールは少し間があいて、三か月後だった。
送信日時:8/14 AM10:46
送信者:島村一郎
宛先:ai—ai—ai@×××.or.jp
タイトル:ご無沙汰しています
本文:こんにちは。今年の春に一度お会いいたしました、人材紹介の島村と申します。お元気でいらっしゃいますでしょうか。実は、折り入ってお願いしたいことがございます。近々お電話差し上げようと思っておりますのでよろしくお願いいたします。
「これは、オレがヘッドハンティングの話を断った後だ。けりはついたはずなのに、まだいろいろやってたのか……」と空井。
「お願い、って何でしょうね」
「わからない」
「愛さんは何も?」
「うん」
次のメールも、島村から愛へ宛てたものだった。
送信日時:11/18 AM10:09
送信者:島村一郎
タイトル:先日の件
本文:先日お話した件、どうぞご一考ください。そちらにとっても、また空井様にとっても、決して悪い話だとは思いません。どうぞよろしくお願いいたします。
「愛さんからは何も聞いてないんですか?」
僕の質問は無視された。
空井の苦々しい表情を見て、同じ質問はすまいと決めた。
それにしても、先日の話、とは何だろう?
送信日時:11/29 PM7:57
送信者:島村一郎
タイトル:先ほどの件
本文:本日の件は、どうぞよくお考えになってください。双方にとって最も良い解決策であることは間違いありません。それでは後日またご連絡いたします。
島村がどういう話をもちかけているのか、それがわからない。だが、前回のメールにはない「解決策」という言葉が何かを知らせている。島村が一方的に話をもちかけているだけではないのだ。愛にも関わりのある問題が何かあり、それを解決する策を、島村が提案しているらしい。
次のメールに、僕はドキリとさせられた。愛から島村への返事だった。
送信日時:11/29 PM8:08
送信者:瀬間愛子
タイトル:Re:先ほどの件
本文:わかりました、よく考えてみます。それにしても、みなさん立場に似合わず汚いことをなさるのですね。
僕は空井の反応をうかがった。モニターの光を映した横顔からは、何も読み取れなかった。
島村からの返事はなく、「お約束のものです」というタイトルの愛のメールが続いた。
開けてみると、本文は空白で、添付ファイルが付けられていた。
添付ファイルは、キーロガーのログレポートだった。
「……こうなったら、徹底的に調べてやる」
そう言った空井の声が妙に平静だったので、僕はゾッとした。
(※6 ほとんどのウィルスは、ウィルスの入ったファイルをダウンロード→実行しないとPCに感染しないが、2001年に大流行した「Nimda/ニムダ」は、自分宛のメールを閲覧しただけで感染するという危険な新種だった。作中の1999年当時、パソコンユーザーはメール閲覧に対する警戒心がなく、空井はそこを狙って、同じタイプの自作ウィルスを愛に送りつけた。なお、現在のメールソフトはセキュリティが向上しているため、閲覧だけで「Nimda/ニムダ」タイプのウィルスに感染することはない)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます