第12話 「桐生院さん。」

「桐生院さん。」


 午後からの仕事は、全く身が入らなかった。


 最後に真島くんが言った…

 恋人をも共有していたという話…

 そんな事って…



「桐生院さん。」


「あっ…はい…」


 呼ばれて振り向くと、浜崎さんが書類を差し出して。


「何かあったの?」


 首を傾げた。


「ううん…」


 渡された書類に目を落とすと…


『ちょっと給湯室に来てもらえる?あたしが先に行くから、少し時間空けてから来て欲しい』


 そう書かれた付箋があった。


「じゃあ…これ、確かに預かりました。」


「よろしくね。」


 あたしはさりげなく付箋を剥がして、パソコンに向かった。

 真島くんは午後からずっとあたしの方を見ない。

 一心不乱に仕事をしている。

 いつも小気味よく聞こえてくるパソコンのキーボードを打つ音は、少し乱暴にも思えた。



 浜崎さんのメモの通り、少し間を空けて給湯室に行くと。


「…桐生院さん、真島くんの事、どう思う?」


 浜崎さんは、いきなりそんな事を聞いてきた。

 …さっきは気付かなかったけど…目が赤い?


「どうって…」


「…あたし、フラれた。」


「えっ?」


「…休憩室に戻ったら…二人が深刻そうに話してて…なんか焦っちゃって。」


「話…聞いたの?」


「ううん。聞こえなかった。でも…真島くんが泣いてたから…桐生院さん、彼の事ふったのかなと思って…」


「……」


「それで…休憩室から出てきた彼に…好きって言ったら…」


 浜崎さんは思い出したのか、肩を震わせた。


「…僕は桐生院さんの事が好きだから、応えられないって。」


「……」


「うん。気付いてたし、仕方ないって思った。桐生院さん…きれいだしさ…」


 …どう言葉をかければいいのか、分からない。

 同期とは言っても、ここまで話せるようになったのは…ほんの数週間前からだ。


「…もし、真島くんの事…嫌いじゃないなら…」


「…何?」


「付き合ってあげてくれないかな…」


「え…?」


 あたしの眉間には、しわ。


「…彼、どうしたらいいか分からないみたい…恋愛に臆病になってるからって…」


「…それで、浜崎さんに、そう言ってくれって?」


「…あたしは、いいの。彼の役に立ちたいし…」


「……」


「桐生院さん、今はフリーなんでしょ?」


「…そうだけど…」


「お願い…付き合って…」


 あたしは…静かに頭に来ていた。

 好きだと言ってくれた女性に、他の女性との仲を取り持ってくれ、と。

 ふったその場で言うなんて。

 頭はいいのかもしれないけど…

 人としては、最低だ。



「浜崎さんは、それでいいの?もし、あたしが真島くんと付き合ったら…それで本当にいいと思うの?」


「…だって、あたしが他にしてあげられる事なんて…」


「そんなの…今はダメだったとしても、これから振り向かせる事だってできるかもしれないのに…」


「あたし、無理だよ…実は…本気で焦っちゃってて…」


「…どうして?」


「もう、最後の恋にしたいって。結婚…考える人と付き合いたいから…」


「……」


「フラれてから気付くのもおかしいけど…真島くん、まだ22だしね。結婚なんて無理かな…あはは。」


 浜崎さんが苦笑いするのを、あたしは冷めた気持ちで見つめた。


 結婚…

 それは、分かる。

 あたしだって…あたしにだって、憧れはある。

 両親のような夫婦になって、幸せな家庭を築きたい。


 だけど…



「…ごめん…」


 あたしは浜崎さんに頭を下げた。


「…どうしても、ダメ?」


「あたし、まだ別れた彼の事…忘れられないの。」


「……」


 浜崎さんは少しうつむいて、涙を我慢してるみたいだった。


「…あたしこそ、ごめん…だよね。」


「…ううん…」


「どうかしてるね…付き合ってあげて、だなんて。」


「好きな人のために、何かしたいって気持ちは分かるから…」



 浜崎さんとは時間差で席に戻った。

 あたしはヒンヤリとした気持ちでパソコンに向かう。


 真島くんに告白した浜崎さん。

 浜崎さんをふったクセに、あたしとの仲を取り持ってくれと言った真島くん。

 真島くんのために、あたしに付き合って欲しいと言った浜崎さん…


 …恋が絡むと複雑なの。

 本当に…


 自分の想いだけでは、どうにもできない事だけに…。




「…え…」


 隣の席で、真島くんが小さな声を出した。

 きっと、浜崎さんからメールでも来たのだろう。

 案の定、視線があたしに向いている気がする。

 視界の隅っこに真島くんが入っているのが分かりながら、あたしは完全にそれを無視していた。



 浜崎さんは…本当にこれでいいんだろうか。

 結婚を焦る気持ちは…分からなくもない。

 あたしだって、後輩の寿退社を幾度となく祝って来た。

 そのたびに、口にはされないけど『まだ結婚しないのか?』と周りに思われている気がしてしまって…

 勝手な被害妄想と戦いながら、今日までやって来た。


 …西野さんとも、しーくんとも…

 一瞬、夢を見かけたけど。

 あたしには、結婚なんて…縁のない事なのかもしれない。



 本当に好きなら…

 諦めずに頑張って欲しい。


 …って、あたしが思う事じゃないか…



「……」


 メールが届いた。


『浜崎さんから聞きました。まだ志麻の事、好きなんですね。』


 パソコンに向かったまま、返信をする。


『はい』


『どうすれば僕と付き合ってもらえますか?』


「……」


 あたしは、それに対して返事をしなかった。

 真島くんは気にしてあたしを見ていたようだけど、仕事に没頭するとそれも気にならなくなった。



「お疲れ様でした。」


「お先に。」


「お疲れ様。」


 気が付いたら就業時間だった。

 あたしは小さく溜息をついて、首を回しながらパソコンの電源を落とした。


 一人二人と社員が席を立って。

 あたしは自分のマグカップを手にすると、給湯室に向かう。


「桐生院さん。」


 廊下に出てすぐ、真島くんが追ってきた。


「はい。」


「あの…さっきの件なんですが…」


「はい。」


「…どうしても…無理ですか?」


「無理ですね。」


「そんなに…忘れられない?」


「……」


 あたしは給湯室の手前で立ち止まると。


「きっと、仕事は慎重になるのだと信じたいけど、人相手だとどうしてこんなに無神経なんですか?」


 真島くんの目を見ながら言った。


「…無神経?」


「あたし、彼の名前は出さないで下さいって言いましたよね。」


「…はい。」


「分かっててそうしてるの?」


「……」


 真島くんはバツが悪そうに目を逸らした。

 あたしは給湯室に入ってマグカップを洗う。


「それに…」


 給湯室を覗いた真島くんに、続けて言う。


「あなたのそれは、恋じゃないです。」


「…え?」


 洗ったマグカップをキッチンタオルで拭いて、給湯室を出る。

 ここは他の部署も使うから、個人の物は置けない。


「恋ですよ…貴女の事…好きです。」


 足早なあたしに並びながら、真島くんは言った。


「毎日…貴女の事を考えてます…」


「…それは…」


 あたしは低い声で言った。


「それは、恋じゃなくて、習慣だと思います。」


「…習慣…?」



 …恋人を共有していた。

 だから、しーくんと付き合ったあたしと…付き合いたいんだ。

 恋とか愛とかじゃない。

 昔からの事を、繰り返しているだけだ。



「違います。僕は本当に貴女の事…」


「真島さんがなんて言おうと、あたしには応えられません。」


「……」


 あたしの言葉に真島くんは立ち止まって。


「どうせ…」


 小さくつぶやいた。


「どうせ、志麻はもうすぐいなくなる。そうしたら、もう一生会えない。」


「…え?」


 さすがに…あたしも立ち止まってしまった。

 真島くんを振り返ると、彼は唇を噛みしめて。


「みんなそうやって、僕から去っていけばいいんだ。もう…僕なんて…誰にも必要とされない…」


 そう言って、走り去ってしまった。


「……」


 色んな事が気になった。

 だけど…あたしに何ができるって言うの?


 * * *



「今日も真島は休みか。」


 あの告白から三日。

 真島くんは無断欠勤している。

 もしかすると、捜査が終わったからじゃないだろうか。

 そう思うあたしと。


 誰にも必要とされない…


 最後に言った言葉。

 彼は、何か自棄になっているんじゃ…

 と、ほんの少し…心配するあたしと。



「桐生院さん、二番に電話。」


「あ、はい。」


 真島くんがいなくても、毎日仕事はやって来る。

 気になる事があっても、悲しい事があっても。

 あたしは、それをこなすしかない。



「お電話代わりました。桐生院です。」


『…もしもし。』


「はい。」


『今、少し会社の外に出る事は可能ですか?』


 …聞いたことのある声。


「…どちらさまでしょう。」


『高津といいます。』


「高津様…失礼ですが、どちらの高津様でしょうか…」


『…声を出さずに聞いて下さい。』


「……」


 何なんだろう。


『そちらにいる、真島という男の…』


「…え?」


 あたしは、そこに何があるわけでもないのに…真島くんの机を見た。

 そして…


「…分かりました。すぐお伺いします。」


 電話を切って、急で申し訳ありませんが、と、課長に時間休をお願いした。

 あたしの顔色が良くなかったのか、課長は理由も聞かず了承してくれた。



 ビルの外に出て、指定された公園に行くと…


「こんにちは。」


「…あなたは…」


高津たかつ薫平くんぺいといいます。」


 そう言って、あたしに頭を下げたその人は…

 真島くんに瓜二つ。


「兄の瞬平しゅんぺいが、あなたに迷惑をかけてると思って。」


「…兄…」


「双子なんです。」


 確か、真島くんは言ってた。

 弟がいる、と。

 そして…家出中だ。とも…



 それより…


「……もしかして、以前あたしを助けて下さったのは…」


 西野さんに、乱暴されかけた時。

 真島くんにそっくりな男性に助けてもらった。


「ああ…そんな事もありましたね。」


 高津さんは、涼しい笑顔。


「…真島…って…偽名だったんですね…」


「二階堂の人間なのは、お気付きでしたよね。」


「…はい…」


 高津さんは真島くんにそっくりなのに…物腰は柔らかくて、大人の雰囲気だった。

 …その雰囲気は…どこか、しーくんに似てる。


「潜入先では、常に別人になりますからね。」


「…あなたも?」


「いや、俺はもうやめたので…」


「…やめた?」


「ええ。」


 高津さんは木陰のベンチに座って。


「俺と瞬平と志麻さんは…兄弟のように育ちました。」


 話し始めた。


 …志麻さん。

 高津さんは、しーくんに『さん』を付けるんだ…


「いずれは頭になられる坊ちゃんの片腕になる。それが小さい頃からの、俺たちの夢でした。」


「……」


「ですが、今の二階堂の在り方に…俺はどうしても納得がいかず、辞める事にしたんです。」


 …聖が言ってたのは…

 しーくんじゃなくて、この人の事だったんだ…



「俺が辞めるって言った時、志麻さんは賛成してくれたけど…瞬平は猛反対して。それで、志麻さんと瞬平が対立する形になってしまって…」


「…どうして、二階堂の在り方に不満を?」


 高津さんは、少し笑って…足元に視線を落とした。


「あ、ごめんなさい…立ち入った事を…」


「いえ…。」


 少しだけ、沈黙が続いた。

 木陰でも今日は気温は高いはずだけど…なぜかここは涼しく感じられた。

 双子でも、高津さんと真島…

 高津兄弟は、双子なのに…全然違う雰囲気だ。



「…俺たちは、とても狭い世界で生きていました。」


「……」


「それが当たり前でしたが、坊ちゃんがいつかはそれを失くすと。それを期待してる俺もいたんですが…」


「…他に、夢でも?」


 あたしの言葉に、高津さんは視線を上げて。


「察しがいいですね。」


 あたしの目を見て笑った。


「なんでしょうね。今まで人を疑ったり追ったり捕まえたり…それが当たり前で誇りでもあったのに、突然、全く違う事がやりたくなったんです。」


 高津さんは、遠くを見つめながら。


「でも、ずっと一緒だった瞬平は…それが許せなかった。」


 寂しそうに、目を伏せた。


「…みんな自分から去って行く…って、言ってました。」


「え?」


「どうせ自分なんて、誰からも必要とされてないんだ、って。」


「…変わってないな…あいつ。」


「大丈夫なんでしょうか。もう…三日会社に来てません。」


「たぶん…もう志麻さんが見つけてくれてますよ。」


「え…」


「あいつが貴女に迷惑かけてるって、連絡もらって…会う事にしました。」


「…誰から…?」


 あたしの問いかけに、高津さんは小さく笑って。


「あの会社には、瞬平よりもっともっと長く、二階堂から行ってる人間がいるんですよ。」


「えっ…」


「瞬平は知りませんけどね。」


「…そうなんですか…」


「ちなみに…」


「?」


「もう、貴女には話していいと言われてるので…打ち明けますね。」


「…何でしょう…」


「西野も、二階堂の人間です。」


「……………え…?」


「生きてます。」


「……………」


 口が、『え』の形になったまま、動かなくなった。


「ただ、彼は色々しくじったので。」


「…し…」


「何をしくじったか、ですか?」


 もう…

 何を聞いても…

 驚かない…

 いや、きっと驚く…


「捜査対象の女に正体がバレたんです。」


「……」


 それは。

 きっと。

 椎名さん…


 つい、額に手を当ててうなだれてしまった。

 確かに…

 こんなに人を騙したり騙されたりのような世界にいちゃ…

 精神的に…


「それに…西野は貴女にも夢中になった。」


「……」


「貴女は不思議な雰囲気をお持ちですね。」


「…ごくごく平凡だと思いますけど…」


「いえ…毎日が闘いの世界にいると…きっと、貴女のような柔らかい雰囲気の女性に癒されたくなるのでしょう。」


「…のんびりしてるように見られますが、意外と口が悪くて大食らいです。」


 あたしの言葉に、高津さんは肩を揺らして笑った。


「…志麻さんも、あなたに骨抜きにされてました。」


「……」


「今会わないと、二度と会えなくなりますよ?」


 高津さんはあたしの顔を覗き込んで。


「どうか…会って、行かないで欲しいと言って下さい。」


 あたしに少しだけ頭を下げた。


「あの人は、二階堂に必要な人です。ドイツではなく、ここにいるべきなんです。」


「…ドイツに…行くんですか?」


「はい。」


「それは…泉ちゃんに護衛を…」


 あたしの言葉に高津さんは小さく笑って。


「あれは…いや、でもそれも本人から聞いて下さい。」


 そう言って背筋を伸ばした。



「…一つ…聞いてもいいですか?」


 あたしはうつむき加減で問いかける。


「はい。」


「…真島…えっと…お兄さんが言われてたんですけど…」


「はい。」


「…その…しー…志麻さんとは兄弟のように育ってきて…」


「そうですね。」


「…大事な物は、全て共有して来た…と。」


「大事な物?」


 ああ…こんな事聞くなんて…


「…恋人とか…」


「……」


 あたしの言葉に高津さんは一瞬目を細めて。

 次の瞬間…


「……ぷっ…」


 ふきだした。


「あっ…ああ、すいません…ふふっ…あいつ、そんな事言ってましたか…ははっ…」


「…笑うって事は…違うんですか?」


「違いますよ。ただ、狭い世界で生きてきたので、好きになる相手も似てしまったりはしましたね。」


「…好きになる相手…だから、恋人も…?」


「瞬平は、志麻さんに憧れてるんです。」


「……」


「憧れが、強すぎたんでしょうね。彼が好きになる物は、全部好きになる。」


 高津さんの視線は、遠くに見える街並み。


「高津さんも…そうでしたか?」


 あたしも街並みに目をやりながら、問い掛ける。

 そう言えば昔、まだ華音と部屋が一緒だった頃。

 華音が聴くバンドは、あたしも全部好きになってた。

 …そういうのとは…違うのかな。



「…そうですね。瞬平ほどあからさまではありませんでしたが、好みは似ていたと思います。」


 高津さんはそう言って笑って。


「だから、志麻さんが骨抜きにされて、瞬平も好きになった貴女を…こうやって話していると、俺も好きになりそうな予感はありますよ。」


「え…」


 あまりにもあっけらかんと、そう言われて。

 たくさん瞬きしてしまった。


「そうならないためにも、提案を一つさせて下さい。」


「…提案…?」


「今から、志麻さんにお会いになられませんか?」


 高津さんの言葉に、あたしは座ったまま彼を見上げる。

 今…何て言った?


「…それは…」


「時間がないんです。」


「…でも、あたし…」


「何をそんなに悩まれてるんですか?」


「…色々、複雑なんです…」


「好きか嫌いか。それだけで決めていいんじゃないですか?」


「……え?」


「色々考えるから、複雑なんです。好きか嫌いか。まずはそれだけでいいでしょう。」


 高津さんの言葉は、すごく単純だった。

 好きか嫌いか。

 それだけで決めていい。


 …好き。


 しーくんの事、好き。


 あたしがゆっくり立ち上がると。


「行きましょう。」


 高津さんは、優しく笑った。


「あ…でも会社が…」


「ああ、もう早退しちゃいましょうよ。」


 高津さんは携帯を取り出して。


「あ、もしもし。高津です。桐生院さん、早退させていただきます。」


 誰かに連絡を取った。


「ああ…分かってましたか。さすがですね。ありがとうございます。」


 …え?え?


「だ…誰に連絡を?」


 携帯を切った高津さんに問いかけると。


「言ったでしょう?あの会社には、他にも二階堂の人間がいるって。」


「…うちの部署に?」


「はい。もう分かってたみたいです。時間休じゃ足りないと思ってたそうですよ。」


 あたしの口は、またまた開いたままになった。



 …課長ーーー!?





「ここって…」


 高津さんに連れて来られたのは、以前しーくんと来た…夜景の見える場所。


 まだお昼。

 明るい時間に見える街並みは、あの夜に見たそれとは全然違っていた。


「少し黙っててくださいね。」


 高津さんはそう言うと。


「志麻さん!!大変だ!!咲華さんが…!!」


 えっ。


「早く来て下さい!!R1Z5WW8に居ます!!」


 あ…R1Z5…?


「さて。何分で来られるでしょうね。」


「え…っと…あの…」


 下から吹き上げてくる風に、高津さんの前髪が揺れた。

 かすかに…だけど。

 額にうっすらと、傷痕が見えた。

 つい…そこに注目してしまうと、高津さんはそれを隠す事なく。


「これ、三年前の現場でついた物です。」


 前髪をかきあげて、指差しながら言った。


「銃の弾がかすっていきました。」


「…銃…」


「信じられない世界ですよ…毎日死ぬか生きるかですからね。」


「……」


「…貴女のためには、二階堂の人間と関わらない方がいいって言うべきなんでしょうけど…」


 高津さんは前髪をおろすと。


「毎日、そんな闘いの中で生きてる志麻さんのために…そばにいてあげて欲しい。」


 少しだけ目を伏せて言った。


 二階堂は特殊な現場ばかりを取り扱う。

 だから危険を伴う仕事ばかり。

 ずっと昔、陸兄がそう言ってたのを聞いた。

 だけど、本家の人達は華月と温泉に行ったりするし…

 泉ちゃんは聖と付き合ってるっぽいし…

 …何より…

 一緒にいた頃のしーくんは、本当に…普通の企業で働いているかのような男性だった。


 毎日…命を懸けて闘って、あたしの元へ来てたと言うの?

 笑いながら、大盛りの親子丼食べてたって言うの?



「…まあ…こんな仕事、理解できませんよね。だから…どうしても同業者がパートナーになる事が多いです。」


 高津さんは街並みを見下ろしながら、そう言った。


「…俺はこれで失礼します。今日は久しぶりに二階堂に戻りましたが、やはりもう世界が違うと感じました。」


「……」


「新しい世界で頑張ります。どうか、お元気で。」


「…ありがとう。」


「兄がご迷惑おかけしました。志麻さんの事、絶対引き止めて下さいね。」


 高津さんはニッコリ笑ってそう言った。


 そして…

 高津さんが去って、一分も経たない内に…


「サッカ!!」


 すごく慌てた感じで…しーくんが現れた。


「あ…」


「サッカ、大丈夫か!?」


 しーくんはあたしの体を上から下まで見て。


「…無事…なんだ…?」


 肩で息をしながら…


「…良かった…」


 あたしを、抱きしめた。


「…し…」


「ごめん。今は…こうさせて。」


「……」


 しーくんに抱きしめられて。

 あんなにモヤモヤしたり、ドロドロしてた気持ちが…

 ふっ…と消えた気がした。


 しーくんの背中に手を回して。

 しーくんの胸に顔を埋めて。

 あたしは、そっと目を閉じた。


 あたしを抱きしめるしーくんの腕。

 …元気でいてくれた…

 危険と背中合わせである事を知らされて、あたしは今この瞬間を泣きそうなぐらい愛しく感じている。



「…すみません…」


 しーくんが、ゆっくりとあたしから離れた。


 …すみません?


「…つい、動揺してしまって…」


「……」


「高津と、会ってたんですか?」


 …敬語…


 あたしは少しだけ…唇を噛みしめて、しーくんを見上げた。


「…全部…聞いた…」


「……」


「あ、違う…全部じゃない。」


「…ご無事なら…いいんです。今日、お仕事は…どうされましたか?」


「…本当に、そんな事が聞きたいの?」


「え…?」


「気にならないの?あたしが…高津さんから何を聞いたか。」


 あたしは、しーくんから目を逸らさなかった。


 好き。

 やっぱり…

 好き。


 会わない間、あんな終わり方をして辛いと思った。

 もう、忘れるはずだった。

 でも忘れられなくて…

 これから先、誰かを好きになる事なんてできるんだろうかって。

 そう思うぐらい…

 あたしの気持ちは、しーくんに向いたままだった。



「そりゃあ…もういいって言ったのはあたしだけど…」


「……」


「合鍵も、ネックレスもゴミ箱に捨てたのはあたしだけど…」


「……」


「色々複雑に考え過ぎて、もう…ダメだって思ってたけど…」


「……」


「高津さんに、好きか嫌いかしかないって言われたら…」


「……」


「そんなの、あたしは、しーくんの事す…」


「サッカ。」


 ギュッ


 ずっと眉間にしわを寄せて、両手を握りしめてたしーくんが。


「好きだ…。」


 あたしをギュッと抱きしめて…


「好きだ…サッカ…」


 耳元で。


 繰り返した。

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