第5話 母親の顔と流れる時の砂
「やっぱり思い出せないよ!」
私は頭を抱えて叫んだが一向に新たなイメージは湧いてこなかった。
既に青年よりも若返って見える彼は私の両肩に手をかけて必死に言葉を続ける。
「心を揺り動かせ。最期に言えるのは、それだけだ。」
「あ……。」
「……。」
「雨の午後……。」
何か閃くような言葉が微かに頭を駆け巡り、少しだけ自分が覚醒したように思えた。もし、このまま何事も無かったのなら記憶の重苦しい蓋がゆっくりとだが確実に開いたかもしれなかった。
けれどそんな閃きは悪魔の知恵だと決め付けるように事態が急変した。隣を見ると少年の輪郭が薄っすらとし始めて、白い空気のような膜が輪郭を止めているだけだった。
「あなた大丈夫!」
私は彼の肩を抱こうとしたが、その手は空しく宙をかいただけだった……。
「もう駄目かもしれない。だが手はまだある――僕がこのまま消えるなら、最期に君の記憶も消してしまおう。そうすれば君まで消える事はなくなる筈だから……。」
少年はしきりに懐の懐中時計を気にしている。
私はその懐中時計の裏を見据えながら、私たちに許されている時がほどんど無い事を感じた。
私は泣きそうになって少年の苦しそうな表情から一時も目が離せない。
「ああ、神様。」
私は知らぬ間に手を組合わせ祈っていた。
そんな私を安心させるように僅かに微笑みながら年下の少年は、手を伸ばし、その消えかかる手で私の手を握った。
「さあ、目を閉じて、こんなに苦しい思いは永遠に消し去ってしまおう。そうすれば君は消えてしまわないから……。」
その少年の瞳は儚げで、胸が締め付けられるように痛々しかった。それは私の心を、なぜか打つモノがあった。
もう私にはこの少年が誰だかわからなくなっている。
けれど、その瞳には見覚えがある。
それは、私が今まで見送ってきた数多くの命が消え逝く最期の閃き、命の炎が消えてしまう間際に見せる儚い最期の発光……。
それらの物言わぬ静かな言葉の多くは私の胸の中に綺麗に仕舞われている……。
あれは、水槽に浮かぶ腹を上に向けた金魚が外界を見つめるぎこちのない瞳。
あれは、初めて飼った愛犬が亡くなった時の瞳。
あれは、祖母が亡くなる刹那に見せた、儚い笑顔の表情。
そして、見える筈も無い、私のかりそめの母の死に顔。
それは、まだ私が見た事の無い本当の母親の永遠の微笑み。
わたしは……。
「わたしは、本当の母親を知らない。わたしが生れた時、亡くなってしまったから。私と母は瞬きするほどの間しか時を許されなかった。本来は知らない母親の豊かな表情、写真で見た偽りの幻想は、わたしに母の表情を知らせたが、やはり心は満たされない。いくら精巧に出来ていても、そのまま、在りのままを写していたとしても鏡に映った自分の顔と同じで、本当の素顔はわからない。わたしは母の笑顔をいつも想像する。けれど、いつも上手くいかない。あと少しだけ足りない。自分ではもうこれ以上、何も分からない。何も思い浮かばせられない。
わたしは大切な何かを――あの時、わたしが生れたあの日に忘れてしまったのだ……。生まれたばかりのわたしの酷く曖昧な記憶には確かに彼女が微笑んだ姿を見ていた筈なのに……。」
わたしの記憶は生まれた記憶を覚えていた。
それは長い間忘れ去られていたけれど、こんな時にならなければ思い出せない意味の無い封印のような記憶の脆さだった。
けれど母の素顔は切り取られたように、そこに何も無かった。
在るのは吸い込まれるように美しい闇だった。
それはこの世にあるすべての闇を凌ぐ深い闇だった。
まるで深く落ち込んだ闇の奥底にある黒曜石の原石のようだった。
わたしは誰も居ない列車の中で泣いていた。
すでに誰も何者であることも出来はしない、こんな世界で泣き続けていた。
隣に居たあの少年は、私に最期に微笑んだようだった。
消えていく、時の中で、まるで自分の時を失うようにいなくなってしまった。
消えた彼の体は今、何所に在るのか……。
私は白けた東雲のように、まわりを包む白い霧のような世界で列車の中に居る。列車も徐々に色を失い、輪郭だけを残し消えてしまった。その儚い輪郭さへも何所からか訪れた黄色い蝶が僅かに触ると硝子が細く砕けて塵に帰るように私の座る椅子を残して後は消えてしまった……。
けれど別に気になることはなかった。
この世界は、もう終りなのだろうか、それとも初まりなのだろうか……もうどちらでも良かった。
終りの初まりも終りを静かに告げている、このまま消える世界に根を下ろして、静かに私も消えよう……。
ふと、そんな気持ちが私を包んだ。
今では懐かしかった、故郷の風景も心から消え失せて、私が何者かもわからなくなった。
あの混沌としていた世界が少しだけ懐かしい。
浮かぶのは曖昧な輪郭だけ……。
詳細な記憶など何も思い出せない。
本当は私には何の記憶も初めから無かったのかもしれない。
けれど、そんな心の端で何か思い出そうとしている自分がいる。
本当は必死で記憶を探している自分がいるのがわかる!
だが、この世界は静寂だった。心が救われている。清い部分だけが私の胸を満している。一片の黒い感情も卑しい嫉妬の心も、自虐の心すら無く、ただ清浄な思いだけが私を包んだ。
それはすべて満ち足りた安寧の巣だった。
ただ、満たされた感情が、わたしを楽にしてくれる。
もう何の不安もない。
もう何も考えなくても良い。
この曖昧な感覚が妙に心地良い。
考えることさえ億劫になってしまう。
あの、少年の顔も既にぼんやりとしている。
隣に在った事が遠い思い出のようで不思議な気持ちだ。
でも、どうしてあの子の事が気になるのだろう。
隣に座っていただけの、あの子に何をわたしは感じたのだろう。
そういえば、あの子の名前を聞いていなかった。
なんとなく横文字が似合いそうな、あの子は例え漢字の名でも発音がどこか他の子とは違う気がする。
そういえば、あの子の最期の言葉は何だっただろう。
「……ろ。」
不意に一陣の暖かな心地よい風が舞うように入ってくる。
そのとき言葉が聞こえた気がした。
けれど、それは空耳だ――そう思った。
私は作り物のように動かなかった自分の首を僅かに振ると、また元通りの格好に戻った。
「……ころ。」
誰かが私の直側で何かを囁いている。
「だれなの? 私は、この白い世界で、いつまでもいたいの。いたいだけなの。邪魔をしないで。お願い。」
「……こころ。君のこころ。」
今度は良く聞こえた。
けれど、それは言葉ではなかった。
イメージに似た自分の心の声に近い。
そう思えた。
でもわたしの『こころ』って何の事だろう。その声は私の内部から聞こえたものだと分かって驚いた。
「誰?誰なの?」
「誰だって良い。思い出せ。君の本当の気持ちを!」
「本当の気持ち?」
「そうだ。キモチだ。そこにすべてが入っている。この世界の事もすべてのカラクリも、皆、君の心の内に息づいている。」
「私の心の内に?」
「そうだ、まだ今は……。」
声は弱々しくなって消えてしまいそうだ。
「おしえて。」
「……君のいちばん好きだった人を思い出せ。これ以上は僕にもわからない……。」
「好きだった人? 私は……。」
私は急に不安に包まれて恐ろしく困惑した。
先程の永遠に続くような安寧の心は幻のように消え去って、絶え間ない不安が私を包み込んで放そうとしない。
それは不安がやらなければならない義務である様に……。
普段気付きもしないけれど陥ったら抜けらない永遠の夜のように私を限りなく優しくけれど無常に残酷に抱きしめる。
私は座る場所を探しもとめるように辺りを静かに歩き回った。
もう片時も落ち着いていられない。
不安のない世界は脆く儚かった。
揺るぎ無い世界は本当にあると思い込んでいただけだった。
安定だけの世界は有り得ない。
安定して見えるのは在りのままを見ていないから思えるだけの見せ掛けだった。
こんな世界の終わりの間際でさえ、そんな気持ちが私を包み込んだことが唯一の証のように感じられ、それは押し付けられた絶対の答えのように私に圧し掛かってくるようだった。
先程の声の主は黄色い蝶だった。
肩に止まっていたのを見つけて私は手に包んだ。
私は不安に打ちのめされながら世界に残る自分以外の最後のひと欠片を見つめると僅かに触覚が小刻みに動き、自分が世界に取り残された最期の一欠けらになるのを間逃れた。
ほっとしたのも束の間、私は叫ぶように泣きながら
「私はどうしたら良いの! どうすれば良いの! 私を連れてきたのは貴方でしょうが……。ううぅわあぁぁぁ……。」
最期は慟哭のように叫んでいた。
草木は色を失い。
輪郭を無くした。
世界は私を中心にして白く何も無い世界に繭の様に包まれていた。私が下を見ると地面と思っていたモノも色を無くし、その下には永遠に続くような真っ白な果てしない空間が底も無く横たわって見えた。
私は世界が消えてしまえるのだと、本当に無くなってしまうのだと確信してしまった。
見ると手の上の蝶も何時の間にか死んでいた。
それは唯一の最期の真実の死のように私の心を殺そうとした。
蝶は色を無くし輪郭を残すとそれも砂のように消え去った。
蝶を抱いていた掌が透けて見え始めると私の身体は色を失い。
輪郭は周りの白い世界に溶け込むように区別はつけられなくなり、身体の一部であったモノは細雪のように虚空へ散らばっていった。それは粒子の引き合いのように美しい幻想だった。
奇妙な事に消えてしまいつつある自己の一部を我が目で見るという不可思議な現状は現実感の無い夢のようで恐怖などというあたり前の感情よりは「なるほど」と妙に納得するような感覚が近かった。私の身体は何かに引き付けられるように見えなくなっていく。
「私は消えるのだ。」
そう思うと絶対的で逃れられぬ絶望が気持ちを塗りつぶした。
けれど一方で自己と外界とが境の曖昧さを持ち始めると消えてしまった自己の一部も感じることが出来る。
それは世界の至る所に自己が存在できるような、もっと明確に言ってしまえば世界のいかなる場所、時刻にも存在できるような錯覚を覚えさせるのだった。
しかも、私は人という概念も無くなってしまったように感じた。
そんな感覚は残っている人としての部分がそう捕らえているに過ぎないのだろう。何が起きているのかはっきりとは認識できない。
私はそんな風に考えて静かに目を閉じると周りに広がる白い世界とまるで逆の真っ暗な闇が目の奥に広がって見えた。
それは私が闇底に陥ったようで妙に安心できたのだった。
闇はすべてを包み込む。
闇の世界はすべてをゆっくりと抱いてくれた。
その時、私は不安なはずの闇が唯一、不安を忘れさせてくれた。
それが束の間の僅かさで幾つもの偽りを含んでいたとしても。
「ああ、最期の刻が満ちる。時が零れ落ちてしまう……。」
その時、私の身体が花びらのように散り去るのを感じた。
妙な感じだった。
砕かれて融け去る自己に不安はなかった……。
勿論、その先に揺るがない安寧などある筈もなかった……。
ああ、言葉が、底の無い満ちることの無い広い空間にゆっくりと吸い込まれていく、まるで砂時計の白い砂が流砂に流れ込んでしまうように……。
もう誰の言葉も聞こえない。
あるものは私の薄れ逝く意識と隣を流れる。
あの言葉だけだ。
「無くなってしまう永遠に。」
最期の言葉を声無き声で呟くと静かに微笑んだ気がした。
私が最期に生み出した言葉も刹那に星屑のように消えてしまっただろうか……。
私には最期までわからなかった。
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