日常怪奇譚
足袋旅
夜道
私はある日、怖い体験をした。
呑み屋で働いていたのだけれど、その日は遅くまでお客さんが途切れず入る大盛況で、必然片づけ終えたのはかなり遅い時間だった。
同僚に「お疲れ様でした」と別れを告げ、帰宅したのは深夜三時頃。
いつも通り、徒歩で帰宅する。
大体三十分くらいで家までは着く。
夜道というのはなんとも不思議で、昼間であれば多くの人通りがある道も閑散として、ほとんど人とすれ違うこともない。
これが都会であれば違うのかもしれないが、私の住む地域ではそうだった。
この時間が私は意外と好きだ。
一本でも大通りから外れると、まるで世界に自分しかいないような感覚があって、楽しい気分が味わえる。
客商売ということもあり、人とのトラブルが多いせいで解放感を得ているのかもしれない。
人が多くない日に登山とかするのが良い趣味になるかもな、なんて考え事をしながら、今日もそんな人通りの少ない方の道を歩いていた。
そんな時だった。
ふいに後ろから、自分ではない誰かの足音がして、思わず肩が跳ねる。
別段珍しいことでもないのだが、女性の一人歩き中に後ろに誰かがいる気配というのは怖い。
変質者というのはどこにでもいるもので、私は今までに変質者にあった経験は無いのだが友人の体験談は聞いている。
一度ゆっくりと振り返ったが、誰もいなかった。
気のせいだったかもしれないと前に向き直る。
だがまた誰かの足音がした。
後ろの音に意識を向けながら、歩調を変えずに歩く。
もう一度振り向くのはなんだか抵抗があった。
もし先程は見落としただけで、後ろに人がいたのなら早足で私を追い抜いて欲しい。
それはそれで近づいてくる音が怖いのだけれど、ずっと後ろにいられるよりはマシに思える。
けれど誰かの足音は、私と同じペースで歩いているようだった。
不安が増す。
すぐに大通りに繋がる横道へと曲がり、少し早歩きで大通りに出るとすぐにコンビニがあったので中に入った。
明るい店内と、見当たらないが店員がいるだろうことへの安堵感で息が漏れる。
買う物もないので、ただ店内を一周し、雑誌コーナーで少し外を
酔っ払いだろう男性が、千鳥足で前を横切って行った。
今の男性の足音だったのだろうか。
分からないがとりあえず外に出ることにした。
家まではもう十分程度の距離だ。
コンビニを出て、少し気にしながら歩いていると、すぐにまた後ろを歩く音がした。
再度振り返る。
今度は立ち止まって、後ろを確認した。
誰もいない。
肌が粟立つ。
前に向き直り、歩き出すとまた足音が響く。
私は小走りで家路を急いだ。
誰かの足音も追って来る。
走りながら鞄の中に手を突っ込み、家の鍵を握りこむ。
程なく私が住むアパートの外観が見えてきた。
そのままエントランスに入り、二階に上がり、急いで鍵穴に鍵を差し込もうとする。
焦りで何度か失敗したことに「ああっ、もうっ!」と悪態を吐きつつ、なんとか鍵を開けると急いで中に入った。。
鍵をかけ、玄関の
息が乱れてしまった。
少し落ち着いたら部屋に入ろうと考えていると、玄関扉をノックしたようなコンコンという音がした。
深夜三時を過ぎた時間。
こんな時間の来客なんてありえない。
恐怖で息を潜める。
まだ整っていない呼吸を止めたので、少し苦しい。
コンコン
またノックの音。
「ヒッ」
と小さく悲鳴が漏れる。
慌てて口を押さえる。
一度静かに息を吐き出し、吸い込む。
冷や汗が背中を伝うのを感じながら、ゆっくりと体を起こす。
玄関扉に静かに手を当て、ドアスコープへと顔を近づける。
確認なんてするなと心の中で声がするが、確認しないのも怖い。
ドアスコープを覗く。
歪んだ狭い視界には、廊下と向かいの部屋の玄関扉が端に映るだけで誰の姿もなかった。
ゆっくりと目を離し、恐る恐る玄関から離れる。
コンコン
再度の音に、私は部屋に急いで入り布団にもぐりこんだ。
化粧も落としていないし、服だって着替えていない。
でもそんなこと気にしていられなかった。
布団の外に体が一部でも出ないように丸まった姿勢を取る。
しばらくは寝つけなかったが、仕事の疲れもあってかいつの間にか寝ていた。
一週間後、出勤した時に同僚に体調の心配をされた。
化粧でも隠し切れない程、私の目の下の隈が酷いらしい。
当然だ。
あれからというもの、出勤帰りに毎回同じ目に遭っている。
もう人通りが少ない道は通っていないのにだ。
かといって「心霊体験をしているから休みます」なんて、いい歳をした女が言えるわけがない。
迷惑をかけないようにと気合をいれつつも、今日も同じ目に遭うかと思うと気が気でない。
そんな中ホールに立ち、あるお客さんの接客をした時だった。
「お姉さん。今心霊体験で困ってるでしょ」
新規のお客さんということで、飲み放題の説明をし終えたタイミングでそんな言葉がかけられた。
二十代前半くらいの男性で、独り呑み。
左耳に多数のピアスを付けているのが特徴で、あとは髪型は短くワックスで動きをつけている。言ってしまえばちゃらそうな印象。
そんな人からまさか心霊体験なんて言葉が出るとは。
「そんなことないですよ」
と最初は否定した。
けれど商品提供の際に、「僕は専門家なんだよ」と名刺を渡された。
肩書きは『心霊アドバイザー』で、名前は『
「胡散臭いでしょ。でも本当に力になるよ」
どこか人を安心させる笑顔に、私は「本当は困ってることがあります」と打ち明けた。
さすがに接客中に悩み相談をするわけにもいかず、休憩時間になったら連絡することを約束した。
私が休憩時間になる前に、彼は会計を済ませて帰って行った。
その後、約束通りに電話を掛けた。
「待ってたよ。じゃあ早速話してもらっていいかな」
誰にも話していなかった心霊体験を、最初はゆっくりと、だが恐怖を感じる後半は一気に伝えた。
相談できたというだけで、少し心が落ち着いた。
でも解決したわけじゃない。
「なんとかできますか」
藁にも縋る思いで聞いた。
「大丈夫。僕は専門家だからね。退勤時間を大体でいいから教えてくれるかな。今日にでも解決しちゃおう」
彼は自信ありげにそう言った。
混雑しなければ、二時頃だと伝えて電話を切った。
ちなみに料金は一万円と提示された。
それで解決するなら安くないけど構わない。
閉店後、着替えて店を出ると「やあ」と片手を上げて三島さんが声を掛けてきた。
「よろしくお願いします」
「うん、任せて。じゃあ普段通りに帰りましょうか。だけど二つ、絶対に守って欲しいルールがあります」
指を二本立てて、そんなことを言う。
「ルールってなんですか」
「簡単だよ『いい』と言うまで振り向かない。それと僕に話しかけない事。それだけ守れば、今日にでも解決するよ。幽霊には気付いていると思わせないことが肝心なんだ。守れなかったらずっと怖いことが続く。いいね」
優しい声から厳しい声に途中で変わる。
顔つきも真剣だ。
黙って頷いた。
「じゃあ行きましょう」
彼の声で、帰路を進み始める。
足音が後ろからしても昨日までの恐怖感ではなく、彼のものだと分かっているそれには安心感があった。
そして私を悩ませる足音がし始める地点になった。
足音が一人分、増えた気がする。
始まったと伝えたい。
でもそれはルール違反だ。
黙々と進む。
だがいつもより家までの距離が遠い錯覚に陥る。
振り返りたい。
どうしてかそう思う。
振り返りたい。
耐えて進む。
振り返りたい。
家が見えた。
振り返りたい。
肩に手を置かれた。
大きな男性の手。
もういいという合図だろうか。
首を後ろに向け…、嫌な感じがする。
肌はずっと粟立っているのに、より寒気がした。
三島さんは何と言っていたか。
『いい』と言うまで振り向くな。
確かそう言っていた。
私に触れる必要があれば、彼はそれも伝えたんじゃないだろうか。
じゃあ今、私の肩に触れている手は誰の手だろうか。
振り向きたい。
さっきから私が振り向きたいと考えてしまうのはどうしてなのか。
振り向いたら終わりと何度も心の中で言い聞かせる。
「もう『いい』よ。良く耐えたね」
そんな声がした。
この声は三島さんだと思う。
でも本当に振り返ってもいいか分からない。
そんな風に考えていると、私の横を通って三島さんが前に回り込んだ。
「ごめんね。そりゃすぐに振り向けないし、喋らないよね」
苦笑しながらそんなことを言う。
私はその顔を見て、安堵感から涙が溢れた。
ハンカチが差し出され、ありがたく涙を拭かせてもらう。
深夜ということもあって、その後「家に上がってお茶でも」という私の言葉に「この時間にお邪魔するのは」とちゃらそうな見た目に反して固辞された。
玄関前で謝礼を払う。
その際に今回のことの説明を受けた。
心霊現象というのは、気付かれたいと思っている霊に反応を示すことから始まるそうで、今回はそれが振り向くという行為だったそうだ。
不安や怯えを見せると、より気付いてくれていると実感しエスカレートする。
そうして悪化していくのだけれど、途中で素知らぬ振りをすると存在を濃くして反応を誘うそうだ。
解決するにはその瞬間が狙い目で、今回は私の肩に触れたタイミングがそれだった。
「力のある霊媒師なら、そんなことは関係なく祓えるだろうけど、僕は半人前だから」
そう苦笑しながら言っていた。
今後のアドバイスも貰った。
夜道で振り返るのは今回初めて振り返った場所では絶対にしないこと。
そこ以外はいいらしい。
「変態も怖いからね」
その言に久しぶりに声を出して笑った。
私の顔を見て、彼は微笑むと去っていった。
これが私の生涯一度きりの恐怖体験である。
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