彩ふ夢の僕と愛
花散里
第1話 夜の色,夢の色
私が私を僕と呼ぶとき、その瞳は少しだけ悲しい色になる。それでも僕は満足だった。たとえ貴方に愛されなくても。たとえ誰かが私を愛しても。
「グラス空いてるよ?何飲む?」
「もう十分。明日早いって言わなかったっけ」
「大丈夫だろ。ほら、好きなの選んで」
この人の少し強引なところが好きだ。悪い男。都合のいい女。お似合いでしょう?くだらない駆け引きも誤算だらけの計算も美味しかったわ、ご馳走様。ところで大切なお話があるの。聞いてくれる?
駅名の後ろにスペースと"安い"の二文字。店を調べるときはいつもそうだった。ドリンクメニュー越しに見る彼の顔は赤らむこともなく、人に飲ませようとするならまずは自分が飲んだら?と思わず言い返してしまいそうになる。
「……ジントニック」
「そればっかだな。好きなの?」
「好き」
アルコールの所為で火照った体温が思考を溶かす。好き。貴方の顔が好き。貴方の声が好き。貴方の仕草が好き。
「ここのは安いのに美味しいし」
「当たり外れあるもんな」
「シンプルだからこそ騙せないのよ」
彼は通りかかった店員を呼び止め注文する。カウンター席には数名の大人達。薄い衝立で目隠しされただけの個室をわざわざ予約したのは牽制と挑発のつもりだった。
「ねぇ」
「何?」
「……あれから何もないの?」
「あれって」
「あの子と。何も進展してないわけ?」
「うん」
好きな男には好きな女がいます。女には彼氏がいます。つまらない展開。いまさら何の味もしない。ただしこれは砂糖抜きのチョコレート。媚薬中毒。食べてよ、僕のこと。
「……こっちおいでよ」
「え?」
「こっち」
ふらりと立ち上がると酔いがまわる。崩れこむように隣に腰掛ける。二人で座るには狭い。ちょうどそこに頼んだグラスが運ばれてくる。店員は何も言わない。僅かに残った羞恥心が痒む。
「……んん、美味しい」
冷たい甘さと鮮やかな香りに頬が緩んだ。炭酸は苦手。
「飲むの遅すぎ」
「炭酸が駄目なの」
「ほら」
彼の手がグラスにかかる。自分の意思と裏腹に口元へと運ばれていく。首元まで濡れた。喉が焼けるように滲みる。
「ちょっと!アルハラで訴えるよ!」
へらへらと笑う彼は首にこぼれた雫を拭う。それからそこに頭を寄せる。
「何、してるの……離れて」
「いい匂いする」
「貴方がこぼしたからでしょう」
「ううん。お前の香り」
上手く言葉を選べない。お願い。僕の話を聞いて。何から話そう。熱い息がくすぐったい。やめて。おかしくなる。
「そんなにくっつかないでよ……お店、なんだから」
「ねぇ、こっちの耳に喋るとどうなるんだっけ」
「……どうもっ、ならな、い」
舌足らずな自分の声が頭の中に響く。それを掻き消すように右耳に届く言葉達。
「右耳の方がよく聞こえるから?わかりたくないこともわかっちゃう?」
「なんで覚えてるの、そんなこと」
「それって『私耳が弱いんです』って言いたかったんだよねぇ?」
このまま唇を塞いで。服を乱して明かりを消して。二人の体温を同じにして。たまには首を絞めるようなふりもして。何十回夢を見ただろう。いざこうして誘われると怖くなる。だってあの色が見えるから。
「やめて、ほんとうに……」
「もうすぐ電車もないんだしさ。こんなに酔ってて一人で帰れる?」
「飲ませたのは」
「飲んだのは誰?」
いつものように意地悪く逃げて。そんな貴方が好き。好き。このまま夜を過ごしたら僕は壊れる。
あの色は目覚めの知らせ。夢の中で愛し合い、私は私を僕と呼ぶ。すると色が変わる。あの色の名前を僕は知らない。
「さいてい」
「え?何?」
腰に回された手に気付かないふりをする。この人はきっとわかっている。好意も、断れない性分も。
勝手に想像をして、勝手に傷ついて、人間はなんて無駄なことばかり出来るのだろう。
グラスを手に取る。まだ半分以上残っていた。それを何回かに分けて流し込む。炭酸の妙な圧迫感が苦しい。それ以上に濃いアルコールの麻酔が視界を歪める。
「……まだすきだっていわれた」
「そんなに急に飲んで平気なの」
小さな呟きは彼に届かなかった。
「まだ、私のことすきだって言ってくれたの」
「…………それで?」
尾骨から背骨に沿って撫でられる。腰の奥がぞくりとした。泣きそうになる。
「……私にはむり、だと思う」
「ふぅん」
「あの人の思いを受け止めきれない」
どうでもいいんだろ。わかってる。ああ、このまま本当に誘いに乗ってしまったらどうなるだろう。都合のいい女から突然『僕のことを抱いて』だなんて言われたら彼は?僕は、僕はきっと__あの色に汚く染まるだけ。
「ねぇおねがいがあるんだけど」
「うん?」
「……すごく酔ってるのね、いま、わたし」
「知ってる」
「酔うとたまに…………僕って言うの」
「え?聞いたことないけど」
彼は笑う。心地よく耳に馴染む笑い声。
「がまんしてた。だから、きにしないで」
髪に温もりを感じた。卑怯だ。頭を撫でるなんて常套手段。「わかった、気にしない」と彼は言い、「そろそろ出ようか」と続ける。
心臓がある、とはっきり分かる。脈が野次を飛ばす。
「立てる?」
「たてない」
「じゃあほら」
好きでもないくせに。優しくするなよ馬鹿。差し出された手を握るなんてもっと馬鹿だ。
「ねぇ」
「ん?」
これで満足?
「僕のこと、抱いてよ」
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