凄腕シェフはラノベ作家志望

広川咲

第1話 ラノベとの出会い

「三番テーブル、魚料理急いでください」

「五番テーブル、スタートおねがいします」

厨房内は常に喧騒状態。フライパンのコンロをたたく音、オーダーを知らせるホールからの声、今焼いている白身魚の油をはじく音など常に音が途切れることはない。

ホールも席に空きはなく、すべての席に俺の料理を食いに来た客でいっぱいだ。皿が出されるたびに歓声が上がり、俺はその声を聞くことなく次の客の料理に取り掛かる。

hero`sは今夜も大盛況だ。


「いやあ、今夜の料理も実に美味だった。」

「いつもありがとうございます。またのお越しをお待ちしております。」

今夜、最後の客を見送り、ようやく俺の仕事は終わりを迎えた。

一日中かぶっていたコック帽は汗で蒸れてしわしわになっている。コックコートも飛び跳ねた油やソースがぽつぽつと付着していて、これは念入りに洗わなければいけないと、少しげんなりする。

天井を見上げると、きらきらと輝くシャンデリアが客のいなくなったホール内を意味もなく照らし続けている。

「おつかれさまです、料理長」

声をかけてきたのは、この店を建てたときから働いてくれている山下さんだった。店を始めて以来、約五年もここで凝りもせずに働き続けてくれている。

「おつかれさまです。でも山下さんの方が年上なんですから、敬語は少しむず痒いですよ」

「なにを言ってるんですか。あなたがこの店の店長であり料理長なんですから、雇われている身の私が敬語を使うのは当然のことです」

なんど敬語は使わなくてもいいと言っても、こんな感じで毎回拒否されてしまう。こんな頼りない俺を頼りにしてくれているのはうれしいのだが、年功序列の社会の中にいた俺からすれば何とも言い難い。

だからせめて、俺も敬語を使うようにしているのだ。

「今日はもう上がっていいですよ。明日もよろしくお願いします。」

「もちろんです」

そういうと山下さんはロッカールームへと向かっていった。

「さて、俺も帰るか」

明日も朝は七時から仕込みを開始しなくてはならない。ヒュメのだし引き、野菜の皮むきとカット、肉類の掃除、と考えるのが嫌になるほどに仕込みの作業は多く、その分時間もかかる。ランチタイムはそれでどうにかなるとしても、ディナーの準備も残っている。俺の一日の時間配分のほとんどは料理のことで埋め尽くされていた。

しかし、それを嫌だと思ったことは一度もない。むしろ嫌だったのは下隅時代の何もできなかった時だ。一日中皿を洗い続け、包丁に一度も触れることなく一日を終える日も少なくなかった。

だからこそ今は充実しているといえる。

hero`sという自分の店を手に入れ、今は自分の考えだす料理を好きなだけ客に振舞うことができる。

33歳にして独り身の俺だが、現状になんの不満もない。むしろこの時が永遠に続けばいいとさえ思っていた。

openが外側を向いている札をcloseにひっくり返し、今日一日の俺の仕事はこれにて終了だ。時計を見ると、短い針が11に迫ってきている。早くしないと床につくのは日を跨いでからになってしまう。

誰もいなくなった店内を見渡していると、さっきまで客のいた椅子の上に何やら四角いものが乗っていることに気が付く。

客の忘れ物か。

俺はそれを回収するべく忘れ物のあるテーブルへと近づいて行った。

本か。

本来、コース料理のマナーとしては、わきあいあいとおしゃべりを楽しみながら他人に不快感を与えないようにする、というのが正しい。

だから、自分の世界に入り込んでしまい、なおかつ他人とのコミュニケーションを絶ってしまう読書はこの場においてふさわしくない行動といっていい。

手に取ってみると思ったよりも軽い、ブックカバーのつけられた文庫本だった。

学生時代は、読書を楽しむ余裕もあったのだが、最近はめっきり活字と触れ合う機会は減ってしまった。

久しぶりの感触に、この本の内容にも多少興味がわき、ブックカバーを取り外して中身を見てみることにした。

しかし、俺の期待は意外な形で裏切られた。

「なんだ、漫画じゃないか」

表紙には、現実にはいないであろう頭髪の色をした少年と、スタイルや目の大きさが異常な少女が描かれていた。

江戸川乱歩やコナンドイルを愛読書にしていた俺は、そういう文芸作品を期待していただけに肩透かしを食らった気分になった。

漫画も読まなかったわけではないが、この歳になってこんなものを読んでいては、周りから見た俺の印象が偏ってしまいそうだ。

とりあえずぱらぱらとめくってみるも、やはりイラスト続きで文字が異常に少ない。もういいや、と思い閉じようとしたとき、俺はあることに気が付いた。

あれ、これ漫画じゃなくて小説だ。

イラストが付いていたのはほんの数ページで、残りのほとんどのページには文字がぎっしりと詰められていた。

表紙を再び確認してみるが、やはりぱっとみには漫画にしか見えない。

とりあずこの本は、忘れ物として回収しておくことにした。


翌日、早朝から厨房にたった重国は、野菜の下処理を始めていた。

今日は月曜日で、昨日ほどの予約は入っていないが、やることはほとんど変わらない。山下さんたちが出勤してくるまでにすべての下処理と準備を終え、客がはいったらその舌を満足させる料理を作る。ただそれだけだ。

先月の洋食のコンクールに出した創作料理のおかげで、集客は上々。

40を過ぎるころには、胸を張って一人前といえる料理人になれるかもしれない。

ペティナイフで丁寧にニンジンの皮をむ、いてまた次の一本へと手を伸ばす。

こんな作業は下っ端にさせておけばいいことなのかもしれないが、あの時の苦しさを知っている俺は、この作業を極力他人に振らないようにしている。

これが終わればあとは、ブイヨンやヒュメたちが引き終わるのを眺めているだけだ。

数時間かけて引くこの作業こそが、ソースやスープの味を決める最大のポイントだ。できるだけ目を離したくはない。

とはいえ、流石にこれでは時間がもったいないな。なにか都合のいい時間つぶしはないものか。

ごそごそとカバンをあさっていると、見慣れない本が一冊紛れ込んでいた。昨日の客の忘れ物だが、保管場所がわからなくて持って帰ってしまったのだ。

特にやることもなかったので、一時間ほどの時間を読書で潰すことにした。


「おつかれさまです」

ドアがいきなり開き、コックコートに身をつつんだ山下さんがそこに立っていた。

「あれ、今日は早いですね」

「そうですか?いつも通りくらいだと思いますが」

時計を見てみると、本を開いてからすでに一時間以上が経過している。慌てて鍋を見るとあくが浮いていて、焦ってレードルを構えた。

「珍しいですね。重さんが料理のことを忘れるなんて」

山下さんの言うとおりだ。

この小説を読みだしてから、本以外のすべての視界が閉ざされてしまったかのように、夢中で読みふけっていた。

最初から強い主人公が、格下の敵を倒し、なぜか女の子にモてるというなんだかよくわからないなようだったのに、なぜか不思議とページをめくってしまった。

内容はいままで読んできた文芸とは明らかに違い、純文学とはよべないものだった。

しかし、不思議と読み進めてしまう何かがあり、俺もまたその何かにひきつけられてしまった。

漫画でもない、純文学でもない、これは…

社会に出てずっと料理漬けの人間だった川崎重国は、今日、料理以外で初めて夢中になるものと出会ったのだ。



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