落ちる
銀鮭
第1話 落ちる
そう、覚悟はできていた。
明日の新聞の見出しも想像できた。
『3月3日 桃の節句の大暴落! 男性がビルの屋上から……』
しかし最初、ビルのひさしに立ってみて、その圧倒的な高さに身体が震えた。
中腰になって重心を下げなければ、身体をひょいともっていかれそうになる。
高所には馴れているはずなのに怖さを感じるというのは、やっぱり今現在の精神状態が尋常ではないということなのだろう。
真下を覗くためには四つん這いにならなければ無理だった。
腹の中から込み上げてくる嘔吐をこらえて、覗いてみた。
確かに、この高さがあれば大丈夫だろう。
そう、万に一つの失敗もない。
ただ、直ちにダイブしないのは恐怖や未練からではなく、実行するにはまだ時間が早すぎるということだった。
地上にうごめくろくでもない人間たち──彼らがはびこらせた欺瞞や嘲笑、裏切りと暴力、結果として生じる不安、焦燥、苦悩、絶望……街そのものが薄汚い!
そんなヘドロの中へは飛び込めない。
せめて、夕日がそれらを掃き清め、闇がすべてをおおいつくしてから――。
煙草に火をつけた。
煙が更なる高みを求めて昇ってゆく。
珍しいことに、風はほとんどない。
街を歩いていてもらった和紙でこしらえた桃の花を落としてみる。
掌から離れたそれは、くるくる、くるくる……と回りながら落ちてゆき、いつしか視界から消え去った。
同時に、頭の中の心棒がコキンと外れて意識が遠のいていった。
──気がつくと、あたりは夜の闇に包まれていた。
ビルやタワーの明かりが、あたりにきらめいている。
眠気などなかったが、いつの間にか寝てしまったようだ。
やっぱり、体力的にも精神的にも限界が来ているのかもしれない。
3月の夜気は、まだまだ冷たかった。
少時の睡眠と冷気が正気をもたらせたのだろうか……。
一時の、落ち込んだ気分が少し持ち直していた。
どこかのビル窓から、ラジオの音声が流れてきた。
「午前2時15分現在、NYダウは前日を大きく割り込んでいます」
それを聞いて、くらっとめまいがした。
ニューヨークの株価が下がれば、東京はそれ以上に下がるだろう。
ラジオは次に臨時ニュースを流した。
「都内にポリバケツマンが現れ、汚物をまきちらして暴れています!」
最近、毎日のように現れる怪物たち――。
ともすれば人間は、心の凶暴さから怪物になってしまうようだ。
それらの退治は警察のすることだ。
警察がダメなら軍隊が出動する。
体力や精神だけでなく、これだけ経済的打撃を受ければもう私の出番はない。
しかし、ダイブなんてやっぱり無理なことだったようだ。
私は、方法を間違えていた。
ビルから飛び降りたって、無意識に助かってしまうだろう。
なぜなら私は……指先から糸が出るのだから――。
だって、私はトレイダーマンなのだ――。
いや、違った!
デイ・トレードをするスパイダーマン、そう、それなのだ。
さて、どうしようか――。
午前2時30分だ。
またラジオから聞こえてきたぞ……、
──NYダウが……プラスに転じた!──
もちろん、最終的にはどうなるかはわからない。
しかし、
騰げるか――。
下げるか――。
なんだか結果が知りたくなった。
ダイブは無理そうだから、ハングか練炭か、その方法も考え直さなければならないのだ。
だったら……
だったら、とりあえずはポリバケツマンを退治しにでも行こうか――。
世間じゃ、怪物が出現すればスパイダーマンが退治するようになっているようだから。
私はコスチュームに着替えてから、ビルの谷底へと飛び降りた。
「ヒャッホーィ!」
(了)
落ちる 銀鮭 @dowa45man
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