原稿用紙10枚分のホームルーム
名取
彼の名前は小林規則
教科書を机の上でトントンと揃え、カバンに入れながら、ホームルームが終わったら早く帰らなければと、そう思っていた時だった。クラスメイトたちの談笑を遮るように教室のドアがガラリと開き、中に人が入ってきた。けれど、それは担任教師ではなかった。
「はーい、これからホームルームをはじめまーす」
教壇に立って声を張り上げた彼は、どう見てもまだ中学生に見えた。ひとサイズ大きいぶかぶかの学ランを着ている。彼のよく響く声を聞いて、寝ていたり、おしゃべりに夢中になっていたりした生徒たちが、黒板の方を向いた。
「え? なに? 下級生?」
「誰かの弟?」
全員の目が集まり、教室中がしんと静まり返ると、謎の少年はこほんと咳払いをし、こう言った。
「えー、みなさん初めまして。僕は
彼はどこからともなく、紙束を取り出した。どうやら原稿用紙らしく、端の方がクリップで留められている。何だろうと思っていると、後ろの方で誰かが、
「は? 先生来ないってことは、俺ら、もう帰っていいってこと?」
と言い、小林という少年の話は一時中断された。答える者はいない。多分、質問する方もあまり深く考えていなかったのだろう。誰も答えないのを見ると、その生徒はのっそりと立ち上がり、ドアの方へと向かった。
「俺、そういうの面倒だから。帰らせてもらうわ」
僕は慌てて「ちょっと待って!」とその生徒を止めようとした。僕は一応、学級委員長なのだ。しかし、僕が止めるまでもなく、彼はドアの前で動きを止めた。何度もガチャガチャとドアを開けようとしているが、開く気配がない。
「おい……全然開かねえぞ!」
その言葉に、教室がざわめいた。別の生徒がもう一つのドアを開けようとしたが、そちらも開かない。悲鳴が上がり、パニック状態になって皆がドアの方へと集まった。だが次の瞬間、少年が激しく教卓を叩く音がし、皆一気に静まり返り、黒板の方を再び見た。小林は凍てついた目でこちらを睨んでいた。
「だから、言ったでしょう? 僕は
誰も、何も言わなかった。教室から出られない現実と、目の前にいる年下の少年の不気味さに気圧されてしまっているのだ。重たい沈黙が続く中、僕は思い切って皆の前に出た。
「すまない、小林くん。勝手な行動をしてしまった。君の話を続けてくれ」
「言われずとも、そのつもりです」
小林はそう言うと、黒板にマグネットを使って、原稿用紙を一枚ずつ貼り付けた。
「あなたがたには、小説の登場人物になってもらいます」
「小説?」
「はい。ここに、400字詰めの原稿用紙が10枚あります。僕が説明を終えたあと、この教室内でのあなた方の言動は、ここに全て文として記されます。そうして出来上がる文章を、小説として読むに耐えうるものにしてほしいのです」
「読むに、耐えうる……?」
少年はにっこりと微笑んだ。
「もちろん、冒頭の文章はあらかじめ決まっています。『ホームルームが始まった。目の前には見知らぬ少年がいる。』です。これだけでまあ27文字を使いますが、それも含めて原稿用紙10枚に収まるような小説を、あなた方の力で作っていただきます。それではようい、どん」
彼が手を叩いた瞬間、黒板に貼られた原稿用紙に文字が浮かび上がった。それは小林が言った「冒頭の文章」と同じだった。
「な、なんだよこれ……」
クラスメイトの一人が悲鳴じみた声をあげた。すると、そのセリフが、そっくりそのまま黒板の原稿用紙の一枚目に、カギカッコ付きの会話文として記録された。それを見て、僕は急いで叫んだ。
「みんな、声を出しちゃダメだ! 余計なことを言うと、規則を守れなくなる」
僕の言葉に、皆が口をつぐんだ。両手で口を覆っている女子も多い。おそらく皆、感覚的にわかっているのだ。一人の生徒が「ホームルームが終わるまで帰ってはならない」という規則を守らなかっただけで、全員が教室に閉じ込められる羽目になっているのだ。もし「10枚以内」というルールを守れなかったら、最悪命を落とす可能性だってある。だからここで余計なことをして、無駄な文字数を使ってはいけない。
「おやおや。黙り込んでいては、話は進みませんよ?」
教卓に座り、足をぷらぷらさせながら、余裕の笑みで小林が言う。僕は必死に頭を回転させた。現実の状況が全て小説に変換されるのだとしたら、この場合、一体どうオチをつけるのが正しいのだろう。
すると、教室の隅の方にいた男子生徒が突然叫んだ。
「夢オチ! 夢オチでいいんじゃないか!?」
僕も含め、クラス全員がその男子生徒に目を向ける。彼は文芸部部長だった。なるほど、と僕は思った。確かに、全て夢だった、というラストなら、読み応えはないかもしれないが、話の筋はギリギリ通る。しかし、規則は足をぷらぷらさせながらつまらなそうに言った。
「ダメですよー。それじゃ、理屈は通っても、僕が納得しませんもん。小説として、読むに耐えうるとは言えませーん」
文芸部部長は息を荒くして前に出た。
「なんでお前を納得させなきゃならない? 要は、小説として面白ければいいんだろ? 夢オチでも、面白いと感じる人間がゼロとは言えない。どんな話でも、一人くらいは面白いって言ってくれる奴が絶対にいる!」
「この教室では、今、僕が規則なんです。僕が面白いと思わなければ、ダメです」
小林の尊大な態度と、この空間の異様さに当てられたのか、文芸部部長は怒りの表情で勢いよく少年に殴りかかった。女子生徒から悲鳴が上がる。しかし、彼の拳は、小林には届かなかった。正確に言うと、小林の体は、まるで蜃気楼に映る幻のように透けたのだ。文芸部部長は、恐ろしいものに触れてしまった、というような真っ青な顔で、慌てて手を引っ込めた。小林は暗い目で笑った。
「僕はルールなんですから。物理的に傷をつけることなんてできませんよ。当たり前でしょう? もちろん、ルールの方からはその限りではありませんが……」
小林が教卓から降りると、何人かがヒッと息を飲んだ。しゃがみこんで泣いている者や、携帯を必死で操作している者もいる。しかしいくらなんでももうわかる。携帯など繋がるわけがないのだ。隣の教室からだってさっきからなんの音もしない。きっと全てが規則の思うがままなのだ。
彼は僕の前にやってきて、余裕そうにニヤニヤと笑ってみせた。
「さて、今の茶番で7枚は埋まってしまいましたね。これからどうするつもりです、学級委員長?」
僕は少し考えてから、こう言った。小林の目を、正面から見据えて。
「わかった。それじゃあ残り3枚で、君の正体を暴いてフィナーレにしよう」
教室が少しだけざわめいた。小林はふっと笑みを消した。
「ほう? 僕の正体ですか。それは良さそうな題材だ。一体僕は誰なんでしょうかねぇ?」
「……」
僕は答えず、まず自分の机に戻ると、カバンから定期入れを取り出した。
「僕は毎日、電車を使ってこの学校に通ってる。あれはちょうど一年前のことだったかな。僕の使ってる路線で、人身事故があった」
僕は次にスマホを取り出し、顔写真を表示して、皆に見せた。
「ほら、この人。近所の噂で聞いたところによると、この人は、この学校の卒業生だったらしい」
「それが、なんだって言うんです?」
小林の笑みは崩れない。僕は続けた。
「これも、あくまで噂にすぎない。だけどその噂によれば、彼はブラック企業に勤めていたせいで心を病み、死ぬ前に遺書を残していた。そしてそこには『高校で小説を書いている時が一番幸せだった』と書いてあったそうだ」
僕は小林を指差して言った。
「だから君は、幽霊だ。無意識のうちに、思い出の場所に戻ってきたんだ。僕らを閉じ込めたのは、君が運悪く悪霊になってしまったせいだ。君自身の意思じゃない」
「……」
教室中がしんとなっていた。小林はくるりと後ろを向き、黒板を見た。
使用した原稿は、合計、9枚半。
「ふうん」
心臓がばくばくと鳴っていた。最後の審判。そんな言葉が頭に浮かぶ。
彼は愛おしむように全ての原稿を頭から終わりまで読むと、ぽつりと呟いた。
「なかなかに面白い」
魔法のように小林が消え去ったあと、代わりに先生が教室に入ってきて、無事にホームルームが終わった。皆放心状態で、先生は進路相談のプリントを配りながら「そんなに今日の授業はハードだったのか?」などと冗談めかして言っていたが、反応する者はいなかった。僕は一人、放課後の教室に残って、原稿用紙の片付けをしていた。
紙を剥がしている時、背後から声をかけられた。小林の声だった。
「なかなかいいでっち上げでしたね?」
その言葉に、僕は思わず手を止めた。
そう、あれは全て、その場で作り上げた即興の物語だった。クラスメイトはそのことを知らない。きっとほとんどの生徒は、本当に幽霊のしわざだったと思っていることだろう。だが僕は、小林の正体を暴いたわけではなかった。規則を守った上で、物語として成立しうる嘘を、とっさについただけだったのだ。
「君は……一体何者なんだ?」
「僕は、いわば『ルールの妖怪』のようなものです。ルールに固執し、縛られている者のところに現れる。ちょうど、あなたがそうであるように。あなたの鞄は重たいですね? 塾、家庭教師、習い事。親の決めたルールに、あなたは既にがんじがらめだ」
彼は耳元で囁いた。
「ルールを守るのは大事です。でもそれも、自分を守れなければ、意味がないんですよ」
振り返ると、彼は消えていた。喜ぶべき場面なのに、僕はなぜか、泣きたいような気分でしばらく突っ立っていた。
原稿用紙10枚分のホームルーム 名取 @sweepblack3
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