カレーの系譜

桜森湧水

第1話

 私の家には大事なルールがふたつあった。


 ひとつは「全面禁煙」。

 これは母が望んだルールだ。

 昔はヘビースモーカーだったけど、私が出来てからタバコをやめた。

 でも、父はずっと吸い続けた。

 それがどうにも不満だったらしい。

 母は禁煙をきっかけに、嫌煙家になった。

 だから全面禁煙。

 だけど、母が一方的にルールを押し付けたわけではない。

 むしろ、先に新しいルールを提案したのは父の方だった。




 父はカレーを求めた。

 大のカレー好きだったのだ。

 会社の食堂でも毎日カレーを食べるらしい。

 そんな父に付き合わされているうちに、母はカレー嫌いになった。

 なるべく作ろうとしない。

 食べたければ外で食べてこい、というわけだ。

 だけど父は家庭的なカレーも食べたい。

 レトルトや洋食屋のカレーも好きだけど、市販のルーから作られるカレーは全くの別物なのだとか……。

「毎週金曜日はカレーにしよう」

 海上自衛隊のドキュメントを見ている時に、父が言った。

 顔を引きつらせた母は「冗談でしょ?」の一言。

 小学生だった私は父に味方した。

 カレーは普通に好きだよ。

 父ほどじゃないけど。

 母は抵抗したけど、2対1の戦況を覆せなかった。

 その代わりとして、全面禁煙のルールを提示したわけだ。

 私は母に味方した。

 タバコの匂いがイヤだったから。

 父は抵抗したけど、2対1の戦況を覆せなかった。

 



 私が高校2年生の時、父はインドに渡った。

 カレーを求めて国境を越えたわけではない。

 会社の海外駐在員だ。

 当時の私は遊びやバイトに忙しく、父の単身赴任に対して特別な感情は抱かなかった。

 母は喜んでいた。 

 父が出国した週の金曜日。

 食卓を飾ったのは、カレーではなく特上寿司だった。


「カレーのルールは?」

「もうあんなのおしまいよ。食べたきゃ自分で作りなさい」


 私はカレーを作らなかった。

 料理は母任せのまま。

 私は父ほどカレーが好きではなかったから。






 ユータとはゼミの先輩の紹介で知り合った。

 初めは特に意識していなかったと思う。

 たぶん、あっちから誘ってこなければすぐに忘れていただろう。

 たしか、2回。

 最初が水族館で、次が映画。

 デート中に、彼のどこがいいのか考えた。

 際立った美点はないけど、別に話しててイヤじゃないし、顔も服のセンスも悪くない。

 相性が特別イイわけでもなければ、悪いわけでもない……。

 なんだろう、この男は。

 ぼんやり考えているうちに、どうでもよくなってきた。

 寝てみた。

 うん……悪くはない。 

 ただ、終わってすぐ、タバコに火をつけるのはマイナスだ。

 私はタバコの匂いがイヤなのだ。 

 その晩、珍しく母からメッセージが届いた。

『今日は外泊するの?』

『友達の家に泊まるかも。なにかあった?』

『いえ。別に、帰ってくるのかわからなかったから』

 普段は私が遅くなっても、母は先に寝てしまう。

「自分のことは自分で責任取りなさい」というスタンスなのだ。

 そんな母だから、メッセージに違和感を覚えた。

 私は適当に理由を付けて家に帰ることにした。

 ユータはすごく機嫌が悪くなったけど、「今度埋め合わせする」と言ったら鼻の下を伸ばした。

 バカだから。


 家の中は静かだった。

 いつも点けっぱなしになってるテレビが真っ暗だ。

 母は黙って座っていた。

「どうしたの?」

「泊ってくるんじゃなかったの?」

「気が変わった」

「そう……」

 なんだか居心地の悪い沈黙が訪れた。

 私はお茶を淹れた。

 母の分も用意してから、居間に座って熱いお茶を飲む。

「なにかあったの?」

 改めて質問すると、母はようやく本題を話した。






「うちの両親離婚するんだって」

「マジか。仲悪かったっけ?」

「どーだろ。普通だったと思うけど……」

「いやいや、普通だったら離婚しないっしょ」

 ユータに話しながら、なんでこの人に喋ってるのかなぁと思った。

 でも、女友達に話しても迷惑だろうし、一応彼氏なのだから聞いてもらってもいいんじゃないか。

 あれ? そういえば、どっちから交際を申し込んだんだっけ? いや……、どっちもしてないぞ……まぁ、いい……のかなぁ……。

 

 

 大学卒業を期にユータと結婚した。

 お腹には赤ちゃんもいたけど、お腹が膨らんでいないので内緒にしておいた。

 結婚式の二次会で、ユータはさだまさしの『関白宣言』を歌った。

 ウケ狙いだったけど、不評だった。

 みんな苦笑いしていた。

 私は「ルールが多過ぎるわ!」とツッコんで笑った。




 子供が産まれてからも、ユータはところ構わずタバコを吸った。

 何度注意してもやめてくれなかった。

 仕事が上手くいってないようで、ちょっとしたことで怒る。

 次第に私のことを無視するようになった。


 靴は玄関に脱ぎ散らかす。 

 帰ったら手洗いもせず赤ちゃんを触る。 

 洗濯かごの靴下はいつも丸まったまま。

 部屋の明りやテレビをしょっちゅう消し忘れる。

 立ったまま用を足すのでトイレの床に尿が飛び散る。

 

 

 

 小さな不満がいくつも重なると、全体像が見えないほど大きな塊となってしまった。

 何度もユータにお願いした。

 だけど、ほとんど変化が見られなかった。

 誰があんたの尻ぬぐいをしてやってると思ってんだ! 

 爆発しそうになった。

 でも、先に引き金を引いたのはユータの方だった。


「お前は自分のルールを人に押し付けてばかりだ」


 ユータはそう言った。

 下手に出て、言葉を選び、ご機嫌を伺いながらお願いした私の全てを拒絶した。

 我慢の限界だ、と。


 それは誰のセリフだ。





 私とユータの溝が再び埋まることはなかった。

 もしかしたら、最初からなにもなかったのかもしれない。

 運河に架かった跳ね橋のようなものだ。

 橋が下りているうちは行き交うことができるけど、橋が上がればもうおしまい。

 だけど、私たちは書類上は夫婦だから、同じ家に住み続けた。

 いっそのこと彼が遠い国へ行ってしまえばいいと思った。

 私の父がインドへ渡ったように。

 近くにさえいなければ……。

 だけど、地元愛の強い彼は転勤とは無縁な会社に勤めている。


 出ていくのは私の方だった。



 

 親権は取られた。

 彼は大学時代の友人に弁護士がいて、相談していたらしい。

 一方の私は、鬱気味だったこともあり、そうした策を弄することなく、無様に騒ぎ立てることしかできなかった。

 アルバイトで働いた以外に職歴がないこともマイナスに響いた。

 これから先どうやって生きていくか。

 そんなことを考えるエネルギーはどこにもなかった。

 いつからこんな腑抜けになっていたのだろう。

 私は実家に戻り塞ぎ込んだ。

 息子との面会交流権は認められた。

 だけど、詳しいルール決めは私の精神状態が良くなるまで保留となった。





 息子が5歳になった時、ようやく会えることになった。

 会うのは1時間だけ。

 息子の反応も見て、時間や頻度を変えていく約束だ。

 面会日が近づくにつれ、私の緊張感は高まった。

 正直、なにを話したらいいか全くわからない。

 どんな顔をして会えばいいのだろう。

 恨まれているだろうか。

 忘れられているんじゃないだろうか。

 今更、なにをしてあげられるのか。


 不安でいっぱいになっていたある日、父から食事に誘われた。

 父は相変わらずインドで働きながら、たまに日本に帰ってくる。

 ごく数日しか滞在しないので、都合が合った時しか会わない。

 病気療養中は暇だから、父の都合に合わせて出かけた。


「やっぱ美味いな~。日本のカレーは」

 もりもり食べる父は心底幸せそうに見えた。

 私はハーフサイズのカレーをちびちびと食べる。

 あ、美味しい。

「どうだ? 美味いだろ」

「どうしてお父さんが自慢するの?」

「ここの店は美味いって評判なんだ」

「来たことあるの?」

「いや、初めてだ。だけど、信頼できる筋からの情報だ」

「なにそれ」

「カレー仲間が教えてくれたんだ」


 そう言って、父はスマホをいじり、SNSの画面を見せてくれた。

 笑顔の父がインドのレストランでカレーを食べている画像が並ぶ。

 

「お父さんはカレークラスタなんだぞ」

 

 自慢げに言った。

 まるで小学生みたいだ。

 そんな父に息子との面会について相談した。

 父は大して悩むわけでもなく、あっけらかんと言った。


「カレーが好きか聞いてみればいいじゃないか」


 このカレー脳め。

 しかし、父は真剣な顔で続ける。


「子供はみんなカレーが好きだろ」

「嫌いな子もいるって聞くけど」

「そうなのか? そん時はシチューだな」

「はぁ?」

「要は、胃袋だ。子供が好きな食べ物を作ってやればいい。そのためにはまずなにが好きか知らないとな」


 ……そうだ。私は息子がどんな食べ物が好きかもまだ知らない。


「確率的にはやはりカレーだろう」

「言いたいことはわかったよ。でも、私料理ほとんどしてこなかったからなぁ」

「……母さんに教えてもらえばいいじゃないか」

「お母さんに?」

「ああ、お父さんが言うのも変な話だけど、母さんのカレーは美味かったぞ」

「ああ……、確かに私もお母さんのカレー好きだったな」

「今でも作るのか?」

「もう作らないよ。お母さんのカレー嫌いはお父さんのせいだね」

「……これでも結構反省したんだぞ」

「カレー食べた直後に言われても説得力ないなぁ」


 バツの悪そうな父の反応。

 ちょっとイジメ過ぎたかも……。


「お母さんに言っておくよ。お父さんがカレー褒めてたって」

「よせよ。今更そんな昔のこと」


 私は席を立った。

 

「お、もう行くのか」

「うん。材料買いに行かなきゃ」


 父も席を立つ。


「私のカレー、お父さんも味見してよね」


 父は嬉しそうに笑った。

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