とある妻のサジェスチョン  KAC5

ゆうすけ

夫に妻がある提案をする休日の夕方

 土曜日の午後5時45分。

 ある夫婦のマンションのダイニングには、二人が向かい合って座っていた。

 これはその夫婦が毎週末行っている真剣勝負だった。


「あのね、あなた。今日は始める前に一つ提案があるの」


 妻が神妙な顔で夫に言った。

 いつも譲歩することはあっても闘志を切らせたことのない妻が見せるそのいつもとは違う表情に、夫は若干の戸惑いを覚える。


「ん?提案?なに?」


 前回の勝負は引き分けっぽく終わり、なんとなく妻が料理をした。しかし、実質的には夫の負けと言って差し支えない。料理を作るかどうかの問題ではない。勝ちか、負けか。それが夫には重要だった。その意味で9連敗している夫は、今日こそはと期するものがあった。


「今日は少しルールを変えてやってみない?」


 妻からの提案は意外なものだった。


「ルールを?どういう風に?」

「あのね、今までのルールってね、言っちゃえばお互いのアラ探しじゃない?」

「まあ、そうだな。どれだけダメージの大きいアラを探すかの勝負だよな」

「で、あなたって基本アラだらけなのよ。隙が大きすぎるっていうか」

「えー、まじかよー」

「断言してもいいわ。今のルールのままなら100%あなたが負け続けることになる」

「……そんな風に言われると、ちょっと傷つくぜ。俺そんなダメ夫くんなのかなあ ……」


 ダメダメよ、少なくとも私の見てる範囲では、と言いかけたのを妻はすんでのところで飲み込んだ。実は妻はもっと根本的な部分でこの真剣勝負のルールに懐疑的だったのだ。今はお互い正々堂々と勝負できているが……、


(このままお互いのアラ探しを続けてると、いつかお互いを怒らせるような傷つけ合いになっちゃう)


 それが妻の懸念だった。

 

「とにかく、今回からね、『お互いを褒める』ルールにしない?」

「褒めるルール?」

「そう。それでたくさん褒めた方が勝ち」

「うーん、要するにおまえを褒めちぎればいいわけなんだな。それはあんまり難しくないぞ」

「甘く考えてると痛い目見るわよ? 心に響く褒め言葉を言わなきゃならないんだから」

「大丈夫。分かってる。それで行こう」


 夫はあまり深く考えることなく妻に同意した。


(なんか軽いわね。この人、本当に大丈夫なのかしら。私のこと褒めるなんてできるのかしら?)


 妻は少し心配になったが、夫は既にやる気まんまんだった。

 そしていつものとおり勝負が始まった。


「今17時49分45秒よ」

「よし、じゃあおまえの先攻でやってみな」


 妻は表情を引き締め、夫をまっすぐ見つめて口を開いた。


「あなた今週の水曜日の夜、会社から電話かかってきたじゃない?」

「ああ、あの部下がミスかましたやつか。ありゃまいったよ」

「電話で言ってたでしょ」


――― 自分たちの処理は後でいい。まず客先に電話入れろ。全部だ!

――― 30か所?それだけで済んでラッキーと思え。

――― とにかくすぐ電話して間違った物が届くから手を付けないでください、って言うんだ!

――― 命令するんじゃないぞ、お願いするんだからな? 俺も今からそっち行く。

――― 大口客を5件、いや10件リストアップしとけ。あ、それと納期猶予のないところも。

――― 大口は俺が直接電話する。15分で行くから小口から順に電話入れておけ!


 妻は夫の電話の時の言葉を再現する。それは見事に口癖や口調をコピーしており、当時の緊迫感までをも写し取っていた。


「そしてすぐスーツに着かえて飛び出して行ったじゃない?」

「まあ、ああいう処理やったことない奴だったからな。行ってやらないと多分分かんないだろうと思って。誤発送はあらかじめ分かっていればあまり問題ないんだよ。連絡ないまま間違って届いた物に、顧客が手を付けちゃうと大変なんだ。納品済み、開封済みの物は引き取れないじゃん。だから客先に物が到着するまでが勝負なんだ」


 夫は肩をすくめた。ミスと言えばミスだが、初動を誤らなければ大事にはならない。しかし、手遅れになると大変なことになる。夫はまだ若いころ大事になった後処理を担当して、とても苦労した経験があった。制限時間内に何をしておけば後処理が楽になるか。それを夫は経験から咄嗟に判断したのだった。


「だからまず客先に連絡させたのね?」

「そう。こういう時メールは危険。担当者が読まないこともあるし休みのこともある。だから電話で連絡。運送会社に発送ストップ頼むのはその後。どうせもう止まらないことも多いし。慣れない奴だとそこで運送会社にムリ言って止めようとするんだけど、結局止めきれなくて客先に到着しちゃってぐちゃぐちゃになる」


 妻はなるほど、と思った。夫が何よりも優先したのは、客先に到着する間違った荷物を、そのまま回収すること。夫は謝るのも、正しいものを送りなおすのも後回しにしていた。


「正しいものをすぐ送らなくて良かったの?」

「送ったさ。でもどんなに急がせても、間違ったものよりも先に正しいものが到着することは絶対にないからさ。間違ったものの処理を先に片付けないとね。それで最終納期に遅れるなら部長に謝りに行ってもらおうと思ってた。幸い大丈夫だったけど」

「そうやっていろいろ判断して、ばっさりと指示していったのね。すごくカッコ良かったよ。多分、ミスした部下の人もあなたの指示を聞いて、今何をすればいいかよく分かったんじゃないかな」

「後でこってり叱っておいたけどな。でも、それはあんまり自慢になんないよ。俺がそういう失敗を何回も処理した経験があるってだけの話だし」


 妻は少し恥ずかしそうに話を続けた。


「昔からあなた、普段はガサツで適当でいい加減でダメダメなのに、そういう非常事態にだけはやたらと強いのよね」

「んー、そうかな?」

「そうよ。だからね、イザっていうときにあなたがいて、あなたの声が聞こえてくるとね、それだけで安心できるの。少なくとも私はね」


 妻ははにかみながら夫を見て笑った。

 現在時刻は17時54分45秒。

 夫は困ったような顔で言った。


「んーと、今度は俺がおまえを褒めればいいのか? なんだかむずがゆいな」

「うん。そのあなたのむずがゆさを上回る褒め言葉を私に言えたら、あなたの勝ち」

「よし。行くぞ?」

「うん」


 妻はいつもとは違うにこやかな笑顔で頷く。


「んー、いつも思ってるんだけどさ」

「なによ」

「おまえってさ、基本ドジっ子だよな」

「うーん、まあ、否定はしない。てかできない」

「意外と抜けてるし、致命的な忘れもんするし。お鍋やるのに白菜買い忘れるとか、生姜焼きやるのに豚肉が足りないとか」

「なによー。買い置きがあると思ったの!褒めてくれなきゃだめじゃん。褒めないと私の勝ちになるのよ?」

「いや、まあ、聞けよ。今さらきれいだとかかわいいとかで褒めるのもどうかと思ってさ。そんなこと俺に言われても嬉しくないだろ?」

「そんなことないわよ。まあそれほど心に響かないかもだけど、嬉しいことは嬉しいよ」

「それはともかく。おまえのいいところはさ、一生懸命なとこだと思うんだよな」


 妻は夫の話を聞いて複雑な顔をしている。夫の真意を測りかねている様子だ。この人一体何を言うつもりなの?


「おまえの一生懸命な姿は、周りには余裕に見えるんだよ。にこやかに笑いながら、何事もそつなく涼し気に、器用にこなしているようにしか見えない。だからほとんどの人はお前が一生懸命何かに取り組んでるのを知らないし、全力で何かをしているのに気が付いていない」


 妻は息を呑んで夫を見つめた。夫はすっかり力説モードに入っている。


「一生懸命頑張っているのに、そう見られない。これって実はすごい損している部分があるんだぜ? いっぱいいっぱいでもそう見えないから、まだできると思われる。自分で分かるだろ? そろそろキャパオーバーだなって時は」


「それでも頑張って、結局それもこなしてしまう。おまえはさ、それだけの才能と能力がある。でも、だからこそ、自分で止まれない。誰かが止めてあげないと」


「俺はおまえが、もうダメ、もうできない、と弱音を吐いているのを聞いたことがない。実際ほとんどのことはできてしまってる。仕事も、家事も、人付き合いも何もかも。学生の時は勉強もそうだった」


「それはすごいことなんだよ。それだけでもすごい」


「おまえの一生懸命さに俺はさんざん助けられた。結婚する前も、してからも。そして、これからも俺は一生懸命なお前に支えられないと生きていけない」


 夫はあらためて妻を見つめた。妻は上気した顔を夫に向けて何かを言おうとしている。しかし、それは言葉にならない。


「でも、たまにはどこかで止まったり緩んだりしないとな」


 夫はゆったりと妻を見て笑った。


「あなた……」


 妻は照れて視線を逸らした夫の横顔に胸が高鳴った。


「だから俺たちは、この先も夫婦でないといけないんだ。一生懸命なおまえを、誰かが止めてあげなきゃいけない。それは …… 俺の役割だ」


 夫は視線を妻に戻すとにっこり微笑んで、ほんの少しぎこちなく言葉を繋いだ。


「やべ、俺、あんまり褒めてないよな。今日は俺の負け……かな」


 その時、すくっと妻は立ち上がって夫に告げる。


「ううん、私の負け。なんかむずがゆい……」


 妻はエプロンを付けて、キッチンに足を向けた。今日のメニューは天ざるに炊き込みご飯とあらかじめ決まっている。


「でも、来週は……、元のルールに戻しましょう。ちょっと耐えられないわ、いろいろと」


 つぶやく妻のその頬は赤味を帯びている。

 妻はそっと思いを巡らせた。


(私、この人の妻になって …… 良かったかも)


「で、悪いけどあなた、生姜おろし作っておいてね」

「……なんでそうなるんだよ」


 不満を口にしつつ、夫はおろし金を手に取る。

 勝利の余韻というには、それはあまりに面映ゆい。




 おわり

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

とある妻のサジェスチョン  KAC5 ゆうすけ @Hasahina214

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ