第7話

二月十日(水)

──十六夜堂、確かに知っているとも。だがしかし、そこへ行ったのはもうウン十年も昔の話だ。それでも、こんな爺の話を聞きたいというか。

カハッ、物好きな奴だな。否、命知らずとも言えるのか。儂にもそんな元気が昔はあったものさ。そんな儂の昔語り、酒でも呑みつつ、肴にでも話してやろう。

フン……あれは儂がまだ会社に勤めていた頃さ。儂はそこそこ大きな会社に居たんだぞ?うん、まあ、それでだな……あぁ、出張に行ったのさ。

あん?どこかなんざ忘れたさ。カッカ、いつの話だと思ってんのさ。………ふぅ、儂はそこで彼女に出会ったのさ。大層な別嬪さんってわけじゃァねぇ。でも儂は惚れたのさ。

ハハハッ、若ぇってのはいいよなぁ?まあそん時の儂はなぁーんも言えなくなっちまってたんだけどな?それがまた可笑しかったのか、彼女、ニコニコしてたっけな。漸くして落ち着いたらよ、棚の上にある杯が目について離れねぇ。それがソイツさ。名も知れねぇ奴が何込めたかも分からねぇ杯だってのに、儂ァ惹かれたんだな。

……んくっ、はァ……。酒の味は他の杯で呑んだときと変わらねぇ。でもなぁ、こいつで酒を呑んで寝れば夢が見れるのさ。母様の夢さ。ガキの頃に死んじまって、写真でぐらいしか見たことねぇのにさ。声まで聞けるんだぜ。こんな幸せな事ァねぇよ。

……あぁそういや、こいつには銘がある。ちょっと待てよ……。ふぅ、ホレ、こいつをひっくり返してみな。底になんか彫られてんだろ?……そうそう、『夢の通い路』だ。いいよなぁ……、この赤茶けた色といい、手に馴染む形といい、夢の内容といい……。ま、こいつで呑み過ぎるのは危ねぇらしいがな?

あん?どういうことか、だって?えぇっとなぁ……。いやちょっと待て。…………そうだ、その店の彼女に言われたんだよ。『この杯は人の心の底の願いを写す。条件はあるけどね。でも、あまり願いを叶えすぎない方がいいわ。その杯、ちょっと良くない風に視えるから。その杯はね、多分だけど……』覚えてんのはここまでさ。悪いね。

……にしても、この杯の作り手は今どうしてんだろうなぁ?いっぺん会って、一つ礼を言いてぇんだ。母様に会わせてくれてありがとよ、ってな。ま、そんな偶然、そこら辺に転がってるわけがねぇよなぁ。ハハハ。


…………。……。………………。…………。


んぁ?あぁ、すまねぇ、寝ちまってたか。夢?ああ、見たぜ。でも、なんでだろうな……?今回は母様じゃなくて、見たこともねぇむさい男だったよ。作務衣姿のな?何言えばいいのか分からなかったけどよ、なんかスルッと、「ありがとよ」って出たんだよ。会った事ねぇ、話したこともねぇのにさ、そう言わなきゃいけねぇ気がしたんだ。不思議なこともあるもんだなァ。フフ、まぁ呑もうぜ?なんか今日はヨ、肩の荷が下りた気がするからさ。

……それじゃ、一期一会の出会いに、乾杯。

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