第2話



 絵を描いていると、心が落ち着く気がする。



 筆を動かしている間は、この世に存在するのは私と画材と、キャンバスの中の世界、それっきりだと、心から思える。もちろん本当はそんなことはないし、絵筆を置けば、私も食事と呼吸をしなければ生きていけないただの人間だという現実に戻ってくるのだけれど、それでも、絵を描く時間は好きだ。束の間の幻想は、こちら側で息をするのを楽にしてくれる。

「今日は、ここまでにしましょう」

 窓辺でタバコを吸っていた先生が、唐突に言った。先生は体内時計がとても正確な人で、時計を見なくても、感覚で授業の終わりの時刻がわかる。それが証拠に、私が腕時計に目を落とすと、針はきっかり午後6時をさしていた。

「はい」

 返事をし、黙々と画材を片付けていると、何かが頬に触れた。見上げると、先生が指で、私の頬についた絵の具を拭っていた。それとなく視線をそらして顔を少し背けたが、指は離れない。

「先生」

「なんですか?」

「それ、やめてください」

 本当に嫌なのかと言われれば、自分でもよくわからなかった。別に、こうして絵画の個人授業をしてくれて、歳も若く、日本語も流暢で話しやすいこのイギリス人の先生のことは嫌いではないし、彼の控えめな性格は、どちらかといえば好ましい部類に入る。けれど、やめてと言わなければならないなと思った。先生のように普通の人が、私のような面倒くさい存在に関わって、いいことなんてないに決まっている。

 頬に絡んでくる指を振り払おうと、今度は顔を思い切り背けると、先生はなぜかふふと幸せそうに笑い、今度は頭を撫でてきた。

「だって君、うちで飼ってる猫にそっくりだから」

「猫って」

 その先を言う前に、窓ガラスに何かが当たるカツンという音が、会話を遮った。先生は笑みを消して私から離れ、窓に近寄ると、鍵を開けて外を見た。ひとしきり調べてから、窓に当たったものを確認した先生は、ため息交じりに窓を閉めた。

「またか。最近ひどいな」

「またBB弾ですか?」

「そうらしい。迷惑は迷惑だけど……こうなってくると、こんなしがない絵画教室へ向けて、一体誰がどうやって、そしてなぜわざわざ撃ってくるのかの方が、むしろ気になってきちゃうよね」

「そんな、呑気な」

 先生はこちらを見て、いたずらっぽく笑った。

「これは僕の直感にすぎないんだけどね? でもこれを撃ってくる奴は、威力の弱い弾をあえて選んでる、って感じがする。でも、BB弾って軽く柔らかくなるほど照準が定めにくくなるから、もしそうだとしたらその人は、よっぽど腕利きなんだろうなって。そういう空想をするのも、ちょっと楽しいよね」

 芸術を志す人は変わり者が多い、とユウが前に言っていたが、たしかにそうかもしれないな、と絵筆を洗いながら私は思う。



 絵画教室のあるアパートから出ると、すぐ近くの街灯の下に、長袖シャツ姿のユウが立っていた。初夏のロンドンのこの時間は気温もそれなりに高く、明るい。街灯には灯りこそついていなかったが、通りには他に歩いている人もいなかったので、私はすぐに彼を見つけて声をかけた。

「ユウ、ごめん、お待たせ」

 英語で言うと、ユウは物憂げな顔でため息をついて、日本語で言う。

「僕と話すときは、日本語でいいって」

「あ、ごめん。間違えた……」

 するとユウは不意に、私の頬に触れた。さっき先生が絵の具を拭ったのと、寸分たがわず同じ箇所だった。もう絵の具はついていないはずだったのに、まるで何かを拭うような指使いで撫でて、それから指を離した。

「今日はどうだった?」

「あ……えっと」

 私はトートバッグからクロッキー帳を取り出し、開いてユウに見せた。色鉛筆で、公園のシロツメクサを描いたものだ。

「これ。外に出て、ユウの好きな花を描いたの」

「……」

 うまく描けていると自分でも思ったし、先生もそう言ってくれたのに、ユウの顔は明るくはならなかった。顕微鏡越しにものを見るときのような冷静な視線に、ほんの一瞬でも褒めてくれることを期待した自分が馬鹿らしくなった。

「ごめんなさい、あまりよく描けてなかった」

 クロッキー帳をしまおうとすると、ユウはハッとしたように私の手を握ってそれを止めた。

「あ、いや、違う。すごく上手だよ。でも、僕のことは気にしなくていい」

「そういうわけじゃないよ。私はただ、喜んでくれるかと思って」

「ありがとう。でも、君は自分のことだけ考えてればいいんだよ」

 ユウは取り繕うように、にっこりと微笑みかけてきたが、私は笑う気になれなかった。最近ユウは少しよそよそしい。はじめから胡散臭い人ではあったけれど、私は今や戸籍も名前も変え、住む場所さえ変えたのだ。年齢的に不自然だからと、彼の養女にこそならなかったが、自分を秘密結社に引き入れた張本人である殺し屋に、そう距離を取られるような覚えはないように思えた。

 帰り道をたどりながら、ユウが聞いてくる。

「オリバーはどう?」

「先生? とっても親切だよ」

「リアちゃん、変なことされたりしてない?」

「されてないよ」

 私はもう公には『市ノ瀬リア』という名前ではないが、未だにユウは二人の時に私をリアと呼ぶし、結社の長からの命令で、私と一緒に暮らしている。しばらく石畳を見ながら、黙って歩いていると、ユウがまた思い出したように言う。

「あのシロツメクサの絵、本当に上手だった」

「もういいよ、ユウ」

「いや、お世辞じゃないよ。僕は芸術がわからないけど、あの絵は素敵だったし、好きだと思った。よかったらあれ、もらえないかな」

「もらってどうするの?」

「額に入れて、僕の部屋に飾る」

 そんな大げさな。

 住んでいるアパートの前に着いた時、私たちはふと足を止めた。アパートの入り口に、高価そうなブランド物に身を包んだ、綺麗な長身の女性が立っていた。近所付き合いはほとんどしていないので、他の階の住人だろうかとも思ったが、彼女はなぜかこちらをじっと見ていた。じっと、というよりはじろじろと、という表現の方が近いような、とにかく彼女の視線はかなり無遠慮な感じだった。

 チェーン店で安く売られている量産型の服を、工夫に工夫を重ねてなんとかお洒落に着ている私とユウは、こそこそと互いに顔を寄せた。

「ねえ……あの人、リアちゃんの知り合い?」

「いや、知らない人だよ。もしかしたらもう一人の私の方の知り合いかもしれないけど、だったら私にはもう、どうにも……」

「いやあ、だったら僕の方もダメだわ……」

 そんな風にごにょごにょやっていると、謎の美女は、ブーツのかかとをコツコツと響かせながらこちらに歩いてきた。近くなるにつれ、どんどん高圧的な雰囲気が増してくる。彼女の髪は桜のような淡いピンク色で、美しく気品のある顔には、それがまた似合っていた。

「エドワード・エルガーの国は、やはり陰鬱で嫌いだ」

 彼女の英語は、日本人の私にはどの地域のものかまではわからなかったが、それでも明らかに訛っていた。ユウが「下がってて」と小声で言って、私の前に出た。

「もっとも彼も、ロンドンに住んでいる時期はあまりパッとしなかったらしいがな」

「あの、失礼ですが、あなたは?」

「私はミランダ。ミランダ・コールドウェルだ。私のペットのことで話があってね」

 

 


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