人間の話

窓拭き係

蕎麦を食べる話

 八月。といっても、うだるような暑さと湿気は一時の落ち着きを見せ、居るだけで汗ばむような気候ではなくなっている中旬。何故か蝉は鳴いておらず、ひたすら低いのか高いのかわからないような音だけが小さく響くような部屋の中で、俺と先生はただ黙って座っていつ来るか予想もつかない「待ち人」を待っていた。


 俺は先生と神社や寺の類に行ったことはないし、先生がそういった場所に行くのかすらも知らないが、今年の初詣に行った時、その辺の木に括りつけたみくじには「待チ人ハ来ズ」と書いてあった気がする。今俺が心待ちにしているものは別に人間ではないのだが、縁起が悪い。頭を振って考えていた事を追い出そうとしたが、この、ある意味無音の部屋で音を立てるのが億劫で、俺は振り始めた頭を即座に戻した。



「──────?」

 が、人間物事を考え続けていると何かをやらかす。まさに。今。


 今、先生はなんと言った?俺に何を訊いた?俺に何についての返答を期待している?


 心音が喧しい。邪魔にしかならない。

 口を開く。声は出ない。


 思い出したように先生の顔を見ると、いつもよりもやや無機質な目がこちらを向いている。その目を見ていると、「聞き返す」なんて選択肢は吹き飛んでしまった。俺は蛇に睨まれた蛙の気持ちを味わいながら、つい先程まで考えていたこととは何も関係のない、人間の眼球の構造についてぼんやりと考え始めた。


「それで、どうする」


 それも先生の声で終わってしまったが。

 何か、何かを言わなければ。

 何でもいい。助けを求めてちらりと腕時計を見やる。午後一時十分前だった。


「そんなら、先生── 」


 先生の視線が俺から外れた。


「蕎麦、食いに行きましょう」







 どれ程経っただろうか。

 五分か。十分か。その倍か。俺が気まずさという冷水を頭から滝行のようにひたすら浴びせかけられていると、不意に先生が立ち上がった。立ち上がって、こちらを見てきた。やはり無機質な目だった。



 部屋を出る時、壁に掛かった時計を見た。

 午後一時五分前だった。


 腕時計を見る気分ではなかったのだ。








 研究室から徒歩15分程、俺が通ったこともない道を歩き、当然見たこともない蕎麦屋で、言い出しっぺの俺は当然蕎麦を、先生はカツ丼を無言で食べていた。俺は先生の方につゆを飛ばさないように細心の注意を払いながらそちらを見やったが、あの目と同じぐらいの顔をしていたのを見て、慌てて顔を下に向けて蕎麦に集中した。誰が人間に似すぎたむしろ薄気味悪いロボットを好んで見つめようと思えるのか。少なくとも、俺は思わない。


 俺は終始無言だった。先生はそもそも必要がなければ話すような人ではない。俺はなんとも言えないもやもやをかき消すためにねぎと海苔とわさびを大量に入れ、蕎麦を啜った。先生は早くも食べ終わり、窓の外を見ているようだった。何を考えているのだろうと同じ方を見ると、来た道が見えた。俺は途端に一刻も早く研究室に戻りたくなった。



 研究室に戻る途中で、突然先生が口を開いた。

「もう、終わった頃か」

 先生の視線は太陽から逃れようとしているようだった。

「表示ではもう少しあった筈ですが」

 俺は前を歩く先生の足をぼんやりと見ながら答えた。

「いや、もう終わっているだろう」

「そうですか」

 俺は気付くと先生と並んでいた。

「発表の資料は間に合っているのか」

 先生はこちらを一瞥して言った。俺にはそれが何か俺を牽制しているように見えて、先生の後ろに回った。

「はい。今は川内が」

「そうか」

 先生の声は相変わらず電子音のようだった。

「原稿ももう少し修正すれば」

「水奈月の研究は面白い。詰められるところは詰めておけ」

「はい」


 会話はそれきりで、後は無言で歩き続けた。


 鍵を開け、ドアを引く。出ていく前と特に変わりのない人の居ない研究室には、しかし客が既に俺達の帰りを待っていたようだった。





 汗を拭きながら、俺と先生は息をついた。

「やっと終わったか。ちょっと長すぎるな」


 先生の顔は笑っていた。人間の顔だった。

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