遺言状

穂積 秋

第1話

 雨に濡れて佇む女が、事務所の建物の階段にいた。

 わたしは軽く会釈して、二階の事務所への階段を上ろうとした。

「あの」

 女がわたしに話しかけたので、わたしはその女の顔を見た。

知らない顔だった。三十から四十の間くらいに見える。

「この探偵社の方ですか」

「はい」

 二階にはわたしの勤める探偵社の他に、人がいるのを見たことがない事務室が二つと、空室がある。一階は週末にしか店を開けない、外国人がやっている怪しげな店だ。わたしもあまりこの事務所には来ない。今日来たのは郵便物を受け取るためだけだった。

「見ていただきたいものがあるんです」

「わかりました、今開けますのでどうぞ上へ」

 急な階段を先導して上がり、鍵を開けた。数日間部屋の中に澱んでいた空気が外に飛び出した。灯りを点けてから応接の場所にその女を通し、窓を少し開けて換気した。湿気の強い空気が入ってきた。

「お待たせしましたか」

 応接場に戻り、時計を見ながらわたしは尋ねた。十時十五分を指していた。

「はい…いえ、大して待っていません」

 女はソファに浅く腰掛け、ポシェットを両手で持って膝の上に置いていた。着ている服はやや厚めの上質な生地のワンピース。濡れると目立つ生地だがよく見ると実はあまり濡れていない。傘はもっていないから、車でここまで来たのだろう。

「スタシア・テイトです。ご用件を伺いましょう」

「イレーン・ウィリアムズと申します。ギルバーグ法律事務所から紹介を受けまして」

 イレーンはポシェットから紹介状をとりだした。見慣れた封筒だ。中身を見なくても何が書かれているのかわかる。そもそもわたし自身、ギルバーグ法律事務所に詰めていることのほうが多いのだ。仕事を回してくれるギル・ギルバーグとは良質なビジネスパートナーである。というより我が探偵社はほぼ彼の下請け業者である。個別に客が来ることなど滅多にない。しかも向こうにいれば光熱費がかからないし連絡は密にできるし、いいことづくめだ。この事務所をまだ開けているのは、父の遺言だからという一点に尽きる。しかしそれならギルが受ければよいのだが、わざわざわたしの事務所に来させるということは法曹関係の仕事ではないということか。

「見ていただきたいのはこれなんですが」

 イレーンが続いて取り出したのは、ペーパナイフを使って開封済みの青い封筒だった。高級な店で扱っているような封筒だ。差出人の名前はないが、封緘されている。

「中を見ても?」

「もちろんです」

 中には上質な便箋が二つ折りになって収まっていた。開くと、真ん中に緑色のインクで書かれた印があった。どこかの紋章を手で書き写したものののようだ。

 わかりやすいところからいうと、右側に大型の鳥。嘴の形を見るとペリカンのようだ。しかもパイプを咥えている。

「これは、いったい?」

「遺言状の一部です」

「遺言状?」

「先日、祖母が亡くなりまして、その時の遺言です。遺言状に別添されていました」

「本編の遺言状はお持ちですか」

「ギルバーグさんが保管しています」

「そうですか。そうですよね」

「お願いしたいのはこの記号の解読なのです」

 断るべきだったかもしれない。しかし興味を惹かれてしまった。暗号なのかそれとも何か別の意味があるのか。

 ふと、ある部分だけは見たことがあるような気がした。

「これは、もしかして。ちょっと待っていてください」

 わたしはファイルが置かれている場所に移り、昔の事件簿からひっぱりだした。


 三年前、ギル経由で扱った事件で、窃盗事件があった。窃盗の被害者はアンジェラ・ウィリアムズ。

 被害にあったのは現金三百ポンドと上質紙とペリカン製のペン。どちらも値が張るものではあったが、他にもっと価値のあるものがありそうなのにそれだけが被害にあったのが記憶に残っていた。例えば、ローレックスとホイヤーの腕時計は近くにあったのに盗まれていなかったのだ。窃盗犯が価値をわからなかったということにされたが、ペリカンの万年筆を持っていく犯人がローレックスやホイヤーがわからないというのは考えにくく、何かわだかまりを感じていた。

 わたしは民間の協力者として市警に入り込み、刑事と情報交換をしていた。いくつかの捜査も手伝った。聞き込みや故買商の足取りを追っていた。

 そのときに次のような話をしてくれた骨董品の商人がいた。

 エイボンに伝わる都市伝説に、三つのPというのがある。

 Pで始まるある特殊なものを三つ集めると、エイボンの街の秘密がわかる。それは市役所の地下に隠されている資料に記されている。

 資料の表紙にはある紋章が描かれていて、ペリカンの絵だという。

 一ヶ月後、犯人が捕まり、上質紙とペンはアンジェラのもとに戻った。その時の犯人のコメントを取るときに、わたしも立ち会っていた。

「ペンと紙はわかったのだが、最後がわからなかった」

 なんのことかと刑事は首を傾げていたが、都市伝説の知識があったわたしにはわかった。最後のピースがわからなかったので黙っていたのだ。

 それが、つながったような気がした。


 イレーンのところに戻り、こう尋ねた。

「お祖母さんが厳重に管理していたものに、パイプがありませんでしたか?」

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遺言状 穂積 秋 @min2hod

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