わすれもの
たなかけんと
第一話
目が覚めるとそこは白い部屋だった天井から壁家具も白で統一された清潔感のある部屋だ。近くには点滴と思われる管が手首につながっており、長い間寝ていたのか袋の液体は残り少ない。
「っつ」
頭を打ったのか頭がズキズキと痛む、頭を抑えた方と逆の手を見てみるとギプスのようがはめられており右足もどうようにギプスで固定されていた。
どうやら私は事故か何かにあって重症になり病院に搬送されたらしい。しばらく状況の把握などに時間を使っていると出入り口と思われスライド式のドアが開かれる。そこには、黒い髪の毛にスラリとした長髪の女性が立っていた。どうやら目覚めた私を見て驚いているようだ。女性は何を思っているのか声を出さずにニコリと笑い会釈をする。わたしもそれに呼応するようにお辞儀をし、彼女に話しかける。
「大変申し訳ないのだが、頭を強く打ってしまっているようで記憶がはっきりとしないんだ頭もズキズキと痛むし…」
すると女性はまた驚いた顔し、少し考えたあと声を出した。
「ということは、私のことも忘れてしまいまっているのですね」
少し寂しげにしかし、どこか懐かしい顔で彼女は私に質問してくる。それに対して私は自分が知っていることを話した。私の名前や年齢、仕事先、最近の記憶。すべてを聞き終えたあとうつむきながら彼女はか細い声で言った。
「私が妻だということは覚えていないのですね」
「すまないが、まったく」
しかし、この顔は知っている昔から何度も見てきた家族を見ているような感覚。この感覚が間違いのであれば、彼女は間違いなく私の妻だ。
話を聞いてみると彼女はここによく通って私の世話をしてくれていたとのことだ。他の友人などは事故のときに携帯が壊れてしまったせいで私が病院に入院していることを知らないらしい。
つまり、目覚めない夫を甲斐甲斐しく世話をしてくれたのはこの女性たった一人。そして次は目覚めたは良いが記憶がなくなったと言い始める。自分がもし逆の立場ならとてつもなく落ち込むだろう。罪悪感を感じながら、彼女に感謝しつつ、今日は一旦、服や暇つぶしの品を持ってきてもらうために一回帰ってもらうことにした。
次の日、彼女に本やパズルなど渡された物で時間を潰す。そこから長い入院生活がはじまった。私の手足は骨折というよりは粉々に砕け散ったらしい。そのため、骨のかけらをすべて摘出し、足りない部分に人工の骨を入れそれが骨とくっつき定着するまで安静にしていなければいけないようだ。
また、あまり情報を入れると脳が記憶を思い出す前に更に記憶を上書きしてしまう可能性があるためテレビやコンピューターはあまり使わないほうが良いとのことだ。少し退屈だが、小説などを読み過ぎなければよいということで一週間に三冊までなら小説や本を読んでよいという決まりになったそうだ。
目覚めてから一週間。妻は甲斐甲斐しく世話をしてくれる。尿瓶を使うときも他の看護婦に見せたくないと彼女自身が世話をする。少々気恥ずかしいがそんな可愛らしい独占欲を出されてはあまり抵抗もできない。何もできない自分に申し訳なさを覚えつつ、何もない自分に尽くしてくれる彼女に好意をいだき始めていた。記憶喪失の旦那が妻に惚れ直すなんてつまらない小説のオチのようだと思いながら、読んでいる途中の小説に目を落とす。
この小説では主人公の名前は出てこない。主人公の「私」は妹からの告白を拒否し、否定してしまう。兄弟は恋人になれないのだ。家族に恋愛感情を持つことは非常識であると
その言葉に怒り狂った妹は頭をガラス製の灰皿で何度も殴り殺す手前まで殴った。その後、「私」は記憶を失う。妹はそれをいいことに妻と名乗り彼に無償の愛を尽くす。そんな妻に恋をした「私」は幸せな日常を過ごしてゆくことになる。主人公は、事実を知らないまま緩やかな日常を過ごしてゆく。いつか来る嵐の前の静けさのように。
ずいぶんとスッキリしない終わり方だが、悪くない内容だった。本を閉じて一息つくと隣で春の陽気をあびて気持ち良さそうに眠る妻がいた。
「苦労をかけてすまないな」
彼女の頭をなでながらゆっくりとした時を過ごす。小説の栞が春の風に揺られ子どもたちの元気な声が聞こえる。眠気を感じ妻の頬に軽くキスをした後目を閉じた。
わすれもの たなかけんと @ks199898
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