罪のアントニム

青木晃

春の産声

 世界を巻き込んだこの戦争は、多くの屍と瓦礫の上で正式に終わったと公表された。私は国営放送のラジオを聴きながら、ああ、終わったのかと他人事のように考えた。この戦争はうちの国が勝ったらしい。しかしながら、これで自分がどれだけ戦争に興味がないかわかってしまった。人殺しと蔑まれ、英雄になってこいと言われて死んだ人の顔も、友人の顔も、偉そうに踏ん反り返ったお偉いさんの顔も、全部忘れてもいいんだな。私はお祝いムードに包まれる中、一人でこっそり抜け出した。最後に出撃した際に切断した右足の痛みも、病院で、夜中に隣の人がずっと戦場を思い出して叫ぶのを聞くのにも慣れた。この後、私たちはどうなるのだろう。裁きにでもあうのだろうか。隣国の人間から、息子を殺した敵として一生を終えるのは嫌だった。しかし、私はエースパイロットにはふさわしくない。ヒーローインタビューなど似合わない。戦争体験を子供に伝えることも面倒だ。どうしようかな、と考えた。従軍看護士の女性に、「うるさいのは苦手なんです」と言い、外に出た。正確には、屋上に。

 屋上には真っ白なリネンのシーツが干してあって、飛行機雲のように真っ直ぐに靡いていた。

 実家に帰ろうか、それともこのままここに残ろうか。どちらにしろ、軍は辞めてしまおう。実家に帰る汽車、あるのだろうか。もう、子供を殺されたと部下の親に泣かれるのは嫌だ。タンクトップの中を覗き、まだ傷跡が消えていないことを確認する。ファストフードのように普遍的なものとなった戦争が、誰もが終わりを予想しなかった戦争が、いま終わった。初潮が来る前の少女をレイプする兵士、ドラッグ漬けになって戦争をする子供。道具にされて、故郷を戦争に持ち込もうとする私たち。殺しを肯定する神父。当たり前が崩れたとき、私はどうなるのだろう。異常だったことに気づかず、平穏な人生としての「戦争」があって、私は機関銃で人間をミンチに変える。

「あっははははは!」

 なんだか晴れやかな気分になって、私はずっと、一人で笑った。屋上には誰もいない。次の日、体を冷やして熱を出してしまって、それにもおかしくて笑ってしまった。


 次の週、事務局に辞表を提出するとあっさり認められた。これからは年金暮らしだ。戦争が終わると、徴兵された人間は帰ってしまうし、私のように自分で限界だと悟って辞めてしまう軍人も多い。「自分たちは辞めたくても、この書類を片すまでは帰れないんですよ」と事務員に愚痴を言われた。

 士官用の個室を整理し、荷物を纏めて郵便に出すと、何もやることがなくて暇になってしまった。私はここの基地で別段親しい人間がいたわけではない。顔見知りは全員、敵の爆撃機にやられてしまった。私はリハビリのおかげもあって、義足をつけたままでも出撃できたが、上官に止められ、遺品処理と事務処理、あとは半年も続かずにやめてしまったが、学校で教官の仕事もしていた。かつての教え子の部屋を物色し、親に宛てた手紙やら恋人の写真やらを発掘する作業は、私に意外と向いていた。人の無機質な死に触れる間、束の間の安息を得た。私が飛行機に乗るとハイになり、地上に戻ってからセックスとアルコール三昧になることを知っていた上官が、私を止めるのも無理はない。

 それでも私が監視の目を掻い潜っては街に出て、飛行クラブの飛行機を乗り回していたというのは黙認されていた。トップエースのポジションから落ちて、自暴自棄になったと解釈されたのだろう。実をいうと、私は飛行機に乗って空を飛ぶことが好きなだけで、それ以外はどうでもよかったのだ。ただ、風に乗りたかっただけだ。敵もいない、邪魔するものがない空で、銃が付いていない普通の飛行機に乗った時、私は感極まって泣いてしまった。

 だから、戦争が終わってこの先どうしようかと迷ったのだ。このまま軍属でいるのはなんだか気が進まなかったし、戦後の情勢の中で安定した職業を捨ててしまったという後悔もある。それに、飛行機乗りで生計を立てるといったところで、高度を上げれば上げるほどハイになる人間を雇ってくれる場所なんてないと思うのだ。私だって雇いたくない。退役軍人として教師を続けようかとも思ったが、私に教職があっているとは思えなかった。

 ロレーヌは中都市だし、仕事はいくらでもあるだろう。けれど、私のような障害持ちを雇ってくれる場所などあるだろうか。幸い体力だけは十分にあるのだが、やはり健常な人間と比べると劣ってしまう部分はある。戦争に勝って経済的にも発展してきている。私はベッドの上で、ああでもないこうでもないと唸った。不安なことだけが募るだけだった。

私が軍を抜けるまで、1ヶ月の猶予があった。最終日まで、給金はしっかり出ることになっている。私はあえて、出立するギリギリまで仕事をしようと思った。幸い、やるべきことはたくさんあった。戦場から戻ってきた遺骨をまとめて、書類を書いて、二等階級特進やら軍事恩給やらの手続きをしなくてはいけなかった。「あなたのご子息は、敵の飛行機に撃墜されて死にました」と、死因を書き連ねた書類の束たちに囲まれている。ここはある意味新しい戦場だ。

 遺族との連絡も、本部への連絡も、私が一人でやっていた。遺骨すらも帰ってこないこともあった。教え子が死んでいたこともあった。それでも、私はこの仕事をやらなくてはいけないと思った。死んでしまった人間の、残り香を探すのだ。自分が殺した数多の戦士への償いの意味もあったのかもしれない。自己満足だったとしても、こうでもしないと正気を保てる気がしなかった。1日のうちのわずかな時間、病室と事務棟と宿舎を行ったり来たりしながら一人思っていた。いつしか、私は自分自身が亡霊になっているような錯覚さえ覚えた。死んでしまった人間のベッドを、新しく入った人間が使うのを見た。葬式に参列することが多かったので、毎日正装で過ごした。黒鷲隊のエースだった頃も忘れてしまった。輝かしい記憶を留めているのは、新聞記事と勲章だけだった。私の過去のブロマイドは、いまもだれかの手に残っているのだろうか。

 時折私は、死なせてしまった隊員の遺族に死因を伝えるということもやっていた。ここに配属されるのは、基本的に徴兵された近隣の住民であるため、直接遺品を取りにくるケースが多いからだ。それに、近くには戦死した人間が眠る墓地もある。部下の葬式には上官が立ち会うことになっている。私は新人の叩き上げもやっていたし、飛行中毒者と揶揄されるほどに出撃していたから、呼ばれる機会が多かった。面白いことに、葬式に立ち会うとその人間の人となりがわかる。恋人、家族、親族、親友。誰も来ない場合は、ひっそりと埋められるだけだ。私は、人を殺している。なのに死者を弔う場に呼ばれてもいいのだろうか。私の義足はある意味、同情を引くためにも使われるのかもしれない。そして毎晩、同じ作戦に参加して死んでいった人間の声の幻聴に襲われる。声は覚えていても、顔は思い出せない。ショックで忘れたのか、それとも最初から覚えていないのか。細かいことはどうでもいい。中央のお偉い人びと共に書類仕事をするなんてことは、絶対に嫌だった。けち臭い私のチンケなプライドが、この地獄に居座っている唯一の理由だ。

 そんな生活を続けていたある日、私の机から大量の幻覚薬が見つかった。薬の多量摂取は違法だが、黙認された。私は幻覚を見ないと眠れないようになっていた。間違いなく、私は荒れてしまっていた。それもあって、私は航空戦術の教官を辞めることになった。

 この基地を出るまで残り一週間を切っていた。


 真正面で鶏肉を切り分けている男がいた。「お久しぶりですね、中尉」と言われた。彼は灰色の目を細め、上品に微笑んだ。

「貴方はーー」

「覚えてませんか?です。ジョルジュ=オーランドです」

「モンテスキュー作戦の時の?」

「ええ、貴方が墜落した時にいた人間です。はその時、まだ少尉でしたけど」

「そっか、昇格したんだ。おめでとう」

「ええ…」

 プライドの高いやつだったという印象を抱いていたことは、しっかりと覚えている。しかし、その自尊心に見合うだけの腕を彼は確かに持っていた。彼のインメルマンターンは、惚れ惚れするほど美しかった。

「インメルマンターン、綺麗だったよね」

「お褒めに預かり光栄です」

 しかし、私は彼と一度寝ていた。その次の日、私は敵に撃ち落とされ、流氷と雪が降り積もった中に落っこちて、凍傷した左足を切り落とすことになったのだ。

「足のお加減、いかがですか?」

「まぁまぁかな。慣れたら全然いけるかも」

「へぇ」

「チキン、美味しい?」

「まぁまぁですね」

 それから二人は、黙々と夕食を平らげた。そして、普通に別れて就寝した。


 次の日、ジョルジュ中尉が自殺したと噂になっていた。遺書には、戦争にしか価値を見出せない自分に嫌気がする、と書いてあった。処理は、私が行った。方法は拳銃自殺で、口で銃口をフェラしてぶっ放していた。彼の惚れ惚れするほど美しい顔は、原型をとどめていない。壁に散った真っ赤な血潮を、私は花に例えてみる。もう変色して黒くなってしまっているが、彼の体を構成している一部だった物質だ。人の死をここまで美しく彩る色は、他にはない。床の血を拭き取りながら、そんなことを考えていた。


 自殺は、正式な戦死としては認められない。しかし、ジョルジュ=オーランド中尉は功績において特別に二等級特進となり、少佐として扱われた。今聞いたばかりなのだが、彼は私が消えた後にトップのエースとして空を飛んでいた人間らしい。私は前線を降りてから、人づてにしか戦況を聞いていなかった。だから、人の語る脚色された戦争が、私の戦争だった。今思えば、私が前線に躍り出て魔女と呼ばれていたことも全て夢だったのではないかと思うほどに、私の戦争に関する興味は薄かった。


「反吐が出ますよ」と、彼は私に言ったらしい。私を呪って、嫉妬していたらしい。私は、私が知らない間に他人に脚色され、物語られることがあった。人の評価だとか、私の言った言葉とか、そういうのは全て、過去になってしまえばすべて偽物になってしまう。そう思うわないだろうか。ジョルジュの体は、国の決めた法律によって燃やされ、軍人用の墓に入れられることになった。しかし、肝心の遺物や遺骨、遺言状を誰が受け取るかで大いにもめた。ジョルジュの血縁者が、「彼など知らない。縁を切った」と言い出したからだ。彼の実家には電話があった。彼の遺書には、家族については何も書かれていなかった。ただ、「自分の遺骨はメーヌの丘に埋めてほしい」としかなかった。遺品は、「私に」渡してほしいと書いてあった。私は黙って、彼の残したものを受け取った。よく考えれば、彼と私は近くにいた気がする。彼は、私のことをよく見ていたのだろう。

「遺品、持っといたらいいんですよね」

「うん」

「じゃあ、お元気で」

 あれからあっという間に時間は過ぎた。あれから特に変わりなく日常を過ごし、とうとう基地から出て行ってしまった。退官式は自分の意志で辞退した。残った沢山の遺品たち。トランク一個に収まってしまった私の荷物。あてのない旅。これからどうしようか、全く考えていない。けれど、なんとなく気分は晴れやかだった。


 ロレーヌの基地から市街地までは、バスに乗ってしまえば10分で着く距離だ。普段は自転車を漕いで渡った道路が、ぐんぐん過ぎ去っていく。目的の駅で私は降りた。ロレーヌの活気溢れる街は、終戦後の混沌とした陽気さに包まれている。いつまた戦争が起こるかもわからないのになぁ、と思っていると、「号外です!」と新聞を受け取った。そこには大きな見出しで、「平和条約の施行に向けた調印式が行われる予定」であると書かれていた。よくよく読んでみると、これからは世界中から戦争をなくし、平和に過ごすという条約が結ばれるらしい。よかったんじゃないか。これで空は綺麗なままでいられる。

「これからどうしようかな~」

 駅の売店でサンドウィッチを買い、ベンチに座って食べる。生ハムと、この地域が原産のチーズを挟んだそれは、頬が溶ろけそうなほどに美味しい。ロレーヌは美食の街だ。おそらく、私の地元よりも食に恵まれているだろう。

「メーヌ行き、ただいま発車します」

メーヌ。聞き覚えのある地名だ。確か__

「遺骨」

 そうだ、彼の遺骨はメーヌの丘に埋めてほしいと遺言が残っていたのだ。

「メーヌ行き、大人1枚、自由席でください!」

 財布から適当にお札を取り出し、駅員さんからチケットを受け取ると、発車間際の汽車に急いで乗り込んだ。「あはは、やっちゃった…」

ドアが閉まり、私が一息つくと同時に汽車は出発した。トランクを抱え、手頃な席を見つけて座る。

「まぁどうにかなるよね」

 自分を励ますための独り言も、宙に浮かんで消えていった。


 ゆっくりと田園地帯を流れていく。そんな風景を車窓から眺めながら、私は机の上に荷物を広げた。荷物の半分は彼の遺品で、彼も私も持ち物をあまり持たない人間だったのだなぁと、勝手に感慨に耽ってしまう。

彼は私と話してすぐ後、自殺してしまった。しかし、入念に自殺の準備を整えていたらしく金は全て小切手に変えられ、処理に困るものは全て捨てていた。衣服なんて受け取っても困るしなぁ、と思っていたが、普段着は全て古着屋に流していたらしい。ちなみに、軍服は遺体に着せられて燃やされた。彼が残したものは、現金換算にして中古車が一台買える程度の小切手と、手帳、遺書と腕時計、ブランドものの文房具と同じメーカーの財布、地図、何枚かのレコードと文庫本、香水に煙草が一ケースだけだった。手帳には鍵がかかっているが、その鍵は高級そうな革財布の中に入っていた。牛皮の財布だ。私の使っていたぺらぺらのそれとは違う、男性もののいい財布。しっかり手入れされた形跡のある時計は、パイロットに支給されるものだった。私よりも遅く入隊した彼は、私よりも新しい型番のものを使っていた。地図を広げてみる。世界地図よりは狭く、何度も開かれた形跡のある古い地図だ。私たちの国の地図。首都よりも少し北の位置に、赤い丸がつけられている。その横にあった文字はーー

「あ」

 メーヌ。メーヌだ。私が目指している場所。きっと、この赤丸の位置に、彼のいう「丘」があるのだろう。とりあえず、そこに向かって行けばいい。なんとなくの暇つぶしで彼の遺言に従っているが、なんだか宝探しのようで面白くなってきた。柔らかい布で包まれた彼の遺骨が静かに存在を主張する。彼の生きていた場所だ。軍人じゃない、彼の場所だ。私も、彼のように軍人じゃない一人のヴィオラとして、彼を見送ってあげようと思った。死んだ人間を送り出す旅だ。私の、旅だ。

 朗らかな昼だった。さっき食べたサンドウィッチが胃の中で消化されていく。私の骨を、肉を、エネルギーを作っている。私はいま、確かに生きている。彼もさっきまで、骨になるまでは生きていた。

「お姉さん、コーヒーと軽食セットください」

 彼のために、私は昼食を頼んだ。彼に対しての、私なりの敬意を見せたかった。車窓は流れていく。コーヒーをすすりながら、読書でもしようか。


 メーヌまでは乗り換えを含めて、丸6時間かかった。私はその間寝たり、本を読んだり、雲の形を考えたりして暇を潰した。彼の持っていた本はとても面白かった。1冊目は発禁になったカストリ雑誌のアンソロジーで、2冊目は少女小説だった。3冊目は歴史書。4冊目は私たちには関係のないゲリラ戦法について書かれた指南書、5冊目は贅沢三昧で国民の生活を反故にし、それが原因で処刑された王様の伝記だった。それに加えて読み込まれた形跡が残る聖書もあった。それから、遺書を暗記できるくらい読み返した。真っ白な紙一枚で彼の人生は完結している。終わらせたのは、戦争と交代で現れた平和だ。たった一言と夜を交わした私たちは、そこも見えないような闇の中で糸一本繋がっていたのだ。

 どうして彼は私を選んで、憎んだのだろう。嫉妬だろうが怒りだろうが、私はそれを感じたことがないのでわからない。彼の日記帳には、彼のその日の行動が几帳面に書き連ねられていたが、私とセックスした作戦前日の記述はなかった。不自然に、そこだけが切り取られていた。思い出す。真っ暗闇の中、獣のような飢えた2つの紫色の瞳。私は、その時初めて死んだな、と思った。私は彼に殺されると思ったのだ。膣の中、節くれだった太い指が、産道に突っ込まれる。違和感、吐き気、高揚感、如何しようも無いくらいに気持ちいいのだ。内臓を取り出し、丸洗いしているようにふわふわしている。太ももの筋肉が、眉毛が、浮遊している。セックスしている時、走馬灯をみる。田舎、ほし、うま、親、干し草、まち、いえ、牛、真っ赤なイチゴ、朝摘みの果物、幸せ、姉、兄、本、声、ヴァイオリン。

 幼児体験というのか、私が置いてきた昔のことが、蓋をしていた過去の記憶が、全て溢れて止まらなくなるのだ。セックスは、私を作る。体をくっつけて、かつて私の両親がそうしたように、静かに人を殺す。吐き出されたなん億もの遺伝子を、私たちは薄いゴムで窒息死させる。恋、愛、なかったものだ。快楽、悦楽、抱擁。超えた先には何があるのだろう。人間、種族、主義、戦争。何も知らない。私たちは、どこへ向かって行くのか、そんな哲学的なことを考えている間に、彼は達していた。ヴァイオリンの音色、駅前のストリート・ミュージシャンだけが私と未来を引き止めている。夜、雪解け水、電柱。星が綺麗な街だ。

 

 次の日、適当に入った安宿で一夜を明かすと、私は早速「丘」について情報収拾を始めた。街を歩いてみると、昨日は気づかなかった花やら人間やらの息遣いを感じる。素晴らしい。生きているって、こういうことなんじゃないだろうか。ミンチになった死体や、レイプしたりされたりする人間、混沌とした戦場を、彼らは知らない。私は、見下ろすだけだった。あの、夜光虫を観察するような高揚感を、彼らは知らない。まだ各所に残る戦争の残り香を、私はこっそりと感じ取る。蛮族、人、化け物、空。普遍的なものと化した戦争。 空襲の焼跡が未だ残る街を、私はゆっくりと歩く。右手には焼きたてのパン。混乱の中、人の営みは続く。

 彼の遺品の受け取りを拒否した家族は、隣の街にいる。一瞬、遺族に直接届けてやろうかとも思った。しかし、それは彼を侮辱することに等しいのではないだろうか。彼は、私を恨んでいたのに私に遺言を託した。生きていた証を、たった一人のくだらない人間に渡してしまったのだ。無責任で、適当な私なんかに。でも、本当に彼は私のことを恨んでいたと思う。けれども私しかいなかったのだろう。そうでなければ、こんな旅に私を送り出すこともないはずだ。

「丘、ですか?」

「はい、丘です。ここら辺で有名な場所かもしれないし、そうでないかもしれませんがとにかく丘を探しているんです」

「そうですね…。丘なんてここらでは全然珍しいものではないんですよ。なんせ、ここは盆地ですから。探したら丘なんて無限にありますよ。何か、特徴はありますか?こう、一等高いとか花畑になっているとか」

「地図のこの場所なんだと思います」

 赤い丸のつけられた地図を差し出す。

「それなら、3番線のバスに乗って7番目の駅で降りてください」

「ありがとうございます、失礼します」

 一瞬戸惑うような視線を送ったのち、男性は私に行きかたを伝えた。切符を買い、乗り場へと急ぐ。

 三番線バス乗り場には、誰もいなかった。ベンチに腰掛けてバスが来るのを待つ。まだまだ春には程遠い。盆地であるからかここは周りよりも一段冷え込むような感覚がある。肌を引き裂こうとする北風に身震いしながら、なぜか初めて飛行機に乗ったことを思い出していた。


 私の出身は山と海に囲まれた平凡な田舎で、農業と畜産業、塩作りで細々と生活している人ばかりの小さな町だった。車よりも馬車の方が多く見かけるような、そんな場所。しかし、そこには当時新設されたばかりの軍の基地があり、工業や軍人相手の商売で儲けようと人が入ってきたり、交通も整備されて、着実に発展している。そんな真っ只中で私は育った。

 私には、二人兄弟がいた。一人は姉で、一人は兄。母の再婚相手の連れ子だった人たちではあるが、とても仲が良かった。母は官営の工場で管理の仕事をしている人で、戦争と同時に引っ越してきた新参の人間だった。私の実の父は軍人で、母が私を妊娠している間の軍事訓練中に事故で死んだ人らしい。今の父親も妻を病気で亡くした人で、もともとここに住んでいた人だ。

 二人は結婚し、お互い別々の職についている。今の父親は先祖代々続く農場の管理人ではあるが、農場の経営はお世辞にも「うまく行っている」とは思えなかった。家族は常に、増える税金と不作に苦しんでいた。生活は常に崖っぷちだった。年金をもらっている母と結婚していくらかマシになったらしい。以前は本当に餓死と隣り合わせだったそうだ。

 夫婦の仲はよかった。何かで揉めているところも見たことがない、いい夫婦だ。私たち兄弟も、緩やかな繋がりのなかでそれなりによろしくやっていた。私にとっては年の離れた遊び相手だった。

 姉について話そう。姉は我が家の人間の中で一番の変わり者だった。姉の非凡な才能ーーヴァイオリン弾きとしての彼女は恐ろしいほどに「出来上がって」いた。それがわかったのは、姉がここを離れた都会で音楽のコンクールに出た時だ。それまでの姉といえば、独学我流のヴァイオリンを、せいぜい町の酒場で演奏し、それで小遣いを稼ぐ程度の人間であった。しかし、気まぐれに参加したコンクールでいきなり金賞をとり、偶然そこに居合わせた音楽界の重鎮にスカウトされ、毎週無償でレッスンを受けることになり、全国中のコンクールを荒らしまくり、最終的には王立芸術院に、学費を全額免除の特待生として入学することになった。ちょうどその頃、隣国が宣戦布告をしてきて戦争が始まって、私たちは迫り来る戦争の影を忘れようと、文化や娯楽に身を投じていた時期だった。そんな中で音楽院に入学することが決まった姉を、私たち家族は不安に思いながらも送り出した。姉は出発する前日に私を呼び出して「わたしは戦争に音楽を使うなんて嫌いだ、負けちまえばいいのさ、こんな戦争」と言った。姉は、音楽が戦争に使われることを憎んだ。きっとそれは、芸術が人間を良くも悪くもすることを知っていたからなのだと、今なら思う。そんな姉は、慰問先の基地で空爆に巻き込まれて死んでしまった。

 兄についても触れておこう。兄は生まれつき足に障害を抱えていた。兄は真面目で頭が良かったため、経済学を学び「将来はこんなしみったれた農場から出て行ってやる」と語っていた。もともとこの農場は、生まれた順でいえば姉が継ぐはずだったので、兄は奨学金を貰って経営を学んできたのだ。しかし、姉はプロの音楽家になると言い張って出て行ったため、2番目の子供である兄がこの農場を継ぐことになった。「こんな田舎で…」と文句を言っていた兄も、この街が今経済的に発展してきていることと、戦時中であらゆる物資、特に金属に需要があることに目をつけ、農場の一部の土地を売った金で工場に投資するということをした。兄は貪欲であった。その貪欲さで私たちは裕福になっていった。成金の完成だ。新聞とラジオだけが知らせる戦争。鉄と砂埃の中の戦争は私たちには縁遠いものに見えた。

 そんなある日、わたしは隣町の曲芸飛行コンテストを見に行った。会場は人という人で溢れていて、年代も性別も身なりもバラバラな人間が一堂に会していた。人々の視線の先には、雲の間を縫うように舞う飛行機たち。華麗に決まったインメルマンターン。布から金属へと材質を変えた飛行機が、わたしには婦人のドレスのように思えた。鎧をまとった鉄の公女さまだ。自由だ。あの空には縛るものなんて何もない。雲の間、星だって掴めるかもしれない。今、太陽に最も近い場所にいるのは彼らだ。

 空高く、鳥のように華麗に飛んだそれは、今の世の鬱屈とした情勢を晴らしていくように見える。空中でダンスを踊った貴婦人。わたしもあれに乗ってみたい、その日の興奮もそのままに、わたしは早速隣町の飛行クラブに入った。

 結論から言うと、飛行機乗りとしてわたしは評価されるようになった。切り裂くような風を感じて、高ぶる胸のままに飛んでいると優勝トロフィーは自分の腕の中にあった。わたしは浮かれきっていた。姉や兄にあって、自分にはなかったものなどなかったのだと思った。劣等感や恥ずかしさなんて全部吹っ飛んだ。初めてコックピットに乗り込み、エンジンの振動を感じ、滑走路からふわりと体が宙に浮いた時、初めて「生きている」と思えた。鉄の羽を羽ばたかせて空を飛ぶ。私たちは自由な鳥になったのだ。空の上には何もない。しがらみも、身分も、何もない。全てが平等だ。上もなければ下もない。嫌なことなんて、飛んでいたら忘れてしまうのだ。

 まず、髪を切った。次に、スカートを履くのをやめた。機械いじりで油まみれになったりした。気の合わない人間にお世辞を言うのも、媚びへつらうのもやめた。わたしは自由に振る舞った。空以外を捨てた。生まれ変わったみたいだった。

 ある大会の表彰式の後、陸軍の幹部にスカウトされたわたしは、言われるがままに当時新設されたばかりの空軍士官候学校に入学した。家族の反対を押し切り、勘当同然で家を飛び出したのだ。それから家族とは一切連絡を取っていない。それが、わたしが戦争にでた理由だった。彼が戦争に出た理由は、なんだったのだろう。


 あっという間にバスは、目的の停留所に止まった。次のバスまでは2時間ほど時間がある。

 駅名なんて覚えていない。降りた先にあるのは湖だった。空を写した大きな鏡が広がっている。そして、それを取り囲むようにして小さな山があった。その上に登れば、ちょうど湖を見下ろすようになる。私は山を登った。まるで、無邪気な少女のように登った。気分は活動写真のヒロインだ。私を、追いかける人間はいないが。坂はそこそこの勾配があり、しばらく登ると頂上に着いた。小高い丘から見下ろす街は、本当に小さく見えた。初めて飛行機に乗って、ミニチュア模型のような街を見たときの興奮と同じだ。彼も、この光景を見て空に憧れたのだろうか。頂上は手入れがされておらず、草は荒れ放題だったが小さな可愛らしい花が沢山咲いていた。それを摘み取って花束にした。

 少し先に、崩れかけの風車があった。そこまで歩いて行ってみるとそれは、昔は立派に動いていたんだろうな、と思えるような大きなものだった。

 蔦が絡んでいて、相当放置されたものなのだろうと察する。

 ノスタルジーを感じるような、胸がぎゅっとする感じがした。風車を一周してみると、傍に小さな小瓶があった。中には、白い砂が入っている。昔、海辺の基地にいた時に見た海辺の砂と似ている。ずっとサラサラしていて、まるで月の砂のようだ。

 ああ、ここなんだな、と思った。

 それを拾って、街がよく見下ろせる崖っぷちギリギリに穴を掘る。その穴に彼の遺骨とその小瓶を埋めて、花束を添えた。最後に、黙祷を捧げて彼の「遺書」を紙飛行機にして飛ばした。

 飛んで行った紙飛行機と、彼の美しいターンが重なる。どこまでも飛んでいきそうな気がした。

 見下ろすと、湖に夕日が写り込んでいた。はっと息をのむ。家にあったため池の近くで遊んでいたことを、今になって思い出した。彼もここで遊んだりしたのだろうか、親しい誰かと、家族と。風が痛いほどに頰に突き刺さる。夕日が沈んでいくまで、飛行機はまっすぐ、風にさらわれるままに飛んで行った。そうして、それが見えなくなるまで私はそこで立っていた。

「さようなら」

 小さく呟くと、言葉が風に乗って去っていくように思えた。

 これで本当に、彼と離れてしまったような気がした。悲しいような、でも晴れやかな気分だった。

 そこから脇目も振らず、寄り道もしないで実家に帰った。長い長い雪解けが終わり、久しぶりに会うと私の家族は変わっていた。義足になった私は、兄の手伝いをしながら機械の修理の仕事をしていこうと決めた。彼のできなかったことをしたかったのだ。彼の言う、殺しが否定される社会で生き抜いていくことが唯一の弔いだ。

 人になれなかったと言っていた彼のほうが、よっぽど私よりも人間らしかったのだろう。

 私の戦争はまだ、続いている。


「1の正義のために、100を殺す。そんなことをらはやってきたのです。雪解けが終わり、戦争が終わり、長かった冬が終わり、花が咲き、冬眠から動物は目覚めて、人は死にます。戦争をやらないは、どうしようもなく価値のない人間なのです。殺しが肯定されて、同じ種族の者同士が鉛玉で殺される世界だけが、僕の生きているという行為が肯定される世界です。僕は、戦争の中でしか生きていられません。あなたのようにうまく空は飛べませんでした。ヴィオラさん、僕の生きていたという証を細胞の塊から骨だけになってしまったの全部を、あなたにあげたいのです。卑怯かもしれませんが、あなたを殺したいと思ってしまいました。さようなら、またあの場所で会いましょう。レーヌの丘に、僕の骨を埋めてください。そうしたら、また会えます。それでは、お元気で」


「僕は地元では有名な地主の長男でした。僕の下には三人の弟と双子の妹がいて、兄妹仲は良かった方だと思います。近所に住む女の子と仲が良かったんです。彼女は名前はマリアンヌといって、僕と彼女は幼いながらに将来を約束しあっていました。本当に、彼女はお砂糖とスパイスと素敵なものでできているって思っていましたよ。それくらいに彼女は可愛らしかった。さて、ある日僕はどうしようもなくうずうずしていました。標本を作りたかったのです。その当時の僕は、昆虫の標本を作るのが好きでした。でも、近所の人間や親からは気持ち悪いと軽蔑されていました。けれど、虫に注射を打ってピンを刺す時ってワクワクするんです。とても美しいんですよ。あの、醜い生に足掻こうともせず黙って死んでいく瞬間はとても美しいですからね。人間と違って。

だから彼女を湖にこっそり呼び出して、ボートを一緒に漕いで、くすねたクッキーを食べて、そのあと風車小屋の中で過ごしました。その風車は、僕の家の持ち物でした。自転車を漕いで、そこまで行きました。二人で並んで真っ赤な自転車を漕ぐと、すごく気持ちよかった。風車小屋の中で、疲れて眠った彼女に盛ったんです。わかりますか?毒を盛ったんですよ。なんの毒かは知りませんが、昔は罪人の処刑に使われていたものらしいです。これをやると、綺麗な死体ができるらしくて、えぇ。

結果として、彼女は眠った顔のまま死にました。まるで眠り姫だ。そしてそのまま、彼女の死体を隠して風車に鍵をしました。家に帰って、泣きしながら「マリアンヌがいなくなった」って言えばみんな僕を心配しました。子供だと思われてましたから。僕はいい子ちゃんで通ってたんです。大人はマリアンヌの死体が、まさかあんな遠く離れた風車小屋に置いてあるなんて思いませんですからね。それに、彼女は親に風車小屋のことを言っていなかったんです。警察や軍の一部も総出で探しましたが、結局見つけることはできませんでした。

僕はそうしている中でも毎日学校が終わるとそこに行って、彼女の死体を眺めていました。でもね、彼女の死体は綺麗なままではいてくれなかった。腐っていくしから匂いもするし、だんだん汚くなっていくんです。それで、はもうダメだと、そう思って彼女を焼きました。せめて骨だけは綺麗だろうと、そう思って。あ、でも彼女の髪の毛だけは取ってあるんです。見せましょうか?ーーー冗談ですよ。

ええと、続きですね。まぁ、きちんと骨は出るわけですよ。焼いたので。学校のカエルの解剖を思い出してください。その要領で骨を並べて。あぁ、骨の形も彼女は綺麗でしたよ。しばらくはそれでよかったんです。ですが、だんだん罪の意識に苛まれていきます。どうしよう、彼女を殺してしまった、とね。マリアンヌは結局、行方不明のままで片付けられました。それが余計にの罪悪感を煽るんです。今でも夢に見ます。彼女を、蝶の標本でも作るかのように殺したんです。エゴの塊です。僕は世界で一番醜い生き物なんですね。両親は、彼女のせいで将来のことを考えていないと思っていたんでしょう。ある日僕は、寄宿舎のある学校に入れられることになったんです。もちろん嫌でした。それに長くこの場所を離れると、彼女の遺骨が見つかる危険だってあります。抵抗しましたが、結局無理でした。出立する前の日に、彼女の遺骨を砕いて遺灰にしました。小瓶の中にそれを入れて、そっと隠したんです。残りは全部食べてしまいました。遺骨をこう、スープの中に入れて飲んだんです。僕は粉薬を飲むのが苦手だったんですが、これをしてから飲めるようになりました。だって、彼女の遺灰と同じ感触なんですからね。その時から、彼女の人生を背負って生きようと思いました。

それから、寄宿舎のある学校に入って、そこで集団生活というものをしていました。あくまで、真面目に。真面目なふりをしていたんです。僕は本当は、殺人鬼なんだと、そう思いながら暮らしていました。何があっても平気でした。彼女はと一体化しているからです。だってそうじゃないですか、彼女の遺灰から作り出されたこの体は、彼女と僕が一体であることの証拠ですよ。それは置いておいて、僕はひたすら真面目に、目立たず、でも一定の成績は収められるように頑張りました。男子校だったので、彼女の以外の女性との関わりを断つことは簡単でしたね。寮母や教師、店の店員みたいな人とも、なるべく話さないように彼女だけを見ていました。でも、そんな生活も嫌になったんです。僕はとにかく、何か新しいことをしていないと落ち着かない性分で。ちょうど戦争も激しくなってきて、学校の近くに爆弾が落ちてくるだとか防空壕に籠るというのが当たり前の生活を続けていたんです。それならもう、戦争に出るしかないって思ったんですね。極端でしょう?

でも、せっかく目指すなら上に行きたいし、なんなら最新の科学にも触れたかった。幸い成績は良かったんです。だから学校を中退して、陸軍予科学校に入りました。

結論から言うと、僕と軍隊の空気は合いませんでした。あんなに重苦しくて退屈な場所はない!何もかもが狂っている!戦争の狂気に当てられた人間が、僕のような子供を洗脳するなんて愚かな行為の連続です。毎日辛い思いでいました。周りの人間も皆、まるで肥えた豚のような人間ばかりで。しかもそれに加えて、恐ろしいことに女性がいたのです。ああ、僕はマリー以外の女性と関わりたくなかったんです。盲点でした。女性の軍人なんて、田舎にはいなかったから…。毎日あの、汗と埃にまみれた汚らしい校舎で、は必死に耐えていました。必死で耐えて、やっと卒業できたんです。そのあとは、どうしても不本意でしたが士官学校に入りました。空軍です。空軍の、4期生でした。他の生徒はほとんどが陸と海で、その当時の空軍は輸送任務と索敵が主な仕事でしたから、なんとなくで選んだんです。ですが、その判断は間違っていませんでした。僕は、ジョルジュ=オーランド軍曹は飛行機乗りとして有能だと言われて、それで、本当にそうだと思っていました。4期生の中ではトップでした。空を自由に飛ぶことは、僕にとっては容易いことでした。鳥になったように、空を飛ぶんです。その中でも特に、航空戦術は大の得意です。航空戦術の授業は、1期生が卒業する頃から取り入れられました。その頃から、飛行機に機関銃を取り付けて撃ち合うということが多かったそうです。その前はレンガなんかをお互いにぶつけていたんですってね。面白いでしょう。

そうしてある日、士官学校で3期生の先輩の噂を聞きました。誰よりも、速く正確に飛べる奴がいるらしいと。どうしても信じられなくて、こっそりそれを見に行きました。そうしたら、まぁとても驚きましたね。まるで、空を踊るように飛ぶ人がいたんです。空中散歩というのか、なんだか戦闘機らしくない飛び方でしたが、その人は何もかもが完璧でした。僕の規則正しい規律的な飛び方とは違って、その人は自由でした。散歩するみたいに飛行機に乗る人なんて、初めて見たんです。その人が飛行機から降りて、こちらに向かってくると、ギャラリーの女子生徒が黄色い声をあげました。でも、こちらに向かって歩いてくるのは、ひょろひょろでのっぽの、カカシみたいな人でした。まるで山籠りでもしているみたいな風貌で、なんだかぼうっとしていました。なんだか足元もおぼつかないような人です。その人は女性でした。彼女たちの声援を見ると、適当に手を振って帰っていきました。呆気にとられて、ずっと彼女を目で追っていました。本当のところ、その生徒が女性だと思っていなかったんです。

2日後、彼女が一人でいるところを見かけました。校舎裏で、こっそりタバコを吸っていました。なんだか色っぽいというか、なんとも言えない生命力を感じました。カカシのようだった人が、その時は人間の女性に見えました。ああ、流し目の美しいこと。彼女の美しさは今にも崩れそうなアンバランスさと、危うさがありました。作り物や標本では出せない雰囲気です。タンクトップにコートを肩から羽織って、壁にもたれていました。煙草なんて、ここでは規制品です。でも、彼女にそれが似合いすぎていて何も言えませんでした。僕はそこから、何もできずに立っていました。彼女の真似をして、葉巻を持ち込んだりしました。彼女の美しいターンを見て、必死に勉強しました。彼女が飛ぶところは、なるべく見にいきました。そうして、僕は彼女にのめり込んでいきました。言葉も何も、交わしたことはないし、彼女は僕のことなんて知らないんです。でも、僕は彼女が好きでした。どうしようもなく、好きだったんです。マリーとは真逆の印象の彼女、僕はその人を追いかけるようにして卒業しました。

僕は、彼女と同じ基地に配属が決まりました。国境沿いにある監視基地。国の防衛の最重要拠点です。僕はそこで、第9偵察小隊に配属されました。彼女はもう既に夜間防衛中隊というところにいて、基地のエースと成績を追い抜け追い越せといったペースで出世したそうです。僕は昼間に飛んで行って、彼女は夜に、敵を静かに堕としていました。彼女は密かに、敵国の兵士に恐れられていました。彼女の飛行は芸術性がありながらも、夜の魔女のように冷徹で正確で、攻撃的でした。彼女に畏怖の念を抱きながら、僕も順調に生き残っていき、最終的には空軍の精鋭が揃う第13戦闘機中隊ーーー通称「黒鷲隊」で一緒に飛べるというところまでいきました。彼女の成績を考えれば、尉官などとっくに終わって佐官になっていてもおかしくなかったのですが、彼女自身の素行が良くなかったことを理由に、中尉止まりでした。ヴィオラ中尉、彼女は美しかった。彼女の飛行だけではなく、彼女自身も美しいのだと僕は気づきました。彼女はあまり多くを語りませんでしたが、それ以上に行動で示す人間です。気高く美しい黒鷲が、彼女こそがエースにふさわしい。空高く舞い上がる彼女の隣で飛べることを、僕は心待ちにしていました。そして、その前の晩のことです。僕は彼女とセックスしました。

知っていたのです。彼女が色々な人間と見境なく寝るような人であることも、そのせいで昇進できないことも知っています。でも、彼女の翼を広げたような黒髪に誘われるがまま、僕は彼女に抱かれていました。僕はあの人で童貞を卒業しました。生まれてこのかたずっと守り抜いた貞操を明け渡しました。自慰行為だってまともにしていないのです。それなのに、僕は彼女の腕に包まれて、まるで赤子のようにされるがままでいましたーー。彼女の腕は良かった。飛行の時とは違って、性急で荒々しい暴き方をしましたがそれが逆に良かったんです。まるで母親の子宮の中にいるようでした。全く罪悪感はありませんでした。それよりも、彼女が僕を抱いたことに嫌悪感を感じてしまいました。なぜ、彼女は僕と寝ていたんだろう…。どうして、どうして彼女は僕のような未完成で不揃いな人間を抱いている?幾人もの人間を殺した手で生殖行為をするなんてーー彼女は僕のような価値のない人間をーー。古来より、人間とは男女で番いになって子供を育ててきましたよね?僕はそういう、生産的な行為には向いていない。僕は童貞を捨てたことにより、そう悟りました。避妊はしていました。ですが、完璧という言葉はありません。完全に、とか絶対という言葉も信用できません。もし、彼女が妊娠していたらどうするんでしょう。彼女の子宮の中で、僕の遺伝子と彼女の遺伝子が混ざった混血児が産まれたら、どうしたらいいんでしょう。今でも思います。正直なところ、僕は自分の遺伝子なんて残したくもないし、自分のことが嫌いでしかないんです。彼女たちの遺伝子が残るのならいいんです。僕の汚れた血が、彼女に流れるのが嫌でした。知っています。妊娠なんて1日かそこらでわかるもんじゃない。ですが、どうしても、僕は気が動転していてーー。そして次の日出撃中に、敵を撃つふりをしてーー誤射に見せかけて、彼女を撃ちました。

彼女の愛機はまっすぐ落ちていきました。冬の海、氷の張った海です。吹雪が吹くことも珍しくありません。彼女はまっすぐ、重力に従って落ちていきました。天使の羽が落ちるみたいな、流星みたいに綺麗な落ち方です。煙をあげて地面にたたき落ちていく様子は、まるで流星の尻尾のように見えました。子供の頃に見た星のような、そんなあっけない終わり方でした。

混戦中でしたし、敵味方が入り乱れて陣形も崩れていました。だから、僕が撃ったなんて誰も気づかなかったでしょう。実際に、報告書にも敵に攻撃によって撃墜された、と書かれていましたから。これで彼女が死んでいたら踏ん切りもついたのでしょう。僕は屑だ、と嘆いていて終わっていたでしょう。彼女の英雄譚は、最前線の戦場で終末を迎えた。悲劇的で凛々しい女騎士の死です。乙女の流す血は美しい、祖国に対して懸命に働いた、と後世まで語り継がれることでしょう。しかし、彼女は生きていました。あの、涙も凍るような冬の海の上、流れた流氷に捕まって、彼女は生きていました。巡洋艦に運良く捕まって、生きていました。足は凍傷で切断したそうですが、彼女は生きていました。生きていたんです。それを知ったのは、すぐ最近です。彼女はこの基地の近くにある病院に入ったそうです。ーー嗚呼、どうしましょう。僕は、美しい人をまた殺した。美しくない、こんな終わり方は美しくないんです。彼女にはずっと、戦場を駆ける一人の戦乙女でいて欲しかった。彼女は鳥なんです。鳥のように美しく、空を舞い、そして散っていって欲しかった。彼女の悲劇性さえあれば、物語はあれで終わったんだ……

嗚呼、僕はなんていうことを…死んで欲しい…死んで欲しいのは僕の方だ…。汚してしまった…最低の屑だ…生きている価値もない僕は、僕は……嗚呼……なんということを………

…………申し訳ありません。取り乱してしまって……

でも、これが彼女について知っている全てのことなのです。きっといつか、僕がこの罪を償うときが来るでしょう。でも今はその時ではないということでしょうね。この戦争が終わる頃に僕は生きているのか、死んでいるのか。未来のことなんて誰もわからないでしょうね。くれぐれもーーこのことは彼女だけには知らせないでください。お願いします。これが僕の、一つののぞみです。今日はありがとうございました。ではこれで、僕は失礼します」

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