3.ダクトと非常階段
ときおり、何本かの足を生やした小さな箱が、段々の街のわずかな往来に遠慮しながら歩いているのに出会います。とことこ、と、音を立てて壁際を歩いています。重力に逆らって、壁や、天井を歩くものもいます。天井は段の裏側です。下から見上げると、上の段がちょうど天井のように見えるのです。
箱は少し立ち止まって、きょろきょろと辺りをうかがう仕草を見せると、壁の高い場所に開けられたダクトに潜って、そのまま見えなくなりました。
「行っちゃったね」
「うん」
「ダクトの向こうも見たけど、見つからなかったんだよなあ」
「え」
少年は驚きました。
「ダクトのむこうは、だめですよ。むこうはかれらの世界です」
この<星のはしご>の中の世界は、この縦に伸びる大空間だけではありません。ダクトを通してその向こうには、箱たちの世界が広がっています。そこは、箱たちの世界です。階段の街の住人はそのことをよく尊重していますから、誰も立ち入ろうとはしません。
なのにお兄さんは行ったと言います。
それはとてもいけないことに思えます。
「うん、そうだね。向こうは彼らの世界だね。だけど、僕は大丈夫なんだ」
何が大丈夫なのか、少年にはわかりません。
でも、時々行き過ぐ箱たちがお兄さんに何の警戒も示さないのをみると、本当に大丈夫なのかもしれません。少年は不思議に思いました。
らせん階段の街をおりると、街が水没しています。
透明だけれど奥の見えない、暗い色の水面が行く手を阻んで、らせん階段の段だけが何事もなかったように、その水の世界に沈んでいきます。
水の中に沈んだ段は、装飾も加工も何もなく、直線がまだその鋭さを保っていて、昔の面影を残しています。
「これ以上は進めないね」
「うん。これ以上はすすめない。だから、非常階段でいくんだ」
少年はお兄さんを案内します。
水面まであと3段のところに非常口があって、ちょっと重めの扉を身体で押します。お兄さんも、開けるのを手伝ってくれました。
扉を開けると通路があります。
通路は、お兄さん一人が抜けるのにちょうどいいくらいの狭さです。
その先に、非常階段はあるのでした。
非常階段は、さきほどの大空間に比べれば実に狭い縦孔です。
大空間と違うのは、周囲を覆うのが壁ではなく、様々な種類の配線や、パイプや、肺のような浄化槽や、配電盤や、そうした様々な種類の設備が詰まって、脈打っていることでした。
非常階段は、こうした内臓群の隙間を縫うようにして在るのです。
「この<星のはしご>は、いきているんだ」
「へえ、キミ、よく知っているねえ」
少年は、お兄さんと、非常階段を降りていきます。
非常階段にもランプは灯り、お店や、住人たちの生活があります。
ここは非常階段なので、非常のとき以外は使ってはいけないのだけど、住人たちはおかまいなしです。表の大空間は水に沈んでいますから、いまも非常が続いている、というのが住人たちの言い分です。いずれにせよ、誰も咎める人はいないので、それで問題ないのです。
「おや、こんなところにカプセル・ホテルの入り口がある」
お兄さんが見つけました。
「少し歩き疲れたし、ふたりでちょっと行ってみない? <星のはしご>を外から一望できるよ。キミ、<星のはしご>を外から見たことある? 宇宙の中でまっすぐ伸びて、とても気持ちがいいよ」
「いかない」
「そっか。とっておきのカセットもあるのにな。あっ、電信喫茶もあるじゃないか」
電信喫茶は、様々な星に点在する、星間通信のできるお店です。いま使われているRadix通信とは異なる、音色を組み合わせた送信方法で通信します。
「むかし、この<星のはしご>は海の近くにあったんだ。電信喫茶はその潮汐を利用して音の素をつくる。でも今は海がないから、この電信喫茶は使えない。だけどちょっとみてみたいよね」
「いかない」
「そっか」
少年は、お兄さんと、非常階段を降りていきます。
段が少し狭いので、足を踏み外さぬよう、慎重に降ります。
「ねえキミ、知ってる? この<星のはしご>はね、むかし、惑星と<月>をつないでいたんだ」
「うん」
「でもいまは、惑星も<月>もなくなって、くるくる回転しながらずっと宇宙をさまよっている。それはそれは永い時間を」
「うん」
「だけど<星のはしご>も、いつかはどこかの星に引き寄せられて、いずれ墜落する運命にある。じゃあここの人たちは、なんで<星のはしご>に住み続けていられるんだろう。その運命を知らないのかな。いや、そうじゃない。みんな知ってる。カプセル・ホテルに泊まれば、<星のはしご>の外の様子もわかるしね。だけどみんな住み続けてる。ねえキミ、なんでか知ってる?」
「ううん」
「<星のはしご>にはね、外の世界と行き来する秘密の手段があったんだ。いざとなったら、それを使って逃げられる。だからみんな安心して、住み続けることにしたんだ」
「……」
「だけど、それも最初の話でね。いまはもう誰も、その行き来の方法を覚えていない。みんな忘れちゃったんだ。方法を忘れて、でも“何かあっても大丈夫”という話の結果だけは覚えていて、それでみんな、気にせず住み続けているんだ」
「うん」
「この<星のはしご>にも星船は来るけど、星船の運航は不定期だから、何年も待たされることもあるから、あてにできない。僕はね、だからその方法を探しに来たんだ」
「うん」
「ねえキミ。もしさ、もしその行き来の方法を知っている人がいたなら、みんなに教えてあげるのが親切だとは思わない?」
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