第4話 森の獣

落ち葉が踏み固められた森の中の道は、薄暗くなるに連れて周囲と景観が似通い、歩きづらくなっていった。

通い慣れているから大丈夫だろう、という自信が時と共に少しずつ薄れていく。

樹頭から飛び立つ鳥の羽ばたく音や虫のさざめきが必要以上に気になり、落ち着かない思いで進む中、間近の木陰から射貫くような鋭い視線を感じた。

正体の分からないものが明確な敵意を向けてきている。

「何や……?」

マーリャは足を止めて後列のディアンたちを制止させ、腰のボーラを解いた。

ランプを取り出して点ける時間はなさそうだ。

「話すん止め……近くにおるぞ」

マーリャの様子を察したディアンが振り向き、まだ談笑していたセルマとソレルに呼びかける。

二人ともびくりと肩を震わせ、セルマはソレルを腕の中に招いて庇う姿勢を取った。

守らなければならない対象は多い。マーリャは重心を低くし、ボーラを構えて木陰をにらみ返す。

すると茂みから一匹のリスが現れ、凄まじい勢いで足下を走り抜けていった。

「わっ!」

あまりに速く、マーリャ自身は何が通ったのか分からなかった。

すんでのところで転ばずにいたが、その一匹を皮切りに小動物が群れをなして駆けていく。

時間にして、ほんの一瞬の出来事だった。脇目もふらぬ大移動は鬼気迫るものがあり、場にいた全員が圧倒されてしまった。

彼らに伴って訳も分からずに逃げていれば、まだ良かったかもしれない。

最後に飛び出してきた雄鹿はーー遅かった。

目の前で雄牛ほどの巨体の獣に組み付かれ、首筋に歯を突き立てられて地面に倒れ伏した。

黒々とした毛皮の獣は何度も首を振って首の骨を折り、鹿にとどめを刺す。

まっすぐに立った耳と太い四肢、膨らんだ長い尾は狼によく似ていたが、これほど巨大化した個体がいるなど聞いた覚えがない。

狼ならば集団で行動するだろうに、獣の他に同種の気配はなかった。

「きゃあぁっ!」

遅れてきた悲鳴はセルマのものだった。動きを遅くしてしまうカゴを肩から落としてソレルの手を引き、とっさにディアンの影へ隠れた。

ディアンは暴れ出した豚の牽引縄を手放し、セルマと同じ理由でカゴを捨てると笛で思いきり高い音を鳴らす。彼の父親はその音色によって外敵を怯ませ、退かせていた。

しかし眼前の獣はわずかに毛を逆立てる程度で、全く退こうとしない。

仕留めた鹿を食べようともせずに口を離すと、子供を庇うセルマや笛で脅したディアンではなく最も近くにいるマーリャを睨み、低い声でうなり始める。

武器を持っていると勘づいているのかもしれない。判断は一瞬で下さなければならなかった。間違えば惨劇が待っている。

「逃げえっ!」

マーリャは渾身の声で叫び、頭上で回転させたボーラを獣に向かって投げつけた。

空を舞った重りが上手く獣に命中するかは、この際重要ではない。少しでも相手が怯めばそれで良かった。

獣の動向を見る余裕もなく、小動物が逃げていった方向へ全員で駆け出していく。

荷物を全て捨てて身軽になったからか、獣の身が鈍重であったのか、しばらくの間走り続けても追いつかれはしなかった。

突き出した木の枝で手や頬を切り、頭巾を落としながらも振り返らず、やがて森の出入り口を示す木製のゲートと夜に備えたかがり火の光を視界にとらえる。

「あとちょっとじゃ! 気張れ!」

後ろから届いたディアンの声が心強かった。

あそこに行けば助かるという安心が、ほんの少しマーリャの気を緩ませてしまった。枯れ葉の下に埋もれていた木の根につま先が当たり、足を取られて転んだ。

肘と膝を強く打ちつけ、あちこちに土を被る。

「マーリャッ!」

セルマとディアンは倒れたマーリャを見てすぐに立ち止まり、起こそうと方々から手を差し伸べた。

マーリャはすぐさま顔を上げて彼らに応えようとしたが、獣は間近まで追いついてきていた。本来なら、その恐ろしい凶刃はマーリャの肩から背にかけてを本能のままに醜く抉るはずだった。

少女と獣の間に幼い子供ーーソレルが割って入るなどとは思いもよらなかった。

「ソレル!?」

ぶちぶちと筋繊維の千切れる音が起こる。振り向いたマーリャの眼前で、ソレルの右の前腕は獣の餌食になった。

深々と突き刺さった歯牙から流れ出る血の臭いと赤さに心臓が凍りそうになる。

柔い肉に噛みつき唸り声をあげながら、獣の眼光はなおもマーリャに向いていた。

本当の狙いはお前なのだと言わんばかりで、心から怖じ気づく。

それでも。

ああ助かった、と安易に逃げるわけにはいかなかった。

ソレルは自分の身代わりになり、叫ぶことも出来ずに泣いているのだから。

「離せ……っ!」

マーリャは前屈みになって獣の鼻柱とあごを掴み、強引に口をこじ開けようとした。マーリャの意図を察したセルマとディアンも加勢してくる。

横の歯が指先に食い込んで皮膚を破こうと構わずに続けるうち、獣は不意に耳を垂らして怯んだ。

毒を飲まされたようなしかめ面で、かすかに噛む力を弱める。その理由など考えず、すかさずソレルの腕を抜き出して背中に庇った。

獣は頭を振って不快そうに唾を吐くと、再度マーリャに狙いを定める。立ち上がって二人の影に隠れようとも、目当てはぶれないようだった。

次は本気で飛びかかってくる。そうなれば全員がやられてしまう。

囮になれば三人が逃げるだけの時間を稼げるだろうか。走り出してしまうつもりでマーリャは目を閉じる。

すると、背後から何者かの足音が聞こえ始めた。決して早くはないのに、あっという間に獣の方まで移動している。

重い鈍器の衝突音と骨のきしむ音が同時に起こり、おそるおそる目を開けると身構えている二人の向こうで金色の三つ編みがひるがえっていた。

背の高い男が並ぶと獣も心なしか小さく見える。右手に握りしめた戦棍で脳天を殴りつけたのだ。

「子供は小さいから、襲って食べたくなるんだね」

非常事態にも関わらず男の声は楽観的な色を残している。背中ごしで、その表情までは分からない。

思いも寄らぬ一撃を食らった獣は空足を踏んで何度も吠えた後、尾を巻いて森の奥へと逃げ去っていった。

男は一息つくと肩掛けカバンに戦棍をしまって振り返る。

「大丈夫かい? カーバンクル」

にこりと微笑む顔は予想通り、あの巡礼者だった。

「ジョサイア……」

セルマから聞いた名が口をついて出る。

「あれ、名乗ったっけ? ま、いいや。間に合って良かったよ。手当して早く戻ろうか」

巡礼者のエルフーージョサイアはマーリャたちに歩み寄り、マーリャの後ろでぐったりとしているソレルの腕を診察し始めた。

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