二.出会い①

 夜明けを迎えた桟橋には多く船舶が錨を下ろし、早くも賑わいをみせ始めていた。

スラウはローブを羽織り、鞄を掴むと扉の前で振り返った。

長い旅だった……

もう1度船室を見渡すと扉を開けて甲板へ向かった。


 磯の香りに包まれた港町には人々の威勢の良い声が飛び交っていた。

せわしなく積荷を運ぶ船員たちの間を縫って歩いていた時、突然爆音が響いて火柱と共にマストが倒れ込んできた。

悲鳴を上げて逃げ惑う人々に次々と火の矢が飛んでくる。

その場に立ち尽くしていたスラウは逃げ惑う人たちに押し倒されて甲板を転がった。


「うっ……!」


端に積まれた木箱に叩きつけられたスラウは、燃え盛る炎を背に立つ覆面の集団に思わず目を見張った。


「な……に……?」


『逃げるぞ! 立て! 早く!』


突然、声が聞こえた気がしたので辺りを見渡したが誰もいなかった。


『奴らの狙いはお前だ! 早く立て!』


頭に鳴り響くような声はまだ聞こえていた。

少し先で後ろ足で立っているラナンが琥珀色の瞳でこちらを見つめていた。


「ラナン? 話せるの?」


スラウの問いに答えぬまま、ラナンは桟橋に飛び出した。


************************


 町の中心地までやって来たが、朝市で賑わう人ごみのせいで思うように進めなかった。

今や、襲撃者たちは数を増やしながら迫ってきていた。

ラナンは方向を変え、建物が立ち並ぶ人気のない細い路地に転がり込んだ。

だが、路地の先からも追手が来ているのが見えた。


「挟み撃ちにされた!」


スラウは叫んだが、ラナンは躊躇することなく、近くに積まれていた木箱に飛び乗ると建物の屋根の上によじ登った。


「待って! 登れないよ!」


『出来るさ』


返す声は思いのほか落ち着いていた。

躊躇ったが、スラウは頭を振った。他に道は無いのだ。

木箱に向かって走りながら地面を軽く蹴った。

その上に飛び乗るつもりだった。


 しかし、身体はそれを軽々と越えてしまい、そのまま壁にぶつかりそうになった。


「うわっ!」


慌てて煉瓦の端を掴み、脚を振り上げて辛うじて屋根に乗る。


「身体が……軽い?」


首を傾げる間にも、ラナンは既に隣の建物の屋根に飛び移っていた。

スラウも危なげに飛び移るとその後を追った。


『この間に少しでもあいつらを引き離すぞ!』


その言葉にスラウは力強く頷いた。


 町並みが疎らになってきたので、ラナンはひょいと屋根から飛び降りると器用に後ろ足で立った。

頭を左右に振り、周りの様子を確認する。


『こっちだ』


 だが、ラナンは曲がり角に来たところで足を止めてしまった。

スラウが陰からそっと顔を出すと、覆面の集団が馬に乗って走ってくるのが見えた。

考えを巡らせていると、ちょうど厩に繋がれていた馬が目に入った。


「あれに乗ろう!」


スラウは馬が繋がれていた紐を短剣で切ってそれに跨った。

馬の嘶きを聞きつけて近くの建物から持ち主らしい人が出てきた。


「おい! そこで何してる?!」


「おじさん、借りていくね! 後で返します!」


スラウはそう叫ぶと馬の背を叩いて森の方へ向かった。

彼は茫然と彼女を見送っていたが、後ろから何頭もの馬が砂ぼこりを上げて彼に突っ込んできたので、慌てて建物の中へ逃げ込んだ。


************************


「……よしっ!」


 茂みを掻き分けて1人の青年が現れた。

くしゃくしゃになった赤い髪に絡みついた葉を払い落とす。

日に焼けた小麦色の手には金色の懐中時計が握られていた。


「そろそろ時間だ」


彼が後ろの茂みを振り返ると、茂みを掻き分ける音と共に複数の人影が現れた。


「これより契約主スラウとラナンを迎えに行く。準備は良いな?」


青年の明るい茶色の瞳が光った。


************************


 蹄の音が薄暗い森に響く。

視界が開けた先には草原が広がっていたが、その先からは再び急な斜面が続き、一層生い茂った森へと繋がっていた。

馬の頭によじ登ったラナンが顔を左右に振って道案内をしてくれたおかげで、ここまで迷うことなく森を抜けることができたが、馬は鼻を鳴らすと走るのをやめてしまった。


「疲れちゃったのかな?町からずっと走ってくれたもんね……」


『馬をおりよう』


ラナンが言った。

スラウは馬からおりると馬の顔を撫でた。


「ここまでありがとう。主人のもとへお帰り」


馬はスラウの言葉を理解したかのように、もう一度鼻を鳴らすと道を駆け戻っていった。


『急ぐぞ!』


ラナンの声に頷くとスラウは走り出した。

山道は生い茂っている草木のせいで暗く、見通しも悪かった。

苔むしたところもあって滑りやすくなっていた。


「ねぇ! あの人たち何なの?! それに……ラナン、何で急に話ができるようになったの?」


『詳しいことは後で説明するけど、力が開花しつつあるんだ。今はとにかく捕まらないことだけを考えてろ』


************************


 襲撃者たちは森の前で馬を止めていた。

先頭を走っていた馬が森を怖がって暴れ始めたのだ。

その時、一際大きな黒馬に跨る仮面の男が前へ進み出てきた。


「我が君! ここから先は進めません!」


必死で馬を制御していた部下が声を上げた。


「馬を捨てろ。策は練ってある……あの娘が奴らと契約を結ぶ前に捕えろ」


仮面の男は部下に命じた。


「そう簡単に逃げられると思うなよ……」


薄ら笑いを浮かべた仮面の下からくぐもった笑い声が漏れた。


************************


 前を進んでいたラナンが耳をぴくりと動かして突然止まった。


『しまった! 待ち伏せされていたのか!』


「え?!」


その瞬間、目の前の木立の陰から覆面の者たちが飛び出してきた。

慌てて振り返ると後ろの道も既に塞がれていた。


「何なの、この人たち?!」


スラウが剣を引き抜いて身構えた瞬間、強い風が巻き起こった。


『伏せて!』


 可愛らしい女の子の声が頭に響いた。

きょとんとした顔で突っ立っているスラウにラナンが飛びつき、地面に押し倒した。

次の瞬間、風が砂を巻き上げた。

土埃で視界が悪くなり、口の中に砂や石が入ってくる。

突風はしばらく辺りを吹き荒れていた。


 風が収まり、噎せながら顔を上げたスラウは思わず口をあんぐりと開けた。

自分たちを取り囲んでいた者は皆、へし折れた樹の枝や岩の上で伸びていた。


「何……が……起きたの?」


茫然と呟くスラウの頭にさっきの女の子の声が響いた。


『行って! 早く!』


『行こう!』


ラナンに急き立てられたスラウは戸惑いながらも、見えない声の主にお礼を言ってラナンと走り出した。


『ふぅ』


先程まで誰も立っていなかった木々の間に小柄でほっそりとした体つきの少女が現れた。

肩までの緩いカールがかかった金色の髪の毛を水色の太いバンダナで留めている。

小顔で鼻は小さい。

大きな茶色い瞳がスラウの去っていった方を見つめた。

淡い水色のふわりとしたワンピースが風にたなびいている。

少女は細い腕を組んで大きく頷いた。


『間に合ったみたい』


『フォセ……』


少女の横に1人の少年が現れた。

膝に手をつき、肩で荒い息をしている。

黒髪のかかった額を汗が伝っていた。

フォセと呼ばれた少女は小首を傾げ、優しそうな黒い瞳の少年を見つめ返した。


『何?』


『もっと力を加減しないとダメだよ……あの子もフォセの風に巻き込まれちゃってたし……』


少年はスラウの消えた方角を指差したが、彼女は鼻で笑っただけだった。


『あれくらい平気だって。大体、あたしがあと少し遅かったら2人とも助からなかったもん。チニが来るのが遅いからいけないんだから!』


チニと呼ばれた少年はむきになって言い返した。


『ぼ、僕が遅いんじゃないよ! フォセが早すぎるんだ!』


『ふーん、遅れたくせに何か偉そうじゃなぁい?』


フォセがにやにやと笑いながらチニに迫ると、彼は慌てて顔を引っ込めた。


『うぅ……で、でも……僕……僕だって……』


次第に声が小さくなっていく。

ぼんやりと髪をいじっていたフォセはふと顔を上げて叫んだ。


『来るよ!闇狼あんろうが2匹!』


道に躍り出るフォセにチニも続いた。

胸の前で合わせた彼女の手に小さな風の渦が出来ている。

一方、チニは胸ポケットから紙切れを取り出すと何度か折り、狼の形を作った。

次の瞬間、茂みから飛び出してきた紅い瞳の黒い獣が2人に飛びかかった。


『いっけぇ!』


フォセは風の渦を両手で押し出し、チニは紙の狼を前へ飛ばした。

風の渦が獣を呑み込み、紙の狼は宙を飛んでいる間に命を吹き込まれ、もう一方の獣の喉に食らいついた。

耳も塞ぎたくなるような咆哮が森に響いた。

2人が両手を下ろした時には、2匹の闇狼は息をしていなかった。


************************


「さっきから何が起こっているの?いきなり風が強く吹いたり、女の子の声が聞こえたり……」


スラウは走りながら振り返った。

さっきのことが嘘だったかのように、今はすっかり風が止んでいる。


『彼らが来てくれたんだ!』


「彼ら?」


『そう。スラウのような契約主を……』


「わっ!」


スラウの顔を矢が掠めていった。

弓矢を手にした襲撃者たちがあちこちから集まってきていた。


『こっちに入ろう!』


ラナンは道をはずれて茂みの中に飛び込んだ。

彼の鼻で獣道を見つけてがむしゃらに走った。


 そのうちに暗い森の向こうに明るい光が見えてきた。

森が途切れているようだ。

スラウは一気にそこに向かって走った。

白い光に視界が包まれる。

視界が開けた途端、慌てて立ち止まった。

そこは崖だった。

足元の石が転がって谷底へ落ちていった。

谷に流れる川の勢いは速く、荒々しい波が白い泡を崖にぶつけていた。


「行き止まり?!」


『変だな……ここに橋がかかっているはずだったのに』


「ここにいたら追いつかれちゃうよ! 反対側に渡るの?」


『あぁ。目的地は向こう岸なんだ』


「ふうん」


スラウは顎に手をやった。


「じゃあ、この谷を飛び越そう」


『何言っているんだ?! 向こう岸はさっきの町の屋根と比べものにならないくらい離れているんだぞ! 無茶にも程がある!』


「でも、ここに居たらさっきの人たちに捕まっちゃうでしょ?」


『今日、やっと跳躍ができるようになったばかりだろ? ちゃんと力をコントロール出来ないままじゃ、無理だ!』


「じゃあ、どうしろって言うわけ?!」


『これを渡るだけでしょ?慌てないで』


2人が言い争っていると、落ち着いた若い女性の声がスラウの頭に響いた。


「誰?」


気がつくと背後に誰かが立っていた。

スラウより少し年上のようだ。

黒い長くてまっすぐな髪の毛に白い肌が綺麗に映えている。

様々な濃さの青い布を幾つか重ねたようなワンピースは長身に似合っていた。

彼女の淡い緑色の瞳がスラウを見つめた。


『私が向こう岸に連れて行くわ』


「え?それはどういう……?」


彼女はスラウの問いに答えず、谷の方に向かって歩いていった。

彼女が谷に向かって右手を伸ばすと、谷底で響いていた轟音が次第に大きく聞こえるようになった。

好奇心に駆られたスラウは崖の縁に膝をつくと覗き込み、思わず目を見開いた。

掲げられた手に引っ張られるように水が上に向かって流れ、1つの大きな柱を作っていたのだ。

スラウは慌てて顔を引っ込めた。


「どうなってるの?」


彼女は更に右手を頭上に掲げた。

長くて白い腕が太陽に向かって伸びた。

その動きに合わせて水の柱が崖の縁まで伸びてきた。

ラナンが水の動きにつられるように後ろ足で立ち上がった。

水の柱を見つめてポカンと口を開けているスラウを一瞥した彼女は手を振った。


『乗って』


「え? 何にですか?」


『これに乗るの』


彼女はそう言うと崖から水の柱の上に飛び乗った。

ラナンもその後に続いたが、スラウは崖に立ったまま、まだ迷っていた。


「いたぞ!」


茂みの向こうから声がしたかと思うと、矢が一斉に飛んできた。


『早く!』


ラナンが急かしてきたのでスラウは目を瞑って水の柱に向かって飛んだ。

それを受け止めるように水が凍りつき、スラウは氷の器の中に転がり込んだ。


「我が君の御命令だ! あの娘を逃がすな!」


茂みから飛び出してきた覆面の者たちが矢を射たが、水の柱に呑み込まれて矢は谷底へ流れ落ちていった。

水はうねりながらゆっくりと谷を横切り、3人を対岸へ運んだ。

ひょいと岸に渡るラナンにスラウも続いたが、黒髪の人はまだ水の上に立っていた。


「来ないんですか?」


彼女は長い髪を指で梳いて後ろを振り返った。


『彼らの足止めをしないと』


「でも! さっきの人たち、あなたのことも殺そうとしていましたよ?!」


スラウの言葉に彼女は眉をひそめた。


『他人の心配する暇があるなら、あなたは先へ進みなさい。隊長が待ってるわ』


「礼を言う。ありがとう」


「あ! ラナン、待ってよ!」


スラウは既に木々の間に消えていく小さい背中を追いかけた。


『契約主に手を出さないでもらえるか尋ねるのは無駄よね』


スラウたちを見送っていた彼女はまだ矢をつがえている襲撃者たちを見下ろした。


『我に宿りし水の力よ、霧となり彼らを誘え……惑わせ霧』


彼女の手から霧が流れ出てきた。

濃霧にその影が溶け込み、覆面の者たちは慌てて武器を構え直した。


「どこへ行った?!」


「慌てるな!ただの霧だ!」


「うっ……」


突然1人が呻き声を上げて地面に倒れ込んだ。


「おい!どうし……」


言いかけた者もヨロヨロと数歩足を出すとそのまま崩れてしまった。


 しばらくすると濃霧の中からさっきの黒髪の少女が現れた。

髪を掻き上げ、足元に転がる者たちを見下ろす。


『良い夢を……』


彼女はそう呟くと再び霧の中に姿を消した。


************************


 流石に休みなく山を登りきることはできなかった。

脚が重たい。

まるで泥の中を進んでいるようだ。

スラウは玉のような汗を拭った。


「待って……」


声が掠れて上手く話せない。

キーン――

高い音が頭の中に響き、スラウは思わず頭を抱えて立ち止まった。


『どうした?』


ラナンが数歩先で立ち止まり、振り返った。


「……何でもない」


重たい頭を振って足を踏み出した瞬間、彼女の背後を取り囲むように覆面の者たちが現れた。


『スラウ!逃げろ!』


ラナンが叫んだ。


『スラウ!』


ラナンが前に飛び出そうとした途端、茂みから飛んできた矢がラナンの足元を狙った。


『簡単には通してもらえそうにねぇな……』


ラナンは自分を囲む者たちを睨んで長い尾を立てた。


『お前ら全員、俺の前に立ったことを後悔しろ』

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