蛍光ピンクの魔方陣

樹坂あか

第1話

 久々に熱を出した。

 喉の痛みがなくなったと思えば体温が38度を超えていたのは昨夜のこと。今朝になってもまったく治らなかったため現在完全なるベッドの住人と化している。

 一人暮らしを始めた時に冷え枕くらい買っておけばよかった。ぼうっとするのに眠れない。夢か現かも朧気な、淡いまどろみばかりを繰り返す。

 そうして夕方になった頃だろうか。


 かちゃ、かちゃ。

 とん、とん、とん、とん。

 

「……?」


 不思議なほど落ち着いた生活音に、ふと、現実に戻ってくる。

 布団の中でべたつく体が気持ち悪いが、頭はいくらかすっきりしている。少しはまともに眠れたらしい。ゆっくりと体を起こして、音の発生源である台所を見る。


「あ……」


 来てたんだ。呼ぼうとして、喉が渇ききっていることに気づく。


「お、起きたか」


 手に持っていたお玉を置いて、スポーツドリンクのペットボトルを片手に彼はやってくる。ついでに机の上にあった体温計もまとめて渡され、熱を測りつつ私はちびちびと喉を潤した。冷たさと甘じょっぱさが染みる。

 学校帰りに買い物をしてそのまま来たのだと言って、彼は私の寝癖でぼっさぼさの髪を撫でた。


「昨日『発熱』ってだけ来てから連絡ないし、楽しみだって言ってた講義も出てないしでこれは相当だなと」

「あー……うん。めっちゃ行きたかったんだけどね今日の特別講義……」


 今朝はトイレに行くことさえしんどいような状態だったので泣く泣く諦めた。年に一回程度しか日本に帰ってこない名誉教授の激レア講義だったのに。

 次はもう来年かなと遠い目をしていると、脇で小さく体温計が鳴る。


「何度?」

「37度2分。大分下がったよ」

「薬飲んで一晩寝れば大丈夫か。風邪薬と冷え枕は買って来たから」

「ありがとう。後でレシートちょうだい、お金払う」

「捨てた」

「……いつもきっちり取っておくくせに」

「そういうのいいから、今は回復に専念すること。食欲は?」

「……ある……」

「なら良かった。今雑炊作ってるから、もうちょい待ってな。講義のプリントとメモはカバンの中にあるから漁って見てたらいいし」


 ……なんだろう、尽くされすぎていたたまれない。優しいひとだとは思っていたが、実は尽くし系の片鱗だったのだろうか。いい加減一緒にいて長いというのに今更気づく。

 ありがとうを言うとなんだかすごく嬉しそうだったから、まあなんでもいい。

 彼が台所へ戻ったので、とりあえず彼の鞄を引っ張ってきてファイルを出す。中にはホッチキスで留められたプリントと、合間合間に挟まれたルーズリーフ。汗も引いたので横になって、枕の上で紙の束を捲っていく。

 白黒の教科書体で簡潔にまとめられたプリントには、彼の字で細かな書き込み。特に重要な部分をプリント本体にメモして、他はルーズリーフにまとめているようだ。最初の雑談で出て来たであろう教授夫妻の赤裸々な馴れ初めまで詳しく書いてある辺り、しみじみ愛を感じる。紙の隅っこが真っ白なままなのも。

 頑張ってメモしてくれたんだなというのが伝わりすぎて照れくさいレベルだ。いや幸せなんだけれど。


「……ん?」


 ご機嫌に読み進めていく途中、1枚前のルーズリーフの余白に何か文字があったような気がして見返す。上の方、日付を書くところの横だ。

 ……目を見開いたのは微かなのに、やけにはっきりと認識した。

 間違いなく彼の字ではない、丸まっちい数字とアルファベットの列。電話番号とSNSのIDだ。「連絡ください」の下に総ひらがなで名前も書いてある。シャーペンで書いてあるのがせめてもの遠慮だろうか。

 別に彼がそこそこ人気なのは今に始まったことではない。ずっと前から連絡先を渡されることなんてしょっちゅうだし、私の目の前でお誘いを掛けられることだってある。彼に私への想いがある以上誰かに渡す気はさらさらないので、そういう場合は喧嘩を売られたと判断し速やかに臨戦体制に移行するのが常なのだが。

 風邪を引くとどうも人間弱るものらしい。


「……あー……」


 やきもちなんていつぶりだろう。

 大体の予想はつくのに。いつもは連絡先を押し付けられても淡々とシュレッダーにかけるから、これも気づいたらすぐに消すだろうと。私が楽しみにしていた講義のメモに集中していて、置いてあった紙の束の隅に何か書かれたことなんて気づけなかったんだろうと。

 わかっていても、胸の下にわだかまる。

 彼が私のために作ってくれたものに、彼の所有物に、他の女の愁波が混ざっているのがすごく嫌だ。それを見たのが私の家というのが更にもやっとする。

 せっせと雑炊を作ってくれている彼に聞かせるのもあれなので、枕に思い切り顔を埋めて、むかむかするわーと呻いてみる。

 付き合って長いからそろそろ倦怠期とかあるかな? 奪えるかな? いけるかな? とか考えられてるのではなかろうか。このメモがそもそも彼の愛情の塊だというのに。


「うぅーん……」

「どした? 熱上がってきたか?」

「いや、来る気配すらない倦怠期について考えてた」

「……えっ」


 見るからに彼が動揺した。


「け、倦怠期……?」

「ああいや、来てほしいって訳じゃなくてね。なんかこう……恋人間の隙間風的なのを感じなくて、いいなぁって。幸せ感じてました」

「……なら、いいや」


 見るからに彼がほっとした。

 小さく笑って調理を再開する背中をしばし見つめて、私はそっと顔を両手で覆う。


 かわいいがすぎる。

 正義か。


 彼をかっこいいと騒ぐ女子は絶対に知るまい。彼の真髄はかわいさにこそあるのだ。もちろんかっこいいところも好きだがかわいいのは悶絶レベルで好きだ。あまりの眼福に一瞬やきもちが飛んだ。

 さっきとは別の理由で枕に顔を埋めつつ、私は手探りでベッド脇の自分の鞄を取って中からペンケースと下敷きを出す。顔を上げて目に映る問題のルーズリーフを抜き取り、口角を上げる。

 本当はいっそ消してしまおうかとも思っていたが、別のことに決めた。

 ルーズリーフの下の空白、その端にシャーペンで円を描く。記憶を頼りに数個の三角形を複雑に組み合わせると、それらしくなってきた。細部はよく覚えていないからそっくり彼のようには描けないけれど、十分わかるだろう。

 紙の隅っこの、小さな魔方陣。

 私が彼に興味を持ったきっかけで、彼の真髄を初めて教えてくれたものだ。


 数年前、まだ私達が一つ下の学校に通っていた頃。私と彼は3年間見事に別のクラスで接点など皆無に近かったが、一度だけ、球技大会の実行委員で一緒になったことがある。二人してじゃんけんに負け続けの末流れ着いた先で、おまけに委員内のくじ引きにも当たり彼が委員長、私が副委員長となってしまった。

 ぶっちゃけ半端なく面倒だった。球技大会というのが期末考査のすぐ後に体を動かしてストレス発散を目的に行われるものなので、実行委員はテスト勉強と並行して準備に奔走しなければならない。その上当時から人気の彼が委員長になったということで、後から後から私が副委員長やりたかったと宣う女子が発生して二重に面倒だった。副委員長になりたい訳ではないからと試しに仕事を任せてみたら彼にアプローチばかりして全く進まないので退場願ったが。

 その時は、イケメンも大変だなぁ程度で。そういう感情にかすってさえいなかった。

 いよいよ大詰めとなったある日、二人で最終打ち合わせをすることになって向かった教室で、風に舞う大量の紙を見るまでは。

 数式だらけのルーズリーフ。バインダーから外しておいたまま、彼は眠ってしまったらしい。開け放した窓から入ってきた突風にくるくると広がって、割と大惨事になっていた。


「あーあー……」


 疲れきっていたのだろう。机に突っ伏してこんこんと眠り続ける彼を起こすのも忍びなくて、床やら机やらに散らばる紙を集めていく。

 丁寧に解いてあるのがよくわかる式の並びに、真面目なひとだと思う。


「あ」


 ただ、全てのページの隅っこに小さく何かしらの落書きがあるのが意外でおかしくて。

 それは顔文字がモンスターに変身していく過程だったり、棒人間が段々と筋肉をつけていく過程だったりと、くすりと笑ってしまうものばかりだった。日付や数式の流れを見て順番に並べながら、つい目が行ってしまう。

 教室を見渡して、おそらく最後の一枚だと思われるものを拾う。今度はどうなっているかと下を見ると──

 綺麗に飾られた魔方陣が、ひとつ。

 中ニの名残かと思うほどゴッテゴテに模様を刻まれデコレーションされていたのですぐには気づけなかったが、確かその頃女子の間で流行っていた恋のおまじないがこんな魔方陣だったと思う。円の中に三角形を複雑に組み合わせたもの。

 ……ほう、と思ったその時に、後ろで彼が起きた気配がして。


「あ、起きた?」

「う、ん……ってそれ」

「ああ、風で飛んでたから」


 はい、とルーズリーフをまとめて渡すと、彼は1番上のページを見て。その下の隅を見て。

 夕焼けが頬に移ったのかと思うほど、真っ赤になった。


 ……え。

 なにこのかわいさ。


「……あんま見ないでください……」

「あ、ごめんなさい」


 ああ、このひと。

 かっこいいけど、すごくかわいいひとだ。

 そう思って、胸が打ったのが、始まり。


 完成した魔方陣はなんだか素っ気なくて、私は唇を尖らせる。もう少し目立たせたいなとペンケースを漁り、私は目的のものを見つけた。

 ピンクの蛍光ペン。

 シャーペンの線を丁寧になぞり、気が向いたので真ん中にハートなど描いてみる。よし、これでいいだろう。

 さあ、このページを見た時の彼の反応はどうなるだろうか。できれば赤面を、そうでなくても上の電話番号などなどが頭から吹っ飛ぶくらいの衝撃は希望する。

 その時は絶対隣に居よう。

 動揺してかわいくなる彼を知っているのは私だけ。愛でていいのも私だけ。動揺させられるのも、私だけ。


「雑炊できたぞ」

「はぁい」


 ルーズリーフを元の位置に戻して、私はベッドから降りる。

 紙とペンと魔方陣でできた愛しさを拝めるのを心待ちにしながら。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

蛍光ピンクの魔方陣 樹坂あか @kinomiko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ