紙とペンと見えないもの

虹色

第1話

すらすらと自分の名前を書いていく彼女を横目に、僕の体は不安で震えていた。

この書類を書き切ったら、僕と彼女は正式に『夫婦』になる。

法律的に後戻りはできない関係になる。

婚姻届、目の前にすると無言のプレッシャーを与えてくる。

ただの紙切れなのに。

そこには圧倒的法的拘束力が内包されている。

法の前に人は平等であり、一個人の力など無に等しい。


ーー


僕は彼女のことが好きだ。

愛しているし、ずっと一緒にいたいと思う。

彼女もきっとそうだと思う。

僕のことを好きと言ってくれるし、だいたいは僕の隣にいて、大概は笑顔でいる。


けれど、その想いをこの1枚の紙切れに約束されるのは、少し気がひける。

こんな、火をつければ簡単に燃えてなくなる、

こんな、鋏で簡単に引き裂ける、

こんな、ヤギに渡せば簡単に食べられてしまう、

1枚の紙切れに縛られるのは、なんか『嫌』だ。


メソポタミア時代の粘土板とか、ミスリルペーパーとか、もっとちゃんとしたものがいい、簡単に壊れないものが。

贅沢かもしれないけど。

紙切れ1枚の関係だから、きっと日本では結婚してもその3分の1が破局するのだろう。

家電の保証書が簡単になくなって、意味をなさないように。きっと、この婚姻届も時間とともにその存在が忘却の彼方へ消えていくのだろう。

そんな風に考えると、少しだけ婚姻届からのプレッシャーが薄まっていくのを感じた。


ーー


そんなどうしようもない思考をしていると、彼女を僕に「はい」とペンを渡した。

渡されたペンは、市販のボールペン、それも100均で5本入りの安物のペン。

こんなもので、大事な想いを書くのかと思うと泣けてくる。

思わず、ため息が出た。


「なに? 私と結婚するのが嫌になった?」


「違うよ。ただ、婚姻届を書くのに使う紙とペンが安っぽいから、テンションが下がっただけ」


僕は正直に感想を言う。

彼女は少しふくれた顔をした。


「別にいいじゃん、安っぽくても。こんなのはただの飾りで、そういう仕組みなだけ。私たちの愛とか情とかは別のとこにあるでしょ」


彼女は持論を続ける。


「ただ、他の人には見えないから紙とペンでちゃんと書く。言葉にしても、口に出すだけじゃ、それは消えてなくなってしまうでしょ? だから紙とペンで言葉にして残す。誰が見ても、私たちの愛がわかるように、伝わるように」


と、彼女は屈託なく笑った。

詩的な彼女の持論に僕も笑った。

けど、同時に納得もした。

道具なんて、なんだっていい。

安物だろうと、高級品だろうと関係ない。

つまるところ、僕ら以外の読めればいいのだ、伝わればいいのだ。

僕と彼女しか感じることができない、見えないものが。


「案外、ロマンチストなんだね」


「それはお互い様でしょ」


と僕も笑った。

そして、握ったペンで自身の名前を書く。

僕と彼女の愛が、誰の目にもわかるように。

緊張で少し文字は汚く歪んでしまったけれど、別に問題はない。

だって、これはただの飾りで、想いは別のところにあるのだから。

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紙とペンと見えないもの 虹色 @nococox

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