紙とペンと猫と肉球と

宇高ニィナ

紙とペンと猫の肉球と

 まず卓上に原稿用紙を用意する。出来れば朝露で出来たものが好ましい。ペンの滑りもなめらかで、なおかつ肉球にぺたりと吸い付くのが良い。だが、猫には不評だ。しっとりと濡れた感触がするのだろう。次点は霜柱で出来たものだが、これは更に猫に不評だ。冷たいので。


 ともあれ、卓上に原稿用紙を用意する。今日の原稿用紙は明け方のまだ太陽の登りきらない薄青の空を反射させたアスファルトの上澄みだ。偏光パールの表面がほのかにキラキラと美しい。猫も多分気に入ってくれるだろう。私の猫は扱いが難しいのだ。


 そしてインク。青錆色の硝子がらすを宵闇で溶かしたもの。赤錆色の硝子を好む者も多いが、私は断然青錆派だ。それは滑らかで、ほんのりと暖かく、懐かしい匂いがする。その香りが、多分遠い繋がりを引き出すのだろう。


 さて、肝心の猫だ。私の猫は、毛足の長い鯖虎さばとらぶちだ。手足の先が白いところが気に入っている。すぐに汚してしまうくせに、洗われるのは大嫌いだ。丸くふわふわとしている体は、その毛足の奥にみっしりと筋肉が息づいているのを隠しもしない。


 猫を呼ぶが、ちらりとこちらを見ただけで、そのまま素通りしようとする。私は慌てて猫の後を追った。これから一仕事だと云うのに、どうやら乗り気ではないらしい。そうは行くものか。渾身の猫なで声で名前を呼び、その尾を賛美し、耳の飾り毛を褒めそやす。猫は立ち止まってゆっくりと伸びをした。ここでもう一押し。


 ピンと張ったひげや、つま先立ちの柔らかい手足、キラリと光る金の瞳。ベルベッドの肌触りの毛並み、くるりと柔らかいカーブを描く口元。賛美するのに事欠かない。抑揚を付けて、心から愛を囁く。


 だってうちの猫は世界一可愛いからね!


 ……コホン。それはともかく、猫の機嫌が少し直ったようで、畳の上でごろりと横になった。その麗しい毛を三回程撫でてから、猫の体を抱き上げる。結構重い。最近運動不足じゃないか? そんなところまで私に似なくても良いではないか。


 そして猫が力を抜いた所で、愛らしい肉球にインクを付ける。猫は仕方ないなあと云った顔をして私を見たが、それでもされるがままになってくれている。その弾力のある肉球を原稿用紙に押し付けていく。ぺたりぺたり。原稿用紙の、一番終わり、隅の方に。


 そうやってしばらく猫は大人しく、どこか遠くを眺めながら、私のするがままにさせていた。が、不意に何かを思い出したのか、暴れだした。一寸ちょっと待て。まだ全部終わっていない。肉球が乗ってきたところじゃないのか。


 何とか猫を押さえつけて原稿用紙に肉球拓を取るが、猫の限界が来てしまったらしい。私の頬にぺたりと肉球を押し付けて、しなやかに私の腕から抜け出した。もうインクは猫の肉球からは消えてしまった。


 私が溜息をつくと、猫はツンと顔を反らせて、その頬のも使えばいいじゃない、とばかりに庭へと飛び出していってしまった。世界は猫で出来ているのに、私の成分が入ってしまって良いものだろうか。だが、せっかくの原稿が勿体もったい無い。仕方なしに、私は自分の頬へ原稿用紙を当てて、肉球拓を移し取った。少し薄くかすれてはいるが、十分読み取れそうだ。


 二十枚ほどの原稿用紙の、一番初めの物を取り、卓上にえる。先代の猫の犬歯で出来たペンを取り、肉球拓をほどいていく。ちょい、と、インクの乗った端にペンをつけると、スルスルと言葉が現れる。それを原稿用紙のマスの程良い所に配置していく。


 猫の肉球から読み取られる物語は取り留めのないようでいて、筋が通っている。そして膨大で、人間の思いもよらない展開を見せる。成る程、今回はこうなるのか。これはとても面白い。やはり私の猫は最高だ。


 猫は庭で鳥を追いかけて、だがすぐに鳥は飛び立ってしまう。それから猫は縁側にきょを構えた。大きく欠伸あくびをして、後の事は完全に私任せだ。薄目で何処どこと無く眺めている。私は一心に猫の描く物語を紡いでいく。集中して、解き間違いのないように。丁寧に。心と猫への愛を込めて。


 物語の最後は、やはり私の成分が入ってしまった所為か、一寸今までと変わっていた。まあ、良いスパイスかもしれない。文筆は私と猫の共同作業なのだ。これも一つの形だろう。


 後は人間に読みやすいように手を入れて、編集が取りに来るのを待つだけだ。切りの良いところなので、休憩を入れようと、私は大きく伸びをした。気づけば五時間程集中していたようだ。


 腹が減ったとばかりに猫が鳴く。そう云えば、私もずいぶん空腹だ。遅い昼の用意をすべく、私は台所へと向かった。猫はやはり私任せだ。今日の物語の出来も素晴らしかったから、昼だがあじを焼くとしようか。昨日新鮮なものを手に入れたのだ。


 腹が減っては戦は出来ぬ。物語も生まれて来はしまい。


 猫と二人でゆっくりと昼食を取った。外から少し冷たい風が吹いてくる。夕暮れになる前に、洗濯物を取り込んでおこう。猫は洗濯物が好きだ。自分の毛布はもっと好きだが。洗濯物を畳んだのなら、縁側の猫の傍にごろりと横になって、昼寝をしよう。そして共に夢を見よう。


 私の考えが伝わったのか、猫は満足そうにうにゃんと鳴いて、それから縁側へと戻っていった。


 私を待つかのように。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

紙とペンと猫と肉球と 宇高ニィナ @n_utaka

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ