遺書代筆サービス

黒鍵猫三朗

遺書代筆サービス

「クロ! 一緒に遊ぼうよ!」

 

僕は戸を開くと外のふかふかな雪の中にパジャマのまま体を投げ出した。

大人たちはどうやって妹を小学校に連れていくか相談している。

 

僕は立ち上がると、家の中にいる猫に目配せした。

クロは僕の家に住んでいる黒猫だ。

クロは僕がかまってあげないとダメなんだ。

食事の時は僕の膝の上にわざわざ上るし、僕がベッドに入ればクロも布団の中に入るし、お風呂にまで入ってこようとする。

僕の脱ぎたての靴下に顔をこすりつけているときは正直引いたけど。


「クロ、おいでよ!」

 

僕は両手をたたいて彼を呼んだ。

彼はのろのろと戸のサッシぎりぎりに立つと目の前に広がる白いものに恐る恐る手を伸ばした。

前足の肉球が雪に触れた途端。


「にゃっ!」

「あはははは、雪だよ、雪!」

「あやと! なんて格好しているの! 早く家の中に入りなさい!」

 

うわっ。ママだ。ママは両手に洗濯物を抱えて家の中を右往左往している。


「えー! ヤダ! 遊びたい!」

「遊びたいって、あんた学校があるでしょ!」

「学校休んでいいでしょ!」

「あやと。さっき連絡があった。学校にはいけるみたいだからきちんと行きなさい」

 

パパはずるい。

怒るならもっと激しく言いつけてくれれば僕も言い返せるのに。

いつも、僕の事をキッとにらみつけて低い声で威嚇するんだ。


「……わかった」

「いい子だ」

 

いい子。僕がママとパパの言うことをちゃんと聞いた時だけ言われるんだ。


「でも、少しだけ遊んでいいでしょ? いつもより早く起きたんだし!」

「その格好では冷える。ほんとに少しだけだぞ」

「やった! クロ! こっちにおいで!」

 

僕はクロの二つの前足の付け根をつかんで持ち上げると雪の上に乗せようとした。


「にゃあああああああ」

「クロ! 暴れないの。いい子にしなきゃダメ」

 

僕はクロを抱きしめて抑え込みつつ雪の上に乗せた。


「にゃにゃにゃにゃ!」

 

クロはふかふかの雪に沈みそうになった途端、すごい勢いで部屋に入ってしまった。

僕は雪の中でポツンと一人残されてしまった。

クロは再度サッシのギリギリの位置に立つと僕の事をじっと見つめている。


「……なんだよ。クロも僕に雪で遊ぶなって言うの?」

「にゃー」

 

僕の頭の中が突然熱くなった。


「クロも大人たちの味方なんだね」

 

僕は手の中にあったものを右手で固めると振りかぶった。


「クロなんていなくなっちゃえばいいんだ」

 

僕は雪だまを投げた。

雪だまは気持ち悪いほど一直線にクロの顔に飛んでいった。

クロはそれを見て逃げようとする。

しかし、彼の足には雪が付いていた。

フローリングと雪の相乗効果でクロは足を滑らせてしまった。

雪だまはクロの頭にきれいにヒットした。


「当たり!」

 

クロは何とか体勢を立て直すと一目散に部屋の奥へ駈け込んでいった。



バチン!


 

僕はさっきまで雪だまをにぎっていた手でほほを抑える。

目の前にパパがいた。

僕はパパの顔を見た。

口を一文字に結び、目は垂れていた。

驚いたようにも怒っているようにも悲しそうにも見えた。


「あやと。今、自分が何をしたのか。言ってごらん」

 

パパは僕の両肩に手を置いた。

右ほほが熱い。

その衝撃が僕の瞳からこぼれる液体に変換されるまで大した時間はかからなかった。

僕はパパの両手を払いのけると、ありったけの力を込めて叫んだ。


「知らないよ! ちょっと遊んだっていいじゃん!」

 

なんだよ!

いい子なんだから僕にも自由ってやつがあってもいいだろ!

 

僕は部屋に駆け込むとこれまでにないほど素早く服を着替えてカバンをひっつかむと外に飛び出した。


「うわっ!」

 

マンホールの上に残った雪で僕は滑って尻もちをついてしまった。


「いったたたた……。なんだよ……」

 

僕は立ち上がろうと前を向いた時、長身で細身、妙な丸い眼鏡をかけた男が僕に手を差し伸べていた。

こんな季節なのにコートも着ずにスーツ姿だった。


「あ、どうも……」

「いえ」


男は僕を立たせてくれる。


「大丈夫ですか?」

「はい、大丈夫です」

「そうだ、これも何かの縁。よろしければお持ちください」


男は突然、僕に名刺を渡した。僕は一番上に書いてあった文字列を読み上げた。


「遺書代筆サービス?」

「ええ。遺書を伝えられない方の代わりに遺書を書かせていただくサービスをしております」

「ふーん?」

「名刺はカバンの中にしまっておいてくださいね」

「……まぁ、はい。わかりました」

 

僕はよくわからないまま、目の前の男の妙な圧力に押されて僕は名刺をカバンの中にしまい込んだ。


「これで……あれ?」

 

目の前の男の姿はもうなかった。

ププーとクラクションの音がして僕は慌てて路肩に寄る。

僕は慌てて周りを見渡すが、やはりスーツ姿の男はいなかった。

 

その日の授業はたいして身が入らなかった。

あっという間に一日が過ぎ僕は雪をザクザクと踏みしめながら家に戻った。


「あれ? なんだ、あの車?」

 

家の前に見知らぬ軽自動車が止まっているのが見えた。なんだろう?



……竹中動物病院?


 

僕は玄関を勢いよく開けると重たいカバンや手に持っていた荷物は全部廊下に投げすて、一目散にリビングへと走り込んだ。


「クロ!」

「あやと。静かにしろ」

 

パパも。ママも。妹のみいも。

目線を白衣のおじさんの前に横たわる一匹の黒い猫に注いでいた。


「どうですか?」

 

ママの声。震えている。


「おそらく……もう。

 明日を過ごすことはできないかと。

 20年も生きたんです。猫としては大往生です」

 

僕はクロの横に座ってその顔をじっと見つめる。

もう顔も上げることができないようだった。目線だけが僕の方を向いていた。


「クロ……。死ぬの……?」

「にゃ……」

 

ほとんど聞き取れない小さな声が聞こえた。

パパは僕の肩に手を置いた。

朝とは全く違う。

パパの手はとても熱っぽかった。


「ねぇ、パパ。僕のせいかな……?」

 

僕はクロの頭をなでる。

ふさふさの黒い毛がふらふらと光を反射する。

僕は朝の風景を思い出していた。

雪を投げつけ、滑って転んだクロ。


「僕のせいかな!?」

 

どばっと涙があふれた。

もう止まらない。

人はこれほど涙が出るのかと思ったほど目の横から、目の裏側から湧き水のようにあふれ出る。

パパは僕の肩を少し強くつかむ。


「……正直、俺にはわ、からない。

 だがな、もし、朝の行動を……悔いているのなら。

 何をすべきか、わかるな……?」

「うん……。クロ、ごめんね……。ごめんね……!」

「にゃっ……」

 

僕はクロの前足をつかんだ。

こんなに細かったっけと思うほどクロの前足が軽かった。


「よし……。きっと伝わった。

 クロに遺言はかけないから……わからないけど。きっと伝わった……」

「……あっ!」

 

僕はリビングから慌てて飛び出し廊下に出るとカバンをひっくり返した。


「名刺……、名刺名刺、どこだ!」

 

ボタボタと落ちるしずくが教科書やノートを濡らしてしまったがどうでもよかった。

次々と物をどけた一番下に名刺があった。

僕は慌ててスマホを取り出すと電話した。ワンコールで相手が出た。


「すみません、あの!」


『おかけになった電話番号は……』


「あれ!?」

 

僕は再び電話を掛け直したが、帰ってくるのは機械の音声だけだった。

僕は全身の力が抜けてしまい、廊下に座り込んだ。

ただのいたずらだったのだ。

よく考えればわかることだ。

気持ちを汲み取るなんてこと。

普通の人間にできはしないのだ。

僕の気持ちをパパとママが分かってくれないように、僕にだってパパやママ、みいの気持ちなんてわからない。

ましてやクロは猫だ。

 

しかし僕の失望を吹き飛ばすかのようにインターホンのベルが鳴った。

僕はリビングに駆け込むと玄関についたカメラに映る相手を見た。


「昼間の!」


僕は玄関に走ると扉を開いた。

寒そうなスーツを着こなす男が立っていた。


「ご利用ありがとうございます。

 遺書代筆サービスです。依頼人はあなたでよろしいですか?」


「はい」

 

僕は即座にうなずいた。


「お急ぎの様ですね。わかりました」

 

男は体重を感じさせない軽い足取りでリビングに入ると家族に一礼して言う。


「私は遺書代筆サービスです。今回の依頼人はあやと様です」


家族はみんな涙をふくこともせずぽかんとしていた。僕は慌てて男に言う。


「クロの遺書、書いてほしい」

 

男はうなずくと一枚の紙バインダーに挟み、ペンを取り出すと書き写す構えをとる。


「ではクロ様。遺言をどうぞ」

 

男はすらすらと遺言を紙に書き写していた。そして最後に突然話し出した。


「クロだ。今すぐ一つ伝えることがある。雪を持ってきてくれ」

「……雪?」

 

僕は慌てた。雪を入れる入れ物を探した。

すると、遺書を書いていた男がカバンから一枚の紙を取り出すとあっという間に箱を作ってしまった。


「こちらに」

「は、はい!」

 

僕はバルコニーに飛び出すと入るだけの雪を詰め込んで、クロの前に置いた。

突然男が紙にメモを取りながら話し始めた。


「あやと、これだけ言っておく。

 俺は決して雪に当たって死ぬわけじゃないからな?

 俺、雪は好きだ。何しろうまい」

 

クロはそういうと震える下を伸ばして顔の前にある雪をぺろりと舐める。

そしてゆっくりと目を閉じる。


「クロ?」

 

僕は呼びかける。でももう二度と返事が返ってこない。

クロはいなくなってしまった。


「さよなら、クロ……!」



 

遺書代筆サービスには報酬が必要だった。

でも、報酬は不思議なものだった。

命日に代行した対象に対して必ず遺書代筆サービスが持ってきた紙とペンを使って祈ること。

これが報酬だった。

なんでも、そうした思いを集めているらしい。

正直よくわからなかった。

 

でも、俺と生を共にした猫の命日。

祈らないわけがないじゃないか。


今日はクロの十回忌。

あいつの遺影の前に俺はいつもの三つを並べた。



家族全員のメッセージを込めた紙。

メッセージをかくために使ったペン。



そして、クロが大好きだった雪。今日はいつもよりちょっと多めに。


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