紙とペンと歯型

三文の得イズ早起き

紙とペンと歯型

 地獄のような日々だと思ってた学生生活は今から思えば天国だったなあって最近よく思う。

学生生活の記憶って言っても私の場合は無限に湧いてくる走馬灯みたいな物ではなくて、しっかりとした静画のように動かない固定したイメージがいくつかあるってだけだけど。


 人生がどうとか語るような歳になってしまったのはいくつになってからだろう?

私は今年で27歳になる。

 保育士になってから何年かな?そこそこのベテランになってきた。

仕事が楽しいとか楽しくないとか、給料がどうとかそんなことを言いたいわけじゃない。


 言いたい事はただ一つ。

私はこの仕事が天職かなって思ってる事。


 だけど勿論辛いわけ。

 朝起きるのも辛いし、職場の人間関係も辛いし、残業も辛い。

付き合ってた彼氏とは別れてから4年経つ。

なんていうか、意見の相違。4年も前の事だから覚えてない。


 保育士の仕事を長くやってると、子どもたちの不穏な空気ってのを感じる事があって、どの子が何かしようとしてるとかってのが分かってくるんだけどその時はハッキリ言うと判らなかった。

 何があったかって?

リュウちゃんって二歳の男の子が同じく二歳のハルカちゃんに噛み付くってのが起きたんだよね。

 私達保育士の見てないところでリュウちゃんはハルカちゃんの体に歯型をつけてた。それはもう見事な技で私達の目を盗んでサッと噛み付き、そして離れる。

 ハルカちゃんはもちろん大泣きするんだけど、目を離した短時間にやるもんだから私達は誰が何をしたかわからない。


 で、この前ハルカちゃんのママにこう言われわけ。

「ハルカの体に歯型がついてる。誰かに噛みつかれてる」

って。

私の中に衝撃が走った。

私のプロ意識においてあっちゃいけない事だったから。

私は二歳時の主任だから上にメチャクチャに怒られて相当に凹んだ。

この仕事をやめようかって思うくらい落ち込んだ。見抜けなかった自分に腹が立つというか。噛んでるのがリュウちゃんだってわかってからはできるだけ二人を離したり、目を離さないようにしたり色々やってみた。

 でも、さらに辛いのはその後も何度もハルカちゃんに歯型がついてたってこと。止められてないわけ。リュウちゃんは目を盗んで噛むのが本当に上手いんだよ。二人はよく一緒にいたし。なぜか仲が良いから。噛まれるのにね。ハルカちゃんがリュウちゃんに寄って行くんだ。不思議。

 私はその時期はもうノイローゼに近いほど追い詰められてた。

車の追突事故には合うし、太るし、合コン行っても全然モテなくなってきてるし、高校時代の友達はどんどん結婚していくし、この世は地獄だなって思った。


 私はリュウちゃんに言ったわけ。

「ねえねえリュウちゃん。どうしてハルカちゃんを噛むの?先生に教えて」

リュウちゃんは何も答えない。そりゃそうよ。二歳だもん。ただ屈託なく笑うだけ。私はリュウちゃんをとっても可愛いって思ってた。


 リュウちゃんのママはいない。

 リュウちゃんはパパが一人で育てている。送り迎えも全てパパがやっている。

この手の事はとってもデリケートでもどかしい問題なわけだし、私達が家庭の問題に口を出すわけにはいかないからハッキリした事はもちろん知らない。

 リュウちゃんのパパにも噛む事を相談したよ。一応ね。リュウちゃんパパは朝早くにスーツ姿で来て、延長保育で一番最後にリュウちゃんを迎えに来る。とっても忙しそう。

 リュウちゃんパパは本当に申し訳ないって暗い顔で謝った。

どの子を噛むかは言わなかった。ハルカちゃんのママにもリュウちゃんが噛んでる事はふせてる。けど、でも、多分知ってるんだと思う。なんとなくそんな感じはする。


 で、 そうこうしてる内に保育園で毎年恒例の「お店屋さんごっこ」の時期が来たわけ。

これは年長の子達が作った色んな品物を机に並べてお店屋さんに見立てて、年少の子達がお買い物するっていうものなんだけど。

お面屋さんやら八百屋さんやら文房具屋さんやら、毎年色々ある。

子供達はその中で買い物ってのを覚えるわけ。

 私の二歳児クラスの子たちは年少だからお買い物する側。

「これくーださいー」って言ってお金(に見立てた画用紙のお金)を年長の子に渡して、代わりに品物もらってカバンにいれる。

ブレスレットやら焼きそば(に見立てた画用紙)やらを買ってニコニコなんだ。


 お買い物ごっこ終わったリュウちゃんを見ると頭にアンパンマンのお面つけて、右手に白い小さな画用紙とそれにくっついたペン(これも画用紙でできている)の「お絵かきセット」を買ってた。

「いいねーリュウちゃんお絵かきセットだねー何のお絵かきしようかー?」

と私がリュウちゃんに言うと「ママ」と言って満面の笑みをみせてくれた。私はリュウちゃんにママがいない事をその時もちろん知ってたけど、知らないフリをして「いいねー」って答えた。

 ハルカちゃんがそこに来た。さっきも言ったけど、なんだかんだいってもこの二人はとても仲が良い。私達がリュウちゃんが噛むのを防げないのはこの二人が一緒にいることが多いから。これもさっき言ったけどさ。

 ハルカちゃんも手には紙とペンがくっついた「お絵かきセット」を持ってて、やっぱりこの二人は気が合うんだって再確認した。

「ハルカちゃんはお絵かきセットで何書こうか?」

「・・・・リュウちゃん」

小さく答えるハルカちゃん。

「リュウちゃんとハルカちゃんは仲良しだね。気が合うね」

リュウちゃんとハルカちゃんは無言。

「リュウちゃん、こんなに仲良しなんだからもうハルカちゃん噛むのやめようね」

私はしゃがんでリュウちゃんを抱きしめてそう言った。

リュウちゃんは返事をする代わりに私のほっぺたに噛み付いた。

「いたたた!」

痛くて飛び上がった。リュウちゃんは笑った。なぜか私も笑った。



 その日の夜にお風呂に入る前にほっぺたの所をよくよく見たらきちんと歯型になってた。私はいつか近い内にリュウちゃんは噛まなくなるだろうって確信があったし、歯型がついた事なんて全然気にならなかった。これはいつか消える。

 大事な事っていうか、歯型と違って消えない事はリュウちゃんの心にある何かだろうし、私はそのためにできるだけの事がしたいなって思った。

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