紙とペンと卒業式

ジト目ネコ

第1話

3月16日土曜日


静かな自室の中で、テレビだけがしゃべり続けていた。ニュース番組の場面が切り替わって、朗らかな笑みを浮かべた女性のアナウンサーが原稿を読み始めた。

「次のニュースです。今日、日本各地の小中学校で卒業式が開かれました。」

私は日記帳を書いていた手を止めて、顔を上げた。テレビの画面がニューススタジオの風景からどこかの学校の風景に切り替わった。胸元にバラのコサージュを付けて、卒業証書をわきに抱えた学生たちが映っている。春の陽気を浴びて、満開の桜の木の下で学生たちがインタビューを受けている。

私はペンを持ち直して日記帳に向き直った。名前も知らないどこかの誰かの卒業式なんて興味がない。まあ、私の日記が白紙で終わらなかったことには感謝してやる。


3月17日日曜日


私は家のリビングでソファに座ってスマホを触っていた。キッチンに母がいて、昼食に使った食器を洗っていた。誰も見ていないテレビで、よくわからない刑事ドラマを放送していた。

「隣の福崎さんとこの香奈ちゃんが、明後日卒業式ですって」洗い場から母が言った。

「へえ、香奈ちゃんが。中学はどこに行くの?私の母校?」

「そうじゃないかしら。あんたのお古のセーラー残しとけばよかったわ」

他人のセーラー渡されたら嫌だろうなあ。捨ててよかった。

「あんた、行ってやりなさいよ。喜ぶわよあの子。あんた好かれているから。」

「やだよ。もうあの学校には行きたくない」

「そう」

それっきり母は何も言わなくなった。カチャカチャと食器が音を立てていた。テレビ画面の中で、いかめしい顔の刑事に追い詰められた犯人が崖から飛び降りようとしていた。


ついさっき、つまり夜中の12時。スマホがメッセージを受信した。小学生だった時に仲の良かった友達からだった。

既読が付かないように、一度通信を切ってから内容を改めた。

「久しぶり、来年の成人式一緒に行こうよ!」

私はスマホをもとあった場所に戻した。

人はどうして昔の友情や愛情が今でもそのままだと信じられるのだろう?

思い出や記憶が色あせて、真っ黒になって、腐っていることだってあるのに。


3月18日月曜日


近くのコンビニに行こうとしたら隣の香奈ちゃんに玄関を出たところでばったり会った。香奈ちゃんは驚いた顔をした。そのあとすぐに顔いっぱいに笑顔がはじけた。

「お姉ちゃん!」と、香奈ちゃんは満面の笑顔で言った。

きっと幸せに満ちた小学校だったのだろう。これまで嫌な言葉の一つも言われたことがないのだろう。香奈ちゃんの笑顔は純粋そのものだ。

小学生の頃は私もこんな風だったのかな。

でも、これからだ。これからゆっくりと汚れていく。ふとした瞬間に人の悪意を感じて。

「どこに行くの?」

「近くのコンビニだよ」

「私も行っていい?」

どうでもよかった。断る口実が思いつかなかった。

「いいよ」

私たちの家がある住宅地を抜けて、道路を渡り、歩道をしばらく歩く。

「私ね、明日卒業式なんだ」

「そうなんだ」

「お姉ちゃん来てよ!」にぱっと笑って香奈ちゃんは言った。

一瞬間をおいて答える。

「ええ、もちろん」

断れなかった。ほんの一瞬香奈ちゃんに見とれてしまったから。


3月19日 火曜日

久しぶりに通学路を歩くと、自分がいかに成長したかがよくわかる。家の玄関だとか、ガードレールだとか、昔は大きく見えていたものがまた違って見える。

無邪気だった子供のころの記憶。純粋さ。今では失われた物。

小学校の校舎は昔と比べると様変わりしていた。新しくつくりかえられた校舎、体育館。なくなった遊具と増えた遊具。

運動場だけが変わっていなかった。

飾り付けられた校門をくぐり、受付を済ませ体育館に入る。整列されたパイプ椅子が並んでいて、四方の壁には卒業生が筆で書いた「ありがとう」だとか「卒業」だとかの文字が張り付けられている。

私は空いているパイプ椅子の一つに座った。

やがて、卒業式が始まった。一人ずつ名前が読み上げられ、胸元をバラのコサージュで飾った子供たちが壇上に登っていく。

福崎ちゃんの番が来た。

「卒業証書、福崎香奈、平成19年5月12日生まれ。右の者は小学校の過程を終えたことを証する。おめでとう。」

僅かな微笑とともに証書が手渡された。香奈ちゃんが両手を前に出して受け取った。香奈ちゃんはその場でくるりと向きを変えて、壇上を降りて、自分の椅子に戻った。

その後、式はそつなく終わった。残りの生徒の名前が読み上げられ、卒業生が立ち上がって歌を歌い、校長が難しい言葉を発して、式は幕を下ろした。卒業生が退出した。

私は外に出て香奈ちゃんを探した。香奈ちゃんはすぐに見つかった。香奈ちゃんの周りには、生徒の人だかりができていた。

香奈ちゃんは私に気づくと周りの生徒に断って、私に駆け寄ってきた。

「来てくれたんだ、お姉ちゃん」

「うん、おめでとう、香奈ちゃん」

「ありがとう」

香奈ちゃんはにこりと微笑んだ。胸元のコサージュが香奈ちゃんの笑顔とよく似合っていた。


私はスマホのメッセージアプリを開いた。一つのアカウントを選択し、キーボードを開く。返信の内容はまだ決めていない。あまりにも久しぶりなものだから、決めかねている。

まあ、これからゆっくり考えればいい。

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