紙とペンと音楽と

最近は痛風気味

紙とペンと音楽と

拓人は、細長い筆ペンを指揮棒替わりにして、母である宇多が何時も口ずさむ山口百恵の「秋桜」に併せて上から下に、或るときは斜めにと、自分が思うままに振り回している。然し、その「指揮」は曲のテンポに一向に合っていない。と言うより其処まで合わせる事が出来る年齢では無いと言ったほうが良いだろうか。拓人はまだ幼稚園児である。だが、不思議な事に母がこの曲を口ずさむ時だけ、決まって筆ペンを手に取り、思うがままに振り回す。そんな幼い息子が可愛い一心で、宇多は毎日夕食の準備をする前に、洗濯物を畳みながら口ずさむのが日課になっていた。

宇多自身も、どうして息子がこの歌だけそういった行動をするのかは分からなかったが、本人も然程気にしていなかった。

その父、音哉は小さな印刷工房を持ち生計を支えている。現在では「オフセット印刷」という、主に専門の機械や、コンピュータでの印刷技術が大半を占めている。そんな中、音也は昔ながらの「活版印刷」という、活字の判子を並べて印刷する技法を拓人の祖父である織次郎から受け継ぎ、継承している。

だが実際は、その需要も下火になり、地元でその技法を導入しているのは音也の工房だけとなってしまった。

音也も拓人のその行動を知っており、宇多よりも興味を持っていた。

ある晩、拓人を寝かし付けつけた後、宇多とその行動についてを話題にした。

「なぁ、宇多。拓人はどうしてあの歌だけ筆ペンを振るんだろうな」

「どうなんだろうね。不思議だけど良いんじゃない?本人はご機嫌だし。私は余り興味はないわ」

「俺は気になるな。他の歌は筆ペンを振り回さないってところがね」

「あの歌に何か特別な何かがあるのかしら」

「今度調べてみようか」


その後、拓人は芸大に入学し、書道の道に進む事に決めていた。両親は既に他界し、父の印刷工房もたたんでいた。

生前、母から「秋桜」の話は聞かされていた。拓人本人は余り覚えては居なかったが、記憶の片隅に薄っすらと置かれていた。

父の仕事場の印刷工房は手付かずのまま残っている。ある日、拓人は実家に帰省し寂れた工房を訪れた。そこには動かない機械や活字の判子などが無造作にばら撒かれていた。

工房を整理していると、薄いピンクがかったA2版の模造紙が数枚出てきた。父が生前使用していたのだろう。拓人は、持参していた書道道具を準備し、或る文字を書き、両親の墓標を訪れた。

とある高台に両親は眠っていた。拓人は持参したピンク色の模造紙を墓前に備えた。しゃがんで両手を合わせると、その眼からポロポロと涙が止めどなく流れて、頬を伝った。自分が両親にこれと言って恩返しが出来なかった事を悔やんだ。死目にも両親に会えずにいた。

拓人は、徐ろに「秋桜」を口ずさんだ。今はもう歌詞の意味も知っている。年老いた娘が母を悼みつつ嫁に行く。自分は、両親に何も出来ず会うことが出来なくなった。心情的には似てなくはない。

「父さん、母さん、今度会うときは必ず幸せにするからね」

墓標の横に、ひっそりとピンク掛かった花が2輪咲いている。

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