第29話 【昭和天皇に戦争責任はあったのか_功利主義の限界】
【昭和天皇に戦争責任はあったのか_功利主義の限界】
日本帝国が実質的専制君主制であったのならば、
天皇の戦争責任の問題が生じます。しかしながら、帝国憲法は立憲君主制を確立したものであり、
万機公論に決したのです。帝国憲法.法体系の法理上、天皇に政治責任は全く無い事は明白です。
【大日本帝国憲法下の天皇は、実質的には専制君主であった】
反論:大日本帝国憲法下の天皇は実質的に名目的君主だった。
何故ならば、事実として、明治時代から、天皇は、議会の決議した法案を常に裁可されたのであって、
拒否権を行使された例は無い。
.天皇の行為は、帝国憲法.法律によって、制限されており、法的にも、天皇は専制君主ではなく、
【立憲君主】であった。
.天皇単独での立法権は無かった。天皇は勅令を出す事はできたが、大臣の副署が必要とされていた。
☆以下、帝国憲法を読んでください。天皇が法に拘束されている事がよく解ります。
何処を読めば、専制君主だといえるのでしょう?或いは、専制君主として振る舞った事実がありますか?
第四条
天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ
第五条
天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ
第八条
1 天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル為緊急ノ必要ニ由リ帝国議会閉会ノ場合ニ於テ法律ニ代ルヘキ勅令ヲ発ス
2 此ノ勅令ハ次ノ会期ニ於テ帝国議会ニ提出スヘシ若議会ニ於テ承諾セサルトキハ政府ハ将来ニ向テ其ノ効力ヲ失フコトヲ公布スヘシ
第九条
天皇ハ法律ヲ執行スル為ニ又ハ公共ノ安寧秩序ヲ保持し及臣民ノ幸福ヲ増進スル為ニ必要ナル命令ヲ発シ又ハ発セシム但シ命令ヲ以テ法律ヲ変更スルコトヲ得ス
第十四条
1 天皇ハ戒厳ヲ宣告ス
2 戒厳ノ要件及効力ハ法律ヲ以之ヲ定ム
第三十五条
衆議院ハ選挙法ノ定ムル所ニ依リ公選セラレタル議員ヲ以テ組織ス
第三十七条
凡テ法律ハ帝国議会ノ協賛ヲ経ルヲ要ス
第三十八条
両議院ハ政府ノ提出スル法律案ヲ議決し及各〃法律案ヲ提出スルコトヲ得
☆確かに、帝国憲法下で、天皇に大権があり、後醍醐天皇が試みたように天皇親政、この場合、つまり、旧憲法下では議会を解散し、大臣を罷免し、天皇専制も一時的には可能だった、という事は出来ます。ここで、歴史に学ぶならば、後醍醐天皇は、足利尊氏たち武家によって、排除され、二人の天皇が在位した、南北朝の時代を招来したと言う事実を、想起しなければなりません。
☆天皇が国政上の機能を行使された二度の銘記すべき前例がある。
終戦の聖断と、帝国憲法の改正である。この事は決して忘れるべきではない。
昭和天皇に戦争責任はない。
立憲政治下の日本は、法=ノモスが支配し、天皇は君臨し、内閣、国会、枢密院などの、公論に決した国家意思を、いわば、議長のように、自らの個人的意思に反する事ですら、決議せざるを得なかったのだ。
☆☆☆
葦津珍彦先生は、著書の中で、大意、次のように述べられている。
【戦端を開くに至るもまことに已むを得ざるものあり、豈(あに)朕が志にあらんや。】、
詔書のなかの、このお言葉は陛下の希望による。
『開戦に際し、日本の法定国家機関は、すべて開戦の決定をした。専制君主ではない天皇がこれを国の意思として認め、宣言なさったのは当然である。』
さらに葦津珍彦先生は主張される。昭和天皇に戦争を止める事が出来なかった責任を問うのか。
ローマ法王も、スターリンも、チャーチルも、スターリンも蒋介石も世界中の誰一人として戦争を止める事が出来なかった。何故に昭和天皇だけに責任を問うのか?!
☆☆☆
主権在民であり、【国民】に主権がある。これは憲法に規定されています。この【国民】とは、小泉君や小沢君というような、具体的な個々の国民の事を言うのではなく、集団としての目に見えない【抽象的な概念としての国民】のことです。
国民主権とは、国の最高の意思が、統一的な国民の意思によって、決まると言う意味です。
実際の国家では、当然のことですが、多数派の意思と少数派の意思があります。
少数派の意思は、勿論、主権者の意思としては、みとめられない。しかし、民主的な国では多数派の意思が、そのまま、主権者の意思と認められるのでもない。必要なのは、少数者にも反対を許し討論を認め、多数決その他、法定の手続きを通じて、一つの国家意思を作り出すことです。
その国家意思は、単なる多数派の意思ではなく、統一された主権者の国家意思として公認され、権威を持ちます。いかなる国に於いても、国家意思は唯一つです。
それでなくては、国は分裂し、法の体系は立ちません。
この権威ある意思の主体を主権者と呼び、国民と称するのです。
目で見ることの出来る、A君、B君、C君という国民は、主権意思が決定された上では、
もはや、主権者ではなく、主権によって統治される、自由で平等な権利を持つ、ひとりの国民なのです。
勿論、個々の国民は主権意思を形成する過程で、多数派か少数派に属し一定の役割を果たす権利者ではあります。
【主権者たる国民とは、目に見えない統一的存在であり、目に見える個々の国民は、統治される国民である。】
天皇が【国民統合の象徴】といわれるのは、この目に見えない主権者たる国民の姿を、目に見える姿で、表すのは、ただ天皇御一人に限られると言う意味です。これが、憲法の法理です。
国会議場に陛下が行かれると、共産党以外の、国民の代表である議員たちが敬意を表します。
議長以下の国会議員は、統治される国民の代表として立っています。
陛下お一人が、主権者たる国民を象徴されているのです。
国権の最高機関で形成された統一された国家意思、それを、ルソーの言う【一般意思】に準ずるものとして、認めるべきなのかもしれません。
統一された権威ある主権者の意思を、主権者を象徴して、天皇は、内外に宣言し、外国の代表者と会談し、あるいは、国内に法律を公布するのです。
『一般意思』とは、【つねに正しく、つねに公共利益を目ざすもの】と、定義され、国家意思は、この『一般意思』に、基ずくべきだと、ルソーは説き、私もその様に主張しています。多数決によって、私的利益を追求する『特殊意思』の対立を解消するのは、困難なのです。それは、多数者の特殊意思を、『全体の意思』と看做すだけである事が多い。
この様な意思がどのようにして、成立するかという事について、徒党を組むなどの対立的人間関係を、含まない状況において、個々人が独立して自由に判断し、しかも正しい情報が十分に与えられる時に、特殊な差異が、差し引かれて、おのずから、共通な意思として成立すると、彼は説いたのです。 (目標と、すべき理想です。理想に関する理論であると言う事。)
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功利主義、功利的の意味が解らず、苦しんでいる人がいた。
「国語辞典」で「功利」の意味を調べたりして、彼は思考停止の状態だった。
今思えば、功利主義の元祖といわれる、ベンサムの説を紹介すればよかったのだ。
ベンサムが、とあるカフェで思いついたとされるのが、【最大多数の最大幸福】の功利主義的民主主義の原理です。そこから、多数決原理も導かれます。
だが、この多数決原理では、原理的に、永遠に解決できない問題がある。
【少数者の宗教や、個人のライフスタイルも多数決で決定し、強制すべきことではない】
西欧近代政治哲学(民主主義)の理念での、世界で初めての【共和国】がアメリカです。
アメリカには、少数者である奴隷たちがいた。(白人奴隷もいたそうです)
勿論、公民権はなく、国家意思を形成する権利者でもなかった。
多数派の利益のために、多数決で、政策、法律、つまり国家意思を決定しているだけなら、
多数派の利益と『効率』を求める政府によって、少数者のささやかな幸福ですら、常に犠牲とされるだろう。アメリカには、今も奴隷制度が存在した事だろう。
オバマ氏が大統領候補になるような事も決して起きなかったでしょう。
日本の、同姓婚の問題.ワーキングプアの問題.人道に反する社会的格差の問題も、
【最大多数の最大幸福】という、功利主義では決して解決できない。
十九世紀、アメリカは、キリスト教的倫理と戦争によって、黒人を解放した。
今、二十一世紀のアメリカ共和国では、自由という正義の理念に基づいた憲法の法理によって、
モルモン教徒にも、同性愛者にも、法の下での平等な自由な権利が、認められる確かな傾向があるようだ。
私たち日本人は 【人類普遍の原理と日本国憲法法体系】 によって
【功利主義】 の限界を突破している。
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