第14話 不倫する女_石を投げる女たち 

不倫する女_石を投げる女たち

タイトルは福音書の一節にインスパイアされて決定しました。

私は小学生のころ校門の前で英和対訳の聖書を頂いて以来時々読んでいます。

うちは代々浄土真宗の家系でしたが特に注意されることもなく寛容でした。故郷の実家には立派な仏壇があり、帰省したおりには今でも帰命無量寿如来とお経をあげます。聖書を読んだりクリスマスを祝ったり、大方どこのご家庭でもそのようなものなのでしょう。


私が疑問に思うのは【何故女たちは石を投げるのだろうか】ということなのです。不思議なのです。それがタイトルのテーマとなります。バイブルでは次のように説かれています。


『ヨハネによる福音書第8章2節-11節 「汝らの中、罪なき者、まず石をなげうて」

「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」

「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」

「主よ、だれもございません」

「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」』


娼婦の守護聖人として祈られるマグダラのマリアは、この不倫の罪を犯した女と同一視されてもいるようです。現代日本に生きる私から見て、このキリスト教倫理は日本の倫理にもあり、文句のつけようもないものに思えます。


何故女たちは石を投げるのだろうか?

当時は、人間が幸福に暮らせるように、神が定めた厳格なおきてがあり姦淫かんいんの罪を犯した女は「石打の刑」により死刑とされたのだそうです。

女たちは石を投げられる女に、女たち自身の姿を重ねて見て、姦淫の罪を犯した女と同一視されたくないから、石を投げたのだと私は思います。そして、その彼女たちが同一視されたくない最大の理由は、目の前で、石を投げる男たちを恐れたからに違いありません。

石を投げるもう一つの理由は、女たちが、明日その街頭で石を投げられるのは、自分達自身かもしれないと恐れているからです。何故なら、彼女たちの夫への不満や自分の欲望から、ふとしたはずみで不倫する事は十分に有り得ると知っているからです。


何故男たちは石を投げるのだろうか?

男たちは自分の妻が不倫するのが嫌だから、不倫した女を贖罪のスケープゴートにする事によって、妻たちを脅迫しているのだと、私は思います。人は誰でも間違いを犯しやすい。それぞれのパートナーへの不満や自分の欲望から、男であれ女であれ、ふとしたはずみで不倫する可能性が常にある事は、男たちも知っているのです。人生はたたかいです。耐えて生きねばならない時もあります。しかしながら、嫉妬しっとに耐えて苦悩する必然性はありません。ただ、許して別れて生きるか或いは許して共に生きていくかの選択をすればいいのです。石を投げる男たちは危険です。何故ならば、権力機構の大部分を構成しているのは男たちだからです。女は男の所有物ではなく、男が女の所有物でもない。遥か太古の昔から男女は権利に於いて平等なのです。


現代日本には、厳格な神が支配するかのように家父長が支配する封建的家族制度は存在しません。

しかしながら、一部ではその名残は根強く残っています。今現在書かれている小説のなかにもその残滓ざんしが反映しています。


私たちはテレビの前で、他人の不幸を喜ぶかのように、誹謗ひぼうや中傷、罵詈雑言ばりぞうごんやスキャンダルを、放映しているワイドショーを見て、一緒になって石を投げたりしてはいないのでしょうか?

許しあうべきなのは私たち自身なのです。


――――――――――――――――――――――――――――― 石を投げる男たちの一節を加筆する必要を感じた。イエスの時代に女たちが石を投げた理由は、厳格な家父長のような神への恐れもあっただろうが、目の前にいた石を投げる男たちをこそ、恐れたからではないか。

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