ありがとうの一言

七荻マコト

ありがとうの一言

 私は人混みが嫌いだ。


 満員電車なんて特に嫌い。


 でも高校に通うためには避けられない。

 駅に到着した満員電車から川が氾濫するかの如く、一斉にホームへと人が流れ込んでいく。私も負けじとその流れに乗ろうとしたが、奮闘空しく揉みくちゃにされて、終いにはドンッと押されて倒れこんでしまった。


 倒れた拍子に、鞄の中身が散らばってしまう。

 最悪だ。


 そんな私に周りは目もくれず、イナゴの群れの様に散らばったものを踏んだり蹴飛ばしたりして進んでいく。

 泣くのを堪えて必死にかき集める、財布、ポーチ、スマホ、油性ペン、スケッチブック。


 私は一気に血の気が引いた。


 突然、マンホールの空いた下水道に落ちたような感覚、絶望という暗闇に引きずり込まれた。


 鞄に付けていた亡き母の形見の御守りが、千切れていた。


 必死に這い蹲って探そうと試みるも人の波は止まずに、蹴り飛ばされそうになる。


 グイッ!


 気が付くと一人の男子高校生に引っ張りあげられていた。

 危ないところを引っ張って助けてくれたのだ。

 その男子高校生は、ホッとした表情をしていた。危急を回避できたからだろう。

 その彼の口が動く。


「突き飛ばされて大変だったね、大丈夫?」


 私は首を縦に振る。


 彼は続ける。

「これ、君が鞄を落とした時に外れたのが見えて拾ったんだけど、どうぞ」


 彼の手には、母の御守りが握られていた。

 御守りが見つかった安堵で崩れ落ちそうになる私を、彼は支えるようにホームのベンチへと導いて座らせる。

 私の手に、そっと御守りを握らせると、


「少し休んでから動いた方がいいんじゃない?ここで落ち着いてから」


 彼の口がそう言っていた。

 コクコクと勢いよく首を縦に振る。

 彼にお礼を言おうと、スマホを取り出してメモ帳アプリを使い、言葉を綴る。


 顔を上げると、彼の姿がそこになかった。


 文字入力している隙にもう行ってしまったのだ。優しそうな彼のこと、恐らく私に「それじゃ、僕は行くね」とでも声を掛けてくれたに違いない。彼にとっては何気ない当たり前の優しさだったのだろう。それでもお礼が言えなかった、感謝を伝えたかった。


 私は項垂れた。

 いつもそうだ。

 どんくさくて、何もかも手遅れ。

 たった一言の『ありがとう』さえ伝えられない。


 母親にもずっと言いたかった言葉。

 生前、母は事あるごとに私に誤っていた。

「ごめんね、五体満足に産んであげられなくて…苦労をかけてごめんね…」

 その度に私は首を横に振った。


 本当は大声で叫びたかった。


 生まれつき耳が聞こえないのはお母さんのせいじゃないんだよ。むしろ、私が謝りたいくらいなんだよ。シングルマザーとしていつもいつも私の為に働き詰めの毎日で、苦労を掛けて、わたしこそごめんね…と。


 けれど私は、母に誤られる度、首を横に振ることしか出来なかった。


 怖かった。


 私が色々言うことで、それがまた母の負担になるかもしれないと…。人に気持ちを伝える勇気が無かったのだ。


 そんな自分を変えたくて高校受験に挑み、合格したら一杯ありがとうを伝えるんだと、頑張ってようやく合格した日に、母は職場で倒れて逝ってしまった。


 過労だった。


 私が本当に言いたかった、ありがとうを伝えられないまま。


 産んでくれてありがとう、育ててくれてありがとう、愛してくれてありがとう、沢山のありがとうを伝えたかったのに。


 ベンチで落ち着いた私は顔を上げるとハッとなった。

 電車が発車して、人の波も落ち着き、開けた視界に先ほどの彼が映った。

 電車の乗り換えで向かいのホームに移動していたようだ。


 私は、母親の手作りの御守りを握りしめた。


 お母さん、勇気を…下さい。

 私はもう、後悔したくない。

 伝えるべき感謝を、言いたいことをもう躊躇わないとと決めたんだ。


 向こうのホームに今から行くのは間に合いそうにないと思った私は、緊急用に持ち歩いているスケッチブックを開く、紙に大きく文字を走り書きする。

 ペンも拾えていて良かった。黒い油性ペンで伝えたい一言を綴った。


 『ありがとう』


 たった一言。

 人混みは嫌いだし、目立つのも嫌いだ。

 でも、もう後悔するのも嫌なんだ。


 次の電車のために人が増えてきた駅のホーム。


 私は人目も憚らずにスケッチブックを両手で抱えて紙に書いた文字を向かいのホームに向けて掲げた。


 けど彼はイヤホンを付けてスマホを見ているので私のことに気付かない。

 体を使って紙を掲げるも、彼はぴくりともしない。

 私は必死で声にならない声を上げ続けた、叫び続けた。

 けれど、彼は気づきもしない。

 早くしないと電車が来てしまう。

 もう、駄目なのかな…。

 やっぱり私…私…。


 力の限界で腕が下がり、諦めて顔を伏せようとしたとき、隣の女性と目が合った。


 奇跡が起こった。


 その女性はずっとこっちを見ていたようで、私の手に持った紙を見るや否や大声を張り上げた。

 

「そっちのホームの人~~こっちに注目!」


 何人かがこっちを向く。

 それでも彼は気付かずスマホを見ている。

 ОL風の隣の女性は、私に聞く。

 口さえ見れば言っていることが分かるので女性の口を落ち着いてみる。

 一角を指さして、


「あの中にいる?」


 私は首を横に振る。

 女性は指をずらしながら私に聞いてくる。


 三度目、彼のいるところを指さしたので、大きく首を縦に振る。


「あの男の子?」


 私はブンブンと首を縦に振る。


「よし!」


 女性は満足気に頷くと、私の腕からスケッチブックとペンを奪い取る。

 紙1枚に1文字大きく『あ』と書くと隣の禿げたサラリーマンに渡し、何やら喋りかける。そうするとサラリーマンはその紙を彼の方に向けて高く掲げた。


 ОL風の女性は次に『り』と紙1枚に目一杯書くと、近くにいた主婦に渡す。

 主婦もノリノリでその紙を掲げる。


 次に『が』を小学生に、『と』を外国人に渡して掲げさせる。


 今、どんな魔法が掛かっているのか不思議だったが、私の胸は物凄く熱く高鳴っていた。何が起こっているのか理解が追い付かないまま、それでも期待と希望が私の中で大きく膨らんでゆく。


 女性は最後に『う』を私に渡して立ち上がるとまた叫びだす。


「お~い、そっち側!気付いたら誰でもいい。そこの学生に声かけて~」

 

 喧騒が邪魔をして女性の声だけでは離れたホームに届かない。


 それを悟った女性が自分のいるホームに向けて何やら叫ぶと、疎らにこちらのホームの人達が叫びだした。


 お~い、お~い、気付け~、こっち見ろぉ!


 最初は小さな波紋。

 しかし、それは次第に大きくなり、伝播してこちらの駅のホームが向かいのホームに呼び掛けるかのように大きくなっていた。


 向こうのホームで気付いた人が周りを見たり、なんだなんだと騒ぎになり始める。

 気付いた人たちに隣の女性が、


「そこの高校生にこっち向くように言って~」


 と指を差して大きくジェスチャーする。

 そうして、隣の男性に声を掛けられた彼が、イヤホンを外して顔を上げる。


 私の横で女性は、彼に分かる様に私を指差す。


 私は、それに呼応するように『う』の文字を目一杯全身全霊で掲げる。

 それを横目で見た、サラリーマン、主婦、小学生、外国人の方達も紙を掲げた。

 声にならない声を、みんなの力を借りて叫べていた。


「ありがとうぉぉぉ!!!!」


 その瞬間、電車が到着して彼が見えなくなった。長い電車が遮る様に流れ込んで止まる。

 ホームは一瞬で静かになり、平日の通勤、通学ラッシュ時と思えないほど静まり返った。それは息を飲むようなわずかな時間。


 すぐに発車する電車。


 タタンタタン、タタンタタン。


 向かいのホームには……はにかんだような笑顔で私を見る彼がいた。


 私は嬉しさのあまり滂沱と涙が落ちた。


 彼は頭をかくように手を上げて恥ずかしそうにお辞儀をした。

 駅のホームは拍手と歓声に包まれ、快哉を叫ばれた。


   ◇      ◇      ◇


 隣の女性が私にウインクして言った。


「良かったわね、伝わって」


 私は、感動に震える手でペンを握り、紙に書いた。

「あなたのおかげです」


「それは違うわ。貴女が頑張ったからよ。もっと自分を褒めてあげなさい」


 それでも、この人が隣にいなければ私はここまで出来ていなかっただろう。

 まるで母に褒めてもらえたようで、目頭がまた熱くなった。

 私は気持ちのままに質問をする。


「あなたは魔法使いですか?」


 女性は、相好を崩しながら、

「ふふ、私はただの教師よ。今日から貴女の担任になると思うけど、よろしくね」

 そうして握手をした彼女の手は優しく、希望に満ちていた。

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