第81話 湖中の小島

 外は夕刻。酸の雨に打たれたエリア・アマゾンの中央地域は、壁や道路の汚れが落ちてピカピカに輝いていた。その外れにある大きな屋敷。この地を代々実質的に支配し続ける、マルソ家の豪邸。現在の主人はいま、地下室に居た。


「何故ここに連れて来られたか、わかりますね」


 小さなランプを前に、暗い部屋に座るマヤウェル・マルソは微笑む。ランプを挟んだ向かい側には、十歳ほどの、短い髪の少年が座る。後ろ手に手錠をかけられて。


「ううん」


 少年は首を振った。しかし怯える様子はまったくない。マヤウェルは見つめた。


「あなたたちの力が借りたいの」


「力? 何の事?」


 少年は不思議そうな顔でマヤウェルを見つめ返す。マヤウェルはまた微笑んだ。


「重力を操るエリア・ヤマトの怪物、そして酸の雨を降らせた謎の雲、どちらもあなたたちの仕業でしょう」


 少年は、ようやく思い当たったという顔で笑った。


「ああ、『遺産』の事か」


 しかしその目はゾッとするほどに冷たく。


「おまえらには渡さないよ」


 マヤウェルは驚いた様子もなく、静かにうなずく。


「ええ、渡してもらわなくても結構。使うのはあなた方に任せます。ただ、使う時と場所を決めさせて欲しいだけ」


「無理だね」


 少年は言い切った。マヤウェルは問う。


「何故」


「そこには秩序があるからさ」


「秩序があってはいけないの?」


「いけないよ。我らはカオス、この世界に混沌をもたらす者だから」


 マヤウェルは小さくため息をついた。


「私たちがそれに協力すると言っても?」


「協力なんて出来っこない」


「あなたたちの力を、このエリア・アマゾン以外で使うのなら、つまりアマゾン以外のエリアに混沌をもたらすと言うのなら、協力出来るけど」


「それは無意味だ」


「どうして」


 その言葉に対し、少年は鼻先で笑った。


「混沌は完全でなければならない。不完全な混沌など最初から求めては居ない」


「完全な混沌など不可能です。仮に地球が混沌に沈もうとも、宇宙には秩序がある。イ=ルグ=ルが世界を滅ぼしても、そこにはイ=ルグ=ルの秩序がある。完全な混沌の存在する可能性など皆無でしょう」


「わかってないなあ」


 少年はまた首を振った。


「我らカオスの目的は結果じゃないんだ。プロセスそのものが目的なんだよ。秩序を破壊しようと行動する事に意味がある。その結果が滅びるしかないのなら、滅びる事こそ目指すべき道なんだ」


「そんな事をして、いったい何になるの」


 マヤウェルの笑顔が消えた。対して少年は無邪気に微笑む。


「何にもならないよ。だって我々は何者でもなく何もない、空っぽの存在だからね。存在しない存在。ここに居るだけで混沌をもたらす、動く矛盾。それがカオス。だから世界の混沌を求める。我らは君と違って破壊には興味がない。ただ狂わせたいだけさ」


「水と油、と言いたい訳」


「そう、混じり合う事などない。互いに利用など出来ない。叩き潰すか無視をするか、二つに一つを選ぶといい」


「無理矢理に言う事を聞かせてもいいのだけど」


 少年はニッと歯をむき出した。


「それこそ不可能だ。我らには痛覚がないのでね」


 すると突如、闇の中から湧き上がるように、ランプの光の中に軍服を着た人影が二つ現われる。マヤウェルは立ち上がった。


「彼に言う事を聞かせなさい」


 それだけ言い残すと、少年に背を向けてドアに向かう。ドアが自動で開き、マヤウェルが外に出た瞬間、背後から鈍い音が響いた。




 デルファイの聖域サンクチュアリ、その繁華街の片隅にあるバー『銀貨一枚』のドアが開く。すでに出来上がっている常連客の男が二人、上機嫌で入って来たかと思うと、揃って目を丸くした。カウンターの端っこに、真っ赤なミニのチャイナドレスを着た若い女が座っていたからだ。


「うおおお、何だ何だ、ベッピンじゃねえか」


「姉ちゃん誰だ、新入りか?」


 ズケズケと近付いてくる二人の男。大きな羽ばたきの音。二つの頭を、二羽の鷲の爪が握り潰さんばかりにつかんでいた。


「痛ででででっ!」


 男たちの悲鳴が上がる。カウンターの中に笑顔で立つのはプロミス。


「お店の評判落とすんなら、つまみ出しますよ、お客さん」


 二人の客が手を合わせてプロミスを拝むのを、ウズメは不思議そうな顔で見ていた。その隣に座る気配。


「ねえ、柄の悪い店でしょう」


 その大柄な女は体のラインのクッキリと浮き上がった紫のロングのチャイナドレスに、ショールをかけていた。右手には羽根扇子、左手にはグラスを持って、蛇のような目が微笑む。


「ちょっとキャラかぶってる?」


「あは、あはは」


 ウズメは引きつった笑いを浮かべるしかない。


「でもいい店よ」


 マダムは客席を見回した。


「客はどうしようもないサイボーグやら強化人間やらだけど、それでも人間らしい人間が生きている場所。気に入ると思うわ」


 しかしウズメは困り顔だ。


「私、ここで働かなきゃダメ、ですかね」


「あら、他にどこか働きたい場所があるの」


「いや、そうではなくて」


「それとも働きたくない人?」


「いや、そういう訳でもなくて」


「じゃあ何?」


 マダムは本当にわからないのか、首をかしげている。ウズメはどこから話した物か迷っていた。


「その……私、何で受け入れられてるんですかね。だって」


「だって、ここはデルファイだもの」


 マダムはグラスに口をつけた。


「世界のあらゆる悪徳と混沌を放り込まれたゴミ捨て場。昨日まで何をしていたかなんて関係ないし、誰も気にしない。だからあなたも気にしなくていいわ」


「はあ」


 そうではない。そういう事が言いたいのではない、という顔のウズメに対し、マダムはニンマリ笑いかけた。


「リキキマ様に聞いたけど、あなた、世界に混沌をもたらしたかったんですって?」


「ええ、まあ」


「物好きねえ」


 また一口、グラスの酒を飲む。


「だって混沌なんてありふれてるじゃない。ただでさえそこら中に転がってる物を増やしたからって、たいして変わらないわよ」


 ウズメは首をひねる。


「そんな崇高な事は考えてないんです」


 ポツリ、ポツリと語り始めた。いまはない左腕を探しながら。


「ただ、何て言うか、自分に正直って言うんですかね。私たちは、私たち自身が混沌その物なんです。人間とは言えず、かと言って超人でもなく、何者でもない、何もない、空っぽの、存在していない存在。だから、他に選ぶべき道がないと言うか」


「それって運命じゃない」


「……え」


「運命は天の秩序。混沌の対極にあるものだけど、信じてるの?」


 言葉がない。ウズメは意表を突かれていた。


「ああ、そう言えば『俺に運命は必要ない』なんて生意気な事を言ってた人間もいたわね」


 笑いながらマダムは酒を飲む。空になるグラス。しかしウズメには、もう笑う余裕はなかった。




 北米五大湖とは言うものの、別に世界で一番目から五番目までの湖が揃っている訳ではない。つながっているすべてを合わせれば、淡水の水系として世界最大級ではあるけれど。では何に対しての『大湖』なのかと言えば、五大湖周辺には小さな湖が数え切れないほど、それこそ無数にあるのだ。それらに比べれば、スペリオル、ミシガン、ヒューロン、エリー、オンタリオの五つの湖は、比較にならないレベルで巨大。故に五大湖である。


 そんなエリー湖の西、かつてクリーブランドと呼ばれた地域にほど近い場所にある小さな湖。その中に浮かぶ、もはや誰も名前を覚えていない小島に一人の若い男が住んでいた。


 髪もヒゲも伸び放題に伸ばし、野草や木の実で飢えを満たす。ボロ布を重ねて身に着け、寒さをしのぐ。エリアの文明社会に暮らす人々から見れば、野蛮人か、さもなくば狂人である。しかし彼は狂ってはいなかった。何をもって「狂っている」と判断すべきなのかは定かでないが、少なくとも理性は保っている。


『彼』の目的は、人の身のままで人を超える事。サイボーグや強化人間のようになりたい訳ではない。自然と一体となり、さらに言うならイ=ルグ=ルと一体となり、己の精神を神のレベルにまで引き上げる事、それが望み。


『彼』は元々エリア・レイクスの金星教団のメンバーであった。だがそのあまりに独特な思想のため、教団内に居場所を失い、やがてこの島に流れ着いた。ここで文明から隔絶された生活を営む事によって、自らの精神を自然と一体化させようとしているのである。


『彼』がここに籠もってもう二年。外の世界で起きている事など知る由もない。今日も午前中の瞑想の後、食べられそうな草や木の実を探して島中を歩き回っていた。すると草むらを掻き分けて進むその鼻先に、嗅ぎ慣れない香りが漂う。食べ物の匂い。その跡を辿って歩くと、岩場で火を焚く男がいた。


 黒いスーツに黒いネクタイ。まるで死神の装束を思わせる格好の初老の男。いったいどこからやって来たのだろう。不思議には思ったが、警戒はしない。仮に本物の死神であったとしても、恐れる理由など何もないのだ。


「やあ、ちょっと場所を借りてるよ」


 初老の男は微笑みかける。大きな石を重ねて組まれたかまどには、小さな鍋がかかっていた。グツグツと音を立てる鍋の中から、美味そうな匂いが漂っている。


「豆のスープだ。シンプルだが体が温まる」


 鍋をかき混ぜながら男はそう言うと、不思議そうな顔で『彼』を見た。


「どうした、座りたまえ。君の島だ、遠慮は要らない」


『彼』は言われるままに火の前に座る。黒服の男は大きめのマグカップに鍋のスープを注ぎ、『彼』に渡した。


「さあ、たんとお食べ」


「一つ聞いてよろしいか」


『彼』はたずねた


「何故このようなほどこしをしてくださるのか」


「施しではない。利用したいと考えているだけさ」


 男は微笑む。


「私のような世捨て人に、利用価値があるのでしょうか」


『彼』の問いは疑いではない。どちらかと言えば、男の身を心配している。すると男はうなずき、こう言った。


「我らはカオス。世界を混沌に導く者。我らの目的には、強い精神を持った人間が必要だ。だから、君に白羽の矢を立てた。このスープには特殊な薬が混ぜてある。飲めば君は世界に混沌をもたらす使者となるだろう」


「混沌……破壊ではなく?」


「混沌に至る過程で破壊もあるかも知れない。しかしそれは目的ではない」


「そうですか」


『彼』は小さく微笑むと、カップのスープを一気に飲み干した。そして息を吐く。


「ああ、美味い」


「飲んで良かったのかね」


 さすがに気がとがめたのか、男は確認した。『彼』は澄んだ目でうなずく。


「これも聖神イ=ルグ=ルの思し召しでしょう。ここで私が終わるなら、その程度の存在であったという事です」


 そう言って微笑んだ。

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