第51話 負けない戦い
「神とは何ぞや、という話からせねばならんの」
マグカップに注がれた冷たい水を一口飲んで、さらは言う。
「イ=ルグ=ルを見ればわかりやすいが、あれはこの宇宙という仕組みの中に機能する意思だ。それと同様に、ワタイらはこの地球という仕組みの中に機能する意思だ。小さな意思が集まって一塊となり、形と方向性を持つ。それが神だと言える」
ウッドマン・ジャックはロッキングチェアを揺らしながらパイプを咥えている。テーブルに頬杖をついて、さらは続ける。
「自然界に存在する小さな意思が神となるには、別の意思の介在が必要だ。地球で言うなら人間だな。人間の意思が一点に集約されたとき、そこに神が生まれる。人間は神を信仰する事を、遠い過去からの盟約のように考えるが、あれは新たに神を生み出す行為なのだ」
「ふむふむ」
ジャックはうなずいた。
「つまり神を信仰しても、
「神に幸福など与えられんよ」
さらは笑顔でそう言う。
「幸福は人間が自力でたどり着く境地だ。ワタイらには応援する事しか出来ん。まあ、たまにワタイらが見えたり、声が聞こえたりする人間が居ると、そういう者を通じて警告を与えたりする事はある。ワタイらは人間より視界が広いからな」
「楽してお金を儲けさせろ、というのは無理な訳なのだね」
「楽して儲けたい、という願いが世界に一つだけなら、もしかすると叶えられる場合もあるかも知れん。だが現実にはそうではないからな。それに」
また一口、さらは水を飲む。
「ワタイらに力が使えるのは、人間の意思が集約しているときだけ。それがなくなれば、ワタイらの力もなくなる。信仰なき神は、ただの小さな意思へと戻る。力を失った後で、しかも信仰すらしていない者に『小銭を投げてやるから金持ちにしろ』と言われても、それは無理というものだ」
「ぬほほほほっ、なるほどなるほど。では何万人も観光客が訪れて、小銭を投げても意味はないと」
「意思の集約がなければ、神は神として機能せんよ。そういう意味では何の値打ちもない」
「その意思の集約とは、実際のところ何なのかね」
さらは一瞬考えて、また笑顔を見せた。
「共に生きる覚悟だな」
「共に生きる?」
「そうだ、神と共に生き、暮らしていく覚悟がある者が何人集まるか。神がどれほどの力を持ち、何が出来るかは、それによって決まる」
「イ=ルグ=ルも?」
「宇宙の仕組みはワタイにはわからんが、おそらくあれも、とてつもなく巨大な意思が、とてつもない数を集約させた事により生まれた存在のはずだ。そう考えれば、金星教団のようにイ=ルグ=ルを信仰する者が居るのは、おかしな話ではない」
ウッドマン・ジャックは、ふうむ、と腕を組んで考えた。
「結局のところ、信仰のメリットとは何なのだろうと思うのだけれど」
さらは即答した。
「即物的なメリットは何もない。神を拝んでも経済的に豊かにはならないし、イ=ルグ=ルに襲われても助ける事すらできない」
そのとき一瞬、さらの顔に悲しみが見えた。
「神にできるのは見守る事だけだ。『誰かが見守ってくれている事』に価値を見出さない者には、信仰のメリットなど何一つない」
ジャックは尚もわからないという顔をする。
「そんなメリットのない神様が、デルファイに何の用なのかね」
「……それでも、ワタイらは人間が好きなのだ」
さらの、太陽のような笑顔。
「人間を見守りたい。できる事があるなら手助けしたい。それがワタイらの共通した考えだし、ワタイが代表として東の端からここまで来たのは、それだけが理由だ」
ジャックは一つ、ため息をついた。
「それは残念。我が輩は人間があまり好きではないのだけれど」
「だけれど、それでも人間の友達の一人くらいおるのだろう?」
そのまぶしいほどの、さらの笑顔の向こうに、ウッドマン・ジャックはあの男の顔を思い浮かべていた。
「友達……なのかねえ」
「昔から『人をコマのように使う』という言葉は、あまり良い意味では使われてこなんだ」
ネプトニスの葬儀が終わった夜。ジュピトルの部屋でソファに寝転びながら、ムサシは話した。
「だが非常時には、人をコマのように使う者が必要になる。その立場に優秀な者が立てば被害少なく勝利し、愚鈍な者が立てば被害多く敗北する。人間的な優しさの欠落した冷血漢の采配が、人々を救う事になる場合もある訳じゃな」
ジュピトルは机に腰掛け、難しい顔をしている。
「そんな采配を僕に振れと?」
「頭を使え、目を開け、腹を括れ。3Jの言いたいのはそういう事じゃろう。て言うか、3Jがおまえさんに最終的に何を望んでいるか、理解しておるか」
「最終的に? イ=ルグ=ルに勝つ事だよね」
「違うな」
ムサシは鼻で笑った。
「負けない事じゃよ。勝つ事と負けない事の間は近いようでいて、実際には大きな隔たりがある」
「どんな風に?」
「勝つためには被害が最小限度でなくてはならない。昔の国家間の戦争では、これ以上戦いを続ければ、被害が大きくなりすぎて国の再建が出来なくなると悟った時点で、軍事力が残存していても敗北を認めた。勝利を目指す戦いには、敗北という選択肢がある訳じゃ」
「じゃあ負けない戦いって」
「文字通り、最後の一人になるまで戦う。敗北という選択肢はない。どのみちイ=ルグ=ル相手に白旗を揚げても、何の意味もなかろう。全滅するかしないか、その二つしか選択肢はない。おまえさんに求められているのは、そういう戦いで負けない事じゃ」
「……何を犠牲にしても生き残れって言うの」
「頭を使え、目を開け、腹を括れ」
ムサシはもう一度繰り返した。
「たとえワシやナーガやナーギニーを死地に送る事になっても、生き残るためには
「そんなの」
「無理でもやらねばならん。おまえさんはそういう立場に生まれ、いまも身を置いているのだ。逃げる場所はどこにもない」
ムサシはソファから身を起こした。
「逃げる場所はないが、味方なら居る。おまえさんの背中はワシらが守ってやる。無駄な心配はするな」
だがジュピトルは泣きそうな顔を見せる。
「その味方を躊躇なく死なせろって話だよね」
「まあ、それは意味のある死じゃからな」
ムサシは、ニッと笑った。
深夜のダランガン。デルファイ北端の昆虫人の街も静寂に沈んでいる。街外れにある教会のドアが小さく開いた。そのとき、内側から小さく鋭い声が響く。
「静かに入っといで」
ドアがゆっくりと開き、真っ暗な礼拝堂に入って来たのは3J。ドアを閉め、さらに暗い天井を見上げる。と、誰も触っていないランプに火が入った。ほんのり明るくなった礼拝堂の椅子に、背を向けて座っている修道服は、クリア。眠っているようだ。
「ずっとおまえを待ってて、待ちくたびれたんだね、可哀想に」
天井にはダラニ・ダラの巨大な顔が、逆さまにぶら下がっている。
「いじらしいじゃないか。我が娘ながら、涙が出て来るよ」
すると3Jは、相変わらず感情のこもらぬ抑揚のない声でこう言った。
「そんな機能がついていたのか」
「そういう問題じゃないだろ!」
そのダラニ・ダラのツッコミで、クリアは目を開けた。
「……あれ、寝てた?」
そして3Jに気付き、慌てて立ち上がった。
「あっ、いやだもう! 帰ってたんならそう言ってよ」
「すまん」
そしてクリアは、天井をにらみつける。
「ママも! 起こしてくれたっていいでしょ!」
「やれやれ、放っとけって言うから放っといたら、やっぱり怒るんじゃないか」
ダラニ・ダラは文句を言いながら、暗闇に沈んで行った。クリアは一つため息をつくと、3Jを上から下まで見回す。
「今日も無事みたいね」
「ケガはしていない」
「ズマとジンライは? 無事なの?」
「パンドラで待機している」
「そ、良かった」
そう言って微笑み、静かにうなずいた。
「今日はもう寝なさい。疲れてるでしょ」
その言葉がきっかけになったかのように、3Jはクリアに接近した。覆い
「えっ、ちょ、ちょっと3J」
早鐘を打つような心臓の音。クリアの頭に血が上り詰めて爆発しそうになったとき、3Jはつぶやいた。
「疲れては……いる」
そのまま膝を折り、クリアの胸を滑り落ち、音を立てて床に転がった。クリアは3Jの首筋に触れる。
「なんて熱!」
そして天井を振り仰いだ。
「ママ!」
「何だよ、面倒臭いねえもう」
文句を言いながら、またダラニ・ダラは顔を出した。そして細長い八本の脚を静かに下ろす。
「さあて、
3Jの体をそっと持ち上げながら、何か思いついたらしいダラニ・ダラはニヤリと笑った。
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