第25話 三年前
三年前、ズマはウルフェンを出た。自分の存在が混乱を引き起こし、人々を対立させ、憎しみを煽り、不幸を呼ぶだけだと理解したからだ。自分は存在すべきではないのだと思った。生きる理由が見当たらなかった。なのに腹が減れば飯を食う。喉が渇けば水を飲む。そんな欺瞞に満ちた自分が許せなかった。
ダランガンの孤児院には獣人の子供も居た。だがズマは近寄らなかった。あいつらも成長し、孤児院を出れば、いずれウルフェンに戻る。自分とはつながらない方がいい。
「なーにシケた顔してんの」
そんなズマに、ナオはいつも話しかけてきた。
「ご飯は食べた?」
「……あんまりおいらに話しかけんなよ」
ズマには迷惑そうな顔しか出来なかった。しかしナオは気にも留めない。
「何で?」
「何でもだ」
「あのさあ、キミさ」
だからこんな事も平気で言う。
「魔人ガルアムの息子だって事が、そんなにイヤ?」
ズマはこう答えた。
「ガルアムの息子はギアンだ。おいらは息子じゃない」
「何言ってんの。親子は親子でしょ」
「違う!」
自分がガルアムの息子ではいけない。自分がガルアムの息子として生きているから、不幸になる者が出て来る。自分は、自分でいちゃいけないんだ。
「何にも知らないくせに、勝手な事言うな!」
ズマは孤児院を飛び出した。だが飛び出しただけで、逃げ出せはしなかった。どこへ行けばいいのか、もうわからなくなっていたからだ。
当時、グライノはウルフェンの中において、小さからぬ勢力を誇っていた。サイの獣人であるグライノの巨躯と怪力には、ギアン率いる四天王でも手が出せない。そんな脆弱な連中がウルフェンの実権を握っている事が、グライノには許せなかった。
四天王を排し、ガルアムを倒し、自らがウルフェンを支配する。いつしかグライノは、それこそが最良の未来を得る方法ではないかと考えるようになっていた。
ダランガンの領域から少し外れた丘の上、大きな樹の下にズマは座る。そこで沈む夕日を眺めるのが日課になっていた。日が暮れる頃にはまた腹が減っている。自分はまた孤児院に戻るだろう。そして飯を食ってベッドで眠るのだ。最悪だ。
「おいらは嘘つきだ」
ズマは頭を抱えたが、それで何か考えが浮かぶ事はなかった。何をどう考えればいいのかもわからない。四千メートルの壁の向こうに日が沈み、赤い空が夜の闇と混じり始めたとき。それは何度目の日没だったろうか。
「死ねば良かったと思っているか」
不意に声が聞こえた。振り返ると、ターバンにマントに一本足の男。いつの間に丘を登って来たんだろう。
ズマは3Jと呼ばれるその男をにらみつけた。
「……何で助けたんだよ」
それは正直な言葉でもあり、嘘でもある。少なくとも、いまのズマにとっては嘘だ。
「拾っただけだ。助けたつもりはない」
感情もなく、抑揚もない言葉。それがズマには腹立たしい。
「放っとけば良かったじゃねえか」
「おまえに緩衝地帯で死なれるのは迷惑だ。死ぬならウルフェンで死ね」
ズマは言い返せなかった。自分はもうウルフェンには居場所はない。だがウルフェン以外には、死に場所すらないのかも知れない。
「おいらはどうすりゃいいんだ」
「勝手にすればいい」
3Jはそう言う。だがその勝手にする方法がズマにはわからない。頬を涙が伝った。悔しかった。不甲斐ない自分が悔しかった。
「あーっ!」
そこに聞こえたのはナオの声。猛然と走ってくると、ズマと3Jの間に両手を広げて立ちはだかる。
「何してんの!」
「何もしていない」
3Jは抑揚のない声でそう答えた。だがナオは納得しない。
「だって泣いてるじゃない。何が気に入らないのか知らないけど、いじめる事ないでしょ!」
「だから、いじめてなどいない」
さしもの3Jにも、ちょっと面倒臭い気配が漂っている。ナオはしばらく怒りの表情で3Jを見つめると、ズマを振り返った。
「本当? いじめられてなかった?」
その優しい声が辛かった。辛くてたまらなかった。我慢が出来なくなったズマは声を上げて泣いた。声を振り絞り、赤ん坊のように泣いた。
「え? 何? どういう事?」
困惑するナオに3Jは背を向ける。丘はズマの泣き声を聞きながら、静かに闇に飲まれて行った。
「グライノさん、吉報ですぜ」
手下のハイエナが駆け寄って来た。まあ吉報と言ったところで、所詮お調子者のハイエナが持ってくる情報である。たいした事はあるまい、と踏んでいたグライノだったが。
「で、吉報てのは何だ」
「へい、それが」
ハイエナは声を潜めた。
「四天王の、ギアン以外の三人が、ダランガンに出かけるらしいんでさ。何でもズマを捕まえて来るんだそうで」
グライノの太い指が、ハイエナの胸倉をつかんだ。
「そいつは間違いないんだろうな」
「ちょ、ちょっとグライノさん、苦しいですって、苦しい」
「間違いないのか聞いてるんだよ!」
「間違いないです! ジャッカルの野郎に金握らせて聞き出しましたから!」
グライノは乱暴に手を放した。ハイエナがヒーヒー息をならしながら、へたり込む。
チャンスだ。これが事実なら、最低でもギアンをぶち殺せる。魔人ガルアムは一人じゃ無理かも知れないが、仲間たちと力を合わせれば、おそらく何とかなるに違いない。グライノの頭に、希望的観測などという言葉はなかった。その灰色の顔に笑みが浮かぶ。
ウルフェン四天王の三人、すなわちグリュー・ベアとゴルド・ライオン、ハグー・バイソンは、それぞれ三台のバギーの後ろに乗り込み、早朝ウルフェンを発った。皆、沈痛な表情を見せている。
ズマを捕らえてウルフェンに連れ戻すことにより、ウルフェンに潜む『ズマ派』をあぶり出す事がギアンの目的だ。それがウルフェンの団結のためには必要なのだとギアンは言う。そのためにズマの身柄が必要だ、生死を問わずに、と。
だが、三人にズマを殺す事など出来ようはずもない。ズマが命懸けで拒絶でもしない限り、生きて連れ帰る事になるだろう。しかしその後はどうなる。もしギアンがズマを処刑せよなどと言い出したりしたら。誰がその手を汚す。
自分がその立場になったならと気を重くし、さりとてギアンが自ら手を下すと言いだしたらと考えて、さらに気を重くした。いかに母親が違うとはいえ、兄に弟を殺させるのは残酷に過ぎる。ウルフェンの住民に対する影響も大きかろう。ガルアム様がお止めくだされば、と三人は思うものの、そう思い通りに事が運んでくれるかどうか。
三人は三つの溜息をつき、バギーは一路、砂漠を北へ向かう。インセクターの街、ダランガンへと。
ナオの姿がないな、とは思っていた。けれどズマはそれを口にはしなかった。たずねる相手も居ない。ただ何も言わずに朝食を食べ、他の孤児たちがクリアから授業を受けている間、教会の中庭で座ってぼうっと過ごした。自分はいったい何をしているんだろう、と思いながら。空が青い。風は生ぬるい。
「準備をしておけ」
抑揚のない声。
「何の準備だよ」
ズマは空を見上げたままだ。
「ウルフェンから迎えが来る」
ズマは驚いて、隣に立つ3Jを見上げた。
「何でそんな事がわかるんだ」
「俺にはもう一つ目がある。イロイロなものが見える目がな」
左目一つの3Jはそう言った。嘘を言っているようには見えない。
「ウルフェンに戻るにしろ戻らないにしろ、準備は必要だ」
それはズマにはこう聞こえた。逃げるにせよ戦うにせよ、準備は必要だ、と。震える声でたずねた。
「おいら……どうしたらいい。なあ3J、どうしたらいいんだ」
「おまえの命だ。おまえが決めろ」
まるで感情のこもらない声でそう答える。だが。不意に3Jは空を見上げた。
「待て。状況が変わった」
「え」
3Jはズマを見つめた。
「ガルアムの屋敷が襲われている」
そしてこう言う。
「ついて来い」
グライノの軍勢は、警備を力尽くで楽々と突破し、魔人ガルアムの屋敷の奥へと進んだ。だがその先鋒を務めていたハイエナたちが吹き飛ばされる。軍勢の足が止まった。止めたのは、廊下の真ん中に仁王立ちするギアン。
「愚か者共が。わざわざ殺されに来たのか」
軍勢の真ん中を割って、グライノが前に出た。
「その言葉、そのまま返してやろう」
「黙れウスノロ。調子に乗るなあっ!」
ギアンは四足獣へと変容する。しかしグライノは獣人形態のままで手招いた。
「さあ、かかってくるがいい。お坊ちゃん」
3Jとズマは教会に入る。中には泣き出しそうな顔のクリアと子供たち。天井からはダラニ・ダラの顔がぶら下がっている。すでにウルフェンの異変に気付いているのだ。
「どうした」
そう言った3Jにクリアが駆け寄った。
「ナオが、ナオがウルフェンにお使いに行ってるの」
3Jはダラニ・ダラを見上げる。魔女は眉を寄せて視線をそらした。
「領域の問題だからね。アタシが直接出向いちゃ、後々問題になるのは見えてる」
「ガルアムを助ける必要はないのか」
「アレはこの程度でビクともしやしないよ。まあ馬鹿息子は死んじまうかも知れないが」
ズマの顔が蒼白になる。それを一瞬見つめ、3Jは言った。
「空間圧縮で俺をウルフェンに送れ、ダラニ・ダラ」
「待って、私も行きます」
クリアも言う。しかしダラニ・ダラは難しい顔をしている。
「そうは言うがね」
「他に手はあるまい」
感情のこもらぬ、それでいて断固とした3Jの言葉に、結局ダラニ・ダラは押し切られた。
「いいかい、無理はするんじゃないよ」
天井からクモの脚が二本下りてくる。その二本の脚の先に、真っ黒い輪があった。床まで下りてきた輪の中に、3Jとクリアが入った瞬間。
何も言わず、ズマが輪の中に飛び込んだ。三人の姿は教会から消えた。
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