第7話 世界のへそ

 エリア・エージャンを出て北に向かうと、壁がある。高さ四千メートルを超える人造の壁。世界中の資金と技術と労力を集約して建設された、直径百キロの地域を囲む壁の内側には、人類の葬り去るべき後悔が詰まっていた。かつて世界中のエリアにあった、あらゆる恐怖、あらゆる悪徳、あらゆる負の遺産を放り込んで、封印した禁断の土地。エリア・エージャンが神魔大戦後の新世界における中心たる地位を手にし得たのは、この地にもっとも近かった事も理由の一つである。


 その地はいつしか『デルファイ』と呼ばれるようになった。それはいにしえの神話の時代、世界のへそと謳われた都市国家の名前。




 デルファイの中心部の砂漠、俗に緩衝地帯と呼ばれる場所を、馬車が走っていた。いや、正確には馬車ではない。車を引いているのはヤギだ。鋭い大きな角を誇る、体高二メートルはあろうかという巨大な茶色いヤギが二頭、車を引いている。


 このヤギは、かつて世界中に大繁殖した生体兵器の遺伝子を受け継いでおり、デルファイの中では野生化している。正しくトレーニングすれば優秀な使役動物となるが、間違った扱いをすると暴走する。具体的には人間を食う。なのでほとんどは狩り殺され、生き残った数十頭がデルファイの中に捨てられたのだ。


 そのヤギ車が進む先には、丸太で組まれた粗末な検問所があった。検問所の前には槍と簡素な鎧で武装した門番が居る。ただし人間の顔はしていない。向かって左は猫の顔、右はニワトリの顔だ。ここから先は、獣王ガルアムの支配する獣人の街、ウルフェン。



 ズマは森を歩いていた。一人きりで歩いていた。今頃3Jとジンライはウルフェンに着いた頃だ。ジンライ一人で大丈夫だろうか。やはり自分もついて行くべきだったのではないか。そうは思ったものの、実際のところ、ズマはウルフェンには入れない。入れば大変な事が起こる。いや、入らなくても起こるかも知れない。なら余計について行ってはいけないのだが、それでも3Jが心配で仕方ない。


 とは言え、3Jから託された仕事を放り出す訳にも行かず、ズマは悶々とした気持ちのまま森の小道を歩いていた。向かうのは森の奥。デルファイ全体の面積の三割を占める広大な天然林を護る、たった一人の管理人の元へ。


 だが。何だかおかしい。この森に暮らしているのは管理人一人だけのはず。なのに他のニオイがする。血のニオイが混ざっている。ズマの敏感な嗅覚は、それが人間の血であることまで突き止めていた。


 マズいぞ。面倒臭い事に巻き込まれるかも知れない。さっさと用事を済ませてダランガンに戻ろう。そう思った瞬間である。


「いやああっ!」


 森に悲鳴が響いた。あちゃあ。どうする。ズマは悩んだ。もしあの悲鳴が人間だとしたら、何も知らずにこの森に迷い込んだのかも知れない。だが助けてやる義理はないし、そもそも森にだってがある。そうは思うのだけれど。


「ああもう面倒臭え!」


 考えるのは苦手だ。おまえは考えなくていい、まず動け。3Jはいつもそう言う。ならば。ズマは声のした方向に走った。




 ウルフェンの埃まみれの大通りをヤギ車は進む。先導するのはロボット馬にまたがった、ブタ顔の獣人。通りの両脇には建物が並ぶが、どれも木造のあばら屋だ。大昔、西部劇と呼ばれた映画があったが、あそこに出て来る町並みを、何割か酷くしたような景色だと思えば良い。


 直線に進む大通りの突き当たりには、石造りの豪奢な屋敷があった。西部劇の世界にタージマハルがそびえ立っているかの如き違和感である。その正面出入り口の門にまで、ヤギ車は誘導された。


 正面の門にはネズミ顔の小柄な獣人が、十人ほどウロウロしている。みな腰に刀を引きずるように差しているところを見ると、門番なのだろう。


 ブタ顔がネズミ顔にへりくだって要件を話した。


「ガルアム様に面会を希望している者を連れてきたのですが」


 すると一番立派な鎧を身につけた、隊長らしきネズミ顔が、腕を組んでこう言った。


「約束のない者には、ガルアム様はお会いにならない」


 ブタ顔はヤギ車を振り返った。


「と、いう事なんだが」


 ヤギ車の御者台に乗っていたジンライが、ふわりと地上に降り立つ。実際には地上高三十センチほどの位置に浮いているのだが。ジンライは慇懃な態度で一礼すると、こう伝えた。


「3Jが面会のため直々に見参いたした。獣王ガルアム殿にお取り次ぎ願いたい」


「す、3J!」


 その名前は効果覿面、パニックを起こさせた。ネズミ顔たちは慌てふためき、右往左往し、立派な鎧を着込んだ隊長は、しばしオタオタした後、腰にぶら下げた無線機を口に当て、早口でまくし立てた。


「3Jが、あの、あの3Jが、ガルアム様にご面会を求められておりますが!」


 言葉の使い方がムチャクチャになっている。だが無線の向こう側は状況を理解していないのか、尊大な声でこう返答してきた。


「いまガルアム様はお休み中だ。誰であろうと面会など認められない」


 哀れなネズミ隊長は、怯えきった顔でジンライを見た。


「と、という事なのですが、その、これは私が言っている訳ではなく」


「隊長殿」


 ジンライは穏やかに話しかけた。


「は、はい」


「拙者は3Jが面会に来たと申したのだ。拒否をして良いとは申しておらぬ」


 隊長の顔から音を立てて血の気が引くのが、誰にもわかった。震えてかすれた声で、こうたずねる。


「あ、あの、では、どうすれば」


「これから拙者の申す事を、上に伝えよ。一字一句違えずに、そのまま伝えよ。良いな」


 隊長はガクンガクンとうなずく。それを見たジンライは、満足げにこう告げた。


「では、戦争を始める」




 その姿は歪んだワイングラスのようにも見える。毒々しい赤。ウネウネと動くつるで獲物を捕らえた巨大なオニクイカズラは、いまそれを捕食袋に飲み込もうとしていた。だが間一髪、ズマの爪が蔓を断ち切り、巻き取られた獲物を奪い去る。そして木の枝から枝へ飛び渡り、そこから離れた。オニクイカズラは執念深いのだ。早く離れなければ。



 魔女ダラニ・ダラの支配する昆虫人インセクターの街ダランガンには教会があった。しかし信者など誰も居ない。昆虫人は神など信じないからだ。聖書を読む神父も居ない。ただ一人の若い尼僧シスターが日々祈りを捧げていた。彼女は昆虫人ではない。赤い髪の、人間の女性に見える。


 彼女はデルファイ各地を回り、親のない子を集め、教会の敷地で孤児院を開いていた。だが経営は苦しく、日々のパンを買う金にも事欠く有様。今日も今日とて借金取りが入り口で怒鳴り声を上げている。


「だーかーら、今日が期限だって前から言ってたよね!」


 服を着たカマキリが、ドアをガンガン叩く。尼僧はとにかく頭を下げ、平謝りするしかなかった。


「申し訳ありません、もう少し、もう少しだけ待ってください」


「じゃあ返す当てあるの? 元金が返せない、それどころか利子も払えないのに、返せる訳ないよね」


「でも、子供たちのパンにどうしてもお金が必要なんです。神様は善行を見ていてくださいます。どうかもう少し待ってください」

「神様とか信じてないんで、どうでもいいから。どうしても返せないんなら、そうだな、体で返してよ」


「は?」


 思わず顔を上げた尼僧の首を、カマキリの鎌がつかむ。ギリギリと音を立てて締め付ける。カマキリは言った。


「人間の肉って柔らかそうだよね。腕一本でいいからさ、食べさせてよ。そうしたら金は来月まで待ってやるから」


 しかしカマキリは気付かなかった。首を絞められて苦しげな尼僧の両目から、黄金の光が放たれようとしていた事に。そのとき。


 教会内の天井辺りから、数百本の白い糸のような物が飛び、カマキリの体に巻き付いた。


「えっ?」


 そして、あっと言う間もなく、カマキリは天井へと持ち上げられた。そこには暗黒の空間が広がっている。カマキリの体は、暗黒の中に音もなく飲み込まれ、それっきり。二度と姿を現さない。その代わり、暗黒空間から出てきたものがある。逆さになった、巨大な老婆の頭部。


 尼僧の目は、その老婆をにらみつけている。


「もうママ、いい加減にして」


「ママはおやめ、クリア。アタシにも威厳ってもんがあるんだ」


 この巨大な老婆こそ誰あろう、このダランガンの支配者、ダラニ・ダラである。しかしクリアと呼ばれた尼僧は、叱りつける勢いで言葉を発した。


「ママのせいでまた、お金を貸してくれる人を探さなきゃならないでしょ」


「金ならアタシが出すって言ってるだろう。何であんな高利貸しのクズに頼る必要があるんだい」


「神の教会は、人々に支えられてこそ価値があるの」


「神なんて誰も信じちゃいないんだよ」


「いまはそうでも、いつかみんな信じてくれるようになるの!」


 クリアの口調は、駄々っ子のようにダラニ・ダラには思える。ため息を一つつくと、周囲を見回した。


「ところで、3Jはどうしたね」


「知りません。今朝ウルフェンに行くって言ってたけど……」


 不意に心配になったのか、クリアは母親の顔ををのぞき込むように見つめた。


「何かあったの?」


「さあね。まだわからんよ」


 ダラニ・ダラは目をそらした。イ=ルグ=ルが活動を再開した事は、彼女も感知している。だがいつ目が覚めるのかなど、知れたものではない。明日かも知れないが、千年後でもおかしくはないのだ。なるようにしかならない、それが魔女ダラニ・ダラの正直な見解であった。


「まあ何にせよ、ガルアムと揉めなきゃいいんだけどねえ」


 魔人同士で戦争なんてご免だよ。ダラニ・ダラはそうつぶやきながら、暗黒空間へと身を沈めて行った。

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