第7話 明治第一の哲学者大西祝は何を述べたか
大西祝(おおにしはじめ)という明治の哲学者で最も有名だという人の本を三冊読んだ。
この人は、天才バカボンの天才の赤ん坊「ハジメちゃん」の名前の由来の人である。
【第一巻・哲学篇】
大西祝は、「良心の快不快」について語る。
人の感情には、「良心の快と不快」があると述べる。
この主張は、日本国憲法に影響を与えた。
日本の最高裁判官は、良心に基づき判決を出すと定められた。
また、大西祝は、「哀しみの快」について述べている。
人の感情にある哀しみは、否定的な感情だけではなく、快楽でもあると述べている。
【第二巻・評論変】
大西祝は「日本に文学の名作なし」といった。
「我らに世界に誇るにたる大文学、大哲学、大宗教をみずから創始したことあるや」と述べた。
また、大西祝は、教育の目的と宗教の目的は異なり、明治政府の命令より、宇宙の神の命令を優先するキリスト教は、明治の教育の邪魔であると述べている。
大西祝は、道徳は時と場所によって異なると指摘した。
これは後に、西田幾多郎の「善の研究」の、善悪は、時代が変わると、善だとされていたものが悪だとされ、悪だとされていたものが善だとされる、という法学の思想に影響を与えた。
そして、大西祝は現実主義者であり、明治の時にすでに、天地の間のすべてを物質的に解明すべきという科学思想家でもあった。
【第三巻・倫理学篇】
明治の倫理学者も欲望を肯定している。
ぼくの解釈でいいなら、道徳とは欲望の調和である。
大西祝は、道徳を五段階に分ける。
直覚説。
形式説。
権力説。
自己的快楽説。
公衆的快楽説。
の五つである。
〇
直覚説は、善悪の判断を直観に任せる道徳である。
生理的感情、生理的好意や、生理的嫌悪によって判断する道徳である。
あまり歴史に詳しいわけではないが、おそらく、古代の巫女や道徳官による判断は直覚説である。
世間の常識を根拠に善悪を判断するのも、おそらくは直覚説である。
ぼくが重要だと思う直覚説の判断に、「勇の直覚」がある。
勇気を直覚で判断するのは、暴勇である。
勇気の直覚は、威張りたいだけなのだろう。
勇気の是非は、直覚ではなく、作戦によって決まるべきだ。
ぼくは、勇気の直覚より、作戦による勇気の方が強いと思う。
少し、話を脱線して、「約束についての哲学」を述べる。
約束を守ることは道徳だが、無条件でそれを支持することを大西祝はしない。
脅迫されて結んだ約束は、守らなくてよい。
約束の解釈は両者によって大きく異なることがあり、両者合意の約束でも必ずしも守らなくてよい。
気まぐれや遊びで結んだ約束は、どの程度守るべきかは意見が異なる。
これらは、明治の法学でもおそらくこうだったのである。
直覚説の話に戻る。
大西祝は、忠考を必ずしも善だとはしない。
忠孝は、明治においても、手放しで肯定された道徳ではなかった。
大西祝は、明治において、日本で王朝を転覆することを認めている。
革命は法律違反だが、道徳的に必ずしも悪だとされるものではないというのが大西祝の哲学だ。
そして、明治の知識人たちは、大西祝を明治を代表する哲学者に選んでいるのである。
〇
形式説は、カントの「道徳形而上学原論」のことをいってるようだ。
人々の共通の目的を道徳として、お互いの利益となるものを積み重ねていくのが道徳だとカントはいう。
まあ、道徳を明文化することによって、みんなが道徳について考える叩き台になるのでよいだろう。
〇
権力説の話に移る。
権力説とは、道徳の根拠がただ権力者の命令であるという説。
この場合、道徳説は服従説と呼ぶこともできる。
道徳が権力者の命令であるなどと指摘できる大西祝は恐ろしい人である。
ぼくが思うに、権力者の命令に従っていると、すぐに死んだり苦しんだりするので、個人は抵抗する。
この権力者への抵抗を道徳とすることもできるだろう。
若者が、道徳が嫌うことがあるのは、道徳を権力説だととらえて、命令に服従するものだという印象が強いためではないか。
道徳が嫌われるのは、権力説が嫌われているのであって、権力説でない道徳は嫌われていないのではないか。
カントも、大西祝も、みんなの快楽の増すものを道徳という。
ぼくは指摘したいのだが、みんなの快楽の増大を道徳とするなら、「飽きるという感情の研究」を進めると素晴らしい道徳が作られるのではないか。
また話を脱線する。
大西祝が読書について触れたので、読書について読んでる時に思いついたことを書く。
読書というものは、自分で意識して読んでいることの影響が大きいが、長年、読書した感覚では、「無意識が読書している」気がする。
意識にはのらなくても、無意識の読書によって賢くなってる気がするのだ。
おそらく、読書以外もそうだ。
〇
自己的快楽説の話に移る。
自己的快楽を目的とする道徳もある。
自己的快楽を増やすには、行動の選択がかなり難しくなるだろう。
自己的快楽を目的としても、人生の偶然によって不幸になり、厭世的になるものは多いという。
〇
公衆的快楽説の話に移る。
公衆的快楽の最大化は、利己的快楽の最大化より遥かに複雑なため、実行するのは困難である。
二人の幸福を最大化するとしても、二人の価値感は異なるのであり、この時点で快楽の計量者がそれを最大化することは難しい。
若者は、じいさんばあさんの価値観で、幸福を最大化されたくないだろう。
大西祝はいう。人は快楽の感情のみを求めているのではない。人は快楽でない感情を求めることもある。
だから、快楽主義は、大西祝によって論破されている。
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