紙とペンと図書室
富士山
紙とペンと図書室
「はいユリ、これ」
一人の少女がノートを鞄から取り出し、ユリと呼ばれた少女がそれを受け取る。
「ありがと。もう私の番かー」
「次エリカに回してね」
「オッケー」
交換日記とは懐かしいな、と恵は思った。
交換日記というものが流行りだしたのは、彼女が小学校三年生のころだった。
彼女自身はそれを書いたことはないし、読んだことも当然ない。親しい友達がいなかったからだ。
ある日のことだ。教室の掃除当番に当たっていた彼女は、学級文庫の本棚の上に置きっぱなしになっている一冊のノートを見つけた。
そっとノートを手に取ると、表紙にはカラフルなペンで「ひみつのこうかん日記」と書いてある。シールやイラストで可愛らしく彩られていて、しかし名前などは書かれていない。これが、女の子達がよく友達同士で回している「交換日記」たるもののようだ。
彼女は途方にくれた。中身を見ないと誰のものかわからないけれど、それはきっとあまりよくないだろうしーー。すると、
「見ちゃだめっ」
後ろにいつの間にか現れたクラスメイトの少女が勢いよくノートを奪った。
「…中、読んだ?」
少女の目は疑念で溢れていた。
「…ううん」
それだけ答えると、少女はノートを両手に持ってばたばたと駆けていった。
中身を読もうと思った訳では決してない、けれど。そこで繰り広げられているであろう少女達の密やかな会話に、彼女は思いを馳せた。その世界に自分はいない。その事実が心に苦く残って、なんだかやるせなかった。
あれから何年も経ち、恵は高校生になっていた。友人がいないのは相変わらずで、そんな恵の昼休みの日課は、専ら図書室で時間を潰すことになっていた。
「これ、すごく面白かったです」
「あら、それならよかった。」
カウンターで本を返し感想を伝えると、それを薦めてくれた司書がにっこり笑った。司書の小岩井とは、すっかり顔見知りだ。会釈をして、恵は図書室の奥のスペースに入っていく。
文字が読めないほど年季の入った書籍の集まるこのコーナーの一番奥が、恵が1ヶ月ほどかけて見つけた一人になれる場所であった。
一番上の棚、他の本より一際古びた本を何気なく手にとった。表紙にも何かしら文字はあるが、ほとんど剥げていて読めない。
ページが今にも取れそうなその本をパラパラめくっていると、中から一枚の紙が出てきた。
「?」
二つに折り畳まれた紙をゆっくりと広げると、そこには小柄な文字が並んでいた。
《こんな世界からバイバイして、本の世界に行けたらいいのに。 R》
不思議な衝動に駆られ、ポケットからペンを取り出し、分厚い本を下敷きに恵は書き出した。
《その気持ち、分かるよ。でもきっと、この世界も悪くないって信じてる。 恵》
再び紙を二つ折りにし、元の頁に挟みなおすと、本を棚にしまいなおした。
この1ヶ月、私以外にあの場所にいた人を見かけたことはないけれど…。不思議に思いながら、恵はあのメモの持ち主が自分のメモを読む瞬間をイメージした。高揚する心を感じながら、恵は図書室を後にした。
翌日。少しの緊張を含んだ手で本を開けると、紙には恵の書いた文字の下にさらに小柄な文字が続いていた。
《お返事ありがとう。もう少し頑張って生きてみる。 R》
恵はポケットからまたペンを取り出し、さらにその下に文字を書いていく。
《どういたしまして。私もお話できて楽しいよ。 恵》
まるで交換日記のようだ。幼い日の苦い記憶が塗り替えられていくようで、嬉しかった。
それから毎日のように恵は「R」と文字のやりとりをしていった。「R」は本名を「れいこ」ということ、本が大好きということ、将来は図書館に関する仕事をしたいということ。恵も小さな悩みごとや好きな本のジャンルなど、色々なことを文字で話した。
けれど夏が過ぎ秋になるころ、不思議に思うことが増えてきた。たとえば、お薦めの本を伝えても、「れいこ」はそんな本見つからないという。棚の場所まで教えているのに。そもそも彼女はいつこの場所で紙を開いているのか。わからないことは多いけれど、「れいこ」との会話は楽しい。それだけでよいのかも知れないと恵は思った。けれど、以降「交換日記」に新たな文字が紡がれることはなかった。
※
放課後、図書室閉室の時間。人気のない図書室はひどく落ち着いていて、司書という仕事の醍醐味はまさしくこの時間だと小岩井怜子は思う。
怜子には昔から友達がいなかった。現実世界にも、友達にも関心を持てなかった。けれど本の世界だけは彼女を惹き付けて止まなかった。そんな彼女の日課は専ら図書室に閉じこもることで、図書室のすべての本を読破することを目標にしていたぐらいだ。
本の中の世界は希望や情熱に満ちていて、自分もそこに行けたらいいのに、と思っていた。
そんな気持ちをなんとなく紙とペンに書いて本に挟んだら、ある日「恵」なる人物から返事が来た。驚いたけれど、その返事を読んでもう少し現実世界に期待を寄せることにした。「恵」とは色んな会話をして、夢を応援してもらって、それがとても嬉しかった。
あれから10年以上経ち、怜子は高校時代の夢を叶えて司書となった。母校の司書となれたことは、怜子にとってとても喜ばしいことで、あのころ達成できなかった全蔵書の読破にも挑戦している。
「懐かしいなあ、これ」
図書室の一番奥のスペース、本棚の一番上にその本は鎮座している。古い本に挟まれた、謎の少女との交換日記。
大学受験の失敗諸々でバタバタしているうちに記憶の奥底に眠っていたその交換日記は、10年以上経った今も同じ場所にあるのだった。少女の正体はわからずじまいで、けれどその交換日記があったから、怜子は現実世界で生きている。
怜子は古い本をそっと開き、二つの筆跡をゆっくりと視線でなぞった。
完
紙とペンと図書室 富士山 @amamiya_1221
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