第10話 憧れの彼

 悔しいが、彼女の中では『彼』の存在がとてつもなく大きく偉大なもののようだ。


 ―悔しい。彼女にとっての一番は、僕であってほしい。

 なのに、『彼』の存在が恋人の僕より大きいだなんて。

 嫉妬する必要はないということはわかっていても、嫉妬してしまう自分がいる。

 やきもちを妬いてしまう僕の気持ちを、果たして彼女は理解しているのだろうか。

 恐らく、理解してはいない、と思う。


 僕の一番は彼女だけなのにー。


 彼女の一番は僕であってほしいという想いが、強くなる。

 これは、独占欲とでもいうのだろうか。

 全く。どこまで僕をやきもきさせれば気が済むんだ。

 当の本人は、聞いてもいないのに何食わぬ顔で『彼』について笑顔で語っている。


「しげくんが、短編小説を出すみたいなんです!

 すごく楽しみで…早く発売日が来ないかなあ」


 恋人の僕には『さん付け』なのに、憧れの彼は『しげくん』と呼んでいるのか。

 悔しい。僕だって、ひろくん、とか、ひろとくん、って呼ばれたいのに。

 付き合って半年も経つけど、彼女はまだ僕のことを『さん付け』で呼ぶ。

 なかなか、愛称で呼んではくれない。

 彼女は、なかなか先へ進むことができない。前へ進むことを、躊躇っている。

 きっと、怖いのだろう。進んでしまったら、後戻りはできなくなる。

 だから、怖くて一歩を踏み出せない。

 彼女と僕の間に立ちはだかる、見えない厚い壁。


 どうしたら、どうしたらこの壁を壊せる?



 この壁さえ壊すことができたら、きっと僕と彼女はもっと深い絆で結ばれ、

 楽しい日々を過ごしていける。彼女に僕の隣でずっとずっと、笑っていてほしい。

 だから、どんな壁も壊してみせる。


「博人さん…?どうしたんですか?」

 黙って考え込んでいる僕を見て、彼女が心配そうに僕の顔を覗き込む。

 何でもないよ、と言おうとしたが、咄嗟に心の声が漏れてしまっていた。

「…なんでだよ」

 彼女は困った顔をした。

「…なんで佐藤重幸さとうしげゆきのことはしげくんって呼ぶのに、

 僕のことは博人さん、なんだよ」

「博人さん…」彼女は俯いた。

「なんで恋人の僕を『さん付け』で呼ぶんだよ」

 ひとたび想いが零れてしまえば、止まらなくなってしまう。

「僕だって、名前で…『くん付け』で呼んでほしいのに。しげくん、みたいにさ」

「博人さん…」

「…いいよ。嫌なら別に呼ばなくても」

「そ、そんな…」彼女の目は潤んでいた。

 ―大人げない。情けないな、僕は。こんな言い方しかできないなんて。

「佐藤重幸は、かっこいいもんな」

 彼女は目を丸くした。

「羨ましいよ、そんなにまでに心愛ちゃんをメロメロにできる佐藤重幸が」

「そんな…。私、確かにしげくんは大好きです。でも、私、」

「いいよ、もう言わなくて」


 ―素直に、なれない。


「違うんです、博人さん。私…!」

「もういい」

「博人さん…」彼女は、しょんぼりしていた。

 けれど僕は、見て見ぬふりをした。

「男の僕から見ても、かっこいいと思うよ。

 黒髪で、スタイルもよくて、イケメンだし頭も良い。真面目で優しいし」

 悔しいが、これは紛れもない事実。男の僕から見ても、かっこいいと思う。

 彼女が好きになる気持ちもわからなくはない。


 ―佐藤重幸。彼女が強く憧れる存在。

 彼は小説家、作家でありアイドルでもある。黒髪ですらっとした体型、端正な顔立ち。

 真面目で優しい、三十歳の好青年。

 二十代にしか見えない程の若々しい見た目をしている。

 彼女は少し年上の男が、好きなようだ。

 そういう僕も、彼女よりは6歳年上なのだけれど。


 聞いてみたい、彼女に。

 僕のどこが好きになったのか。

 僕が佐藤重幸に似ているから好きになったのだろうか。

 そうだとしたら、悲しい。

 実際、佐藤重幸に顔も性格も似ていると言われたことはあるが、

 自分ではそうは思っていない。


「佐藤重幸と僕に告白されたとしたら、心愛ちゃんはどっちを選ぶ?」

「…!」彼女は目に涙を溜めていた。

「博人さんに決まってるじゃないですかっ…!」

「いいの?僕で。佐藤重幸じゃなくてー」

「私、ひろくんがいいの。ひろくんじゃなきゃ、嫌」

「心愛ちゃん…?」


 ―今、なんて言った?


「ひろくんがいいの、私。ひろくんじゃなきゃ、嫌なの」

 彼女が、僕のことを、初めて『ひろくん』と呼んでくれた。

「しげくんは、私の手の届かない人だから」彼女が切ない顔で言った。

「だから僕を選んだのか?」

「違います…!」彼女は首を横に振った。

「僕の見た目の性格も佐藤重幸に似てるから好きになったのか?」

「違います…!そんなんじゃありません…!」

「それなら、僕のどこが好きなんだ?」僕は冷静さを失い、彼女に迫っていた。


 僕は彼女を壁に押し付け、彼女の両肩をがっしりと掴んだ。

「ひ、ひろくん…」彼女は驚いて僕の腕を掴んだ。

「ひろくん、やだ…こんなこと…」

「別にいいだろ、二人きりなんだし」僕はぶっきらぼうに言った。

「そうですね…二人きりなんですもの、恥ずかしがることなんて、ないんですよね…」

 彼女は恥ずかしそうに目を伏せた。

「でも…恥ずかしい」

「恥ずかしくなんかない」

「それでも、恥ずかしい」彼女は照れている。

 今、どんな状況かわかっているのか?

 全く。僕をどれだけー


「私ね、ひろくんの…あ、」

「ん?なんだよ。途中で止めないでくれよ」

「ご、ごめんなさい…私、ため口で話してましたよね…」

「ん?ああ、」

「気を付けます…」

「そういうの、いいから」

「えっ?」

「だから…敬語。半年も付き合ってるんだから、『さん付け』もなし。いいね?」

「でも…」彼女は躊躇った。

「別にいいよ?嫌なら」

「んんっ…」

 彼女が困った顔をする。それがまた、とてつもなく可愛い。

「わかった。ひろくん、あのね」

 彼女が一歩を踏み出した瞬間だった。

「ん?何?」

「もう、何笑ってるの?」

 僕は嬉しさのあまり、にやけていた、らしい。

「やだ、変なこと考えないで」

「考えてないよ。心外だな」

「ごめんなさ…ごめん」

「はは。慣れない?」

「うん。だってずっと敬語で話してたし…敬語がついつい出ちゃう」

「少しずつでいいよ」

 彼女は頷いた。


「あ、そういえばさっき、何か言いかけてなかった?」

「あ、そうそう!私が、ひろくんのどこが好きか、話そうと思って…」彼女は照れくさそうに言った。

「へぇ~」

「もう!なあに、その言い方。それに、そんなヤラしい目で見ないで!」

「酷いなあ。そんな目で見てないよ、僕は。ただ、心愛ちゃんの口からそんな言葉が出てくるとは思ってなくてさ。嬉しいよ」

「本当?」彼女は、疑いの目で僕を見ている。

「本当だよ」

「ほんとにほんと?」

「ほんとにほんと」

「ほんとにほんとにほんと?」

「うん、ほんとにほんとにほんと」

「ほんとに、ほんとにほんとにほんと?」


 こんなことをしていたら、きりがない。

 彼女は、疑い深いところがある。


「ほんとに、ほんとにほんとにほんと」

「よかった…」彼女は安堵した。

「あのね、私、ひろくんの優しいところが大好きなの」

「優しいところ?」

「うん」彼女はこくりと頷いた。

「あとは?」

「えっ?」

「あとはないの?」

「あとは…」


 ―ないのか。僕の優しいところだけか。


 僕は、僕は心愛ちゃんの大好きなところ、たくさん挙げられるのに。

 彼女は、僕のことをそんなに好きではないのかもしれない。

 実際、先に好きになったのは僕の方だし…。

 こんなに好きなのは僕だけでー

「ひろくんは、とても頭が良くてかっこいい」

「そんなこと…ないよ」

 嬉しかった。すごく嬉しかった。

 彼女にかっこいいと言われて、僕は舞い上がった。

「もう…またにやけてる」

「いいだろ?…にやけて何が悪い?」

 僕は彼女の頬を撫でた。

「んっ…もう…」彼女は照れていた。

「ひろくん、とても頭が良くていろいろなことを知ってて、すごいなあって思うの」

「そうかな?」

「うん」

「あとは?」

「あとは…」いちいち言葉に詰まる彼女。

「うーんとね」

 すぐに言えないのか?と言いたくなったが、我慢した。

 彼女の悲しい顔は、見たくない。

「ごめん…すぐに言えなくて」彼女は俯いた。

 恐らく、いらいらが顔に出ていたのだろう。

 そんなことを言わせてしまった僕は、本当に愚かだ。

「ひろくんが素敵すぎて…好きなところがたくさんあって、

 すぐに言葉にできなくて…ごめん」彼女は、申し訳なさそうに言った。

「こっちこそ…ごめん」僕は彼女を抱き締めた。

「ううん、いいの。すぐに言えない私が悪いの」

「心愛ちゃんは何も悪くない。悪いのは、待ちきれなかった僕だ」

「いいえ、私が悪いの」

「いや、僕だ」

「いいえ、私が」

 僕はぷっ、と笑った。彼女は目を丸くしていたが、すぐに笑い出した。

「ふふふ」

「僕たち、また譲り合いしてるね」

「そうだね。ふふっ」

「心愛ちゃんは、ゆっくりでいいんだ。心愛ちゃんのペースで、

 ゆっくりでいいから、聞かせて。心愛ちゃんの、僕の好きなところ」

「うん、ありがとう、ひろくん」

 彼女は一呼吸置いてから、語り始めた。


「ひろくんは、イケメンですごくかっこよくて」

「なるほど?」

「しげくんみたいに…」

「重幸にそんなに似てる?」

「うん。結構、似てる」

「そうかな?…って、もしかして、見た目が重幸に似てるから好きになった、

 ってわけじゃないよな?」

「違うよ。そんなんじゃない」

「よかった」

「真面目でとても優しくて…」

「そこも似てると」


「うーん、確かに似てるけど…シゲくんにはシゲくんの良さがあって、

 ひろくんにはひろくんの良さがあるの」

「はあ…結局僕は、重幸には勝てないんだな」僕は溜息をついた。

「違うの、そうじゃなくて」

「いいんだよ、もう」

「ひろくん、怒ってる?」

「怒ってないよ」

「ううん、怒ってる」

「怒ってないって」

「お願い…怒らないで」彼女は僕の手を握った。

「怒ってない」僕は彼女の手を握り返した。

「本当に?」

「うん」

「あのね、ひろくんはとっても逞しくて…ほら、こんなに…」

 彼女は僕の腕に触れて言った。

「ひろくんに抱き締められると、すごくどきどきするの。男の人を感じちゃう…」

「僕を誘ってるのか」

「…?」彼女は首を傾げた。

 僕の言っている意味が、理解できていないようだ。

「ひろくん…?それって、どういうこと…?」

「…こういうこと」

 僕は彼女を再び壁に押し付け、彼女の頬に両手を添え、唇を強く吸った。

「んっ…」彼女は僕から逃れようと身をよじったが、僕は彼女を離さなかった。

「もうっ…ひろくんったら」彼女は、自分の唇を指で押さえた。

「…僕を誘惑した心愛ちゃんが悪い」

「そんな…私、そんなことしてない」

 拗ねた彼女も、可愛い。彼女には『可愛い』が溢れている。


「ほーら、続き。心愛ちゃんが思う、僕の好きなところ」

「あっ…うん。ひろくん、優しいけど意地悪なところがあるでしょ?

 そこも、好き。でも、意地悪ばかりしちゃ嫌。」

「…わかったよ。ほどほどにする」僕は彼女の髪を撫でた。

 彼女は気持ちよさそうに目を細めた。

「結論。私は、ひろくんの全てがだーいすき。」

「…困ったな」

「えっ…?」彼女は戸惑った。

「…理性を崩した心愛ちゃんが悪い」

「えっ?ちょっと待っー」

 僕は彼女の唇を塞いだ。優しく、強くー。

「んう、もうっ…!ひろくん、キスばっかり…」

「…僕がキス魔だってこと、忘れてた?」

「うん…」

「忘れないように、何回もしなきゃだめだな」

「もう今日はだめ…!今日はもうこれ以上、だめ」

「なんで?」

「だって…。わかるでしょ?もう、ひろくんの意地悪」

「ごめんごめん。…今日はこれくらいにしとく」

「うん、そうして」


 ―やっぱり、我慢できない。


「…いや、前言撤回。我慢できない」

 僕は再び、彼女の唇を吸った。彼女に聞こえるように、わざとリップ音を響かせながら。

 彼女の顔は、既に真っ赤に染まっていた。



    

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