第8話 アイリーン・アドラー

 ホームズと向かい合って座るワトソンは、がっくりと肩を落としている。

「どうしたんだ、元気がないな」

 いつもと変わらない声でホームズが煙草の煙を吐き出した。ワトソンは、丸い輪になって天井に上るそれを見送る。


「ホームズ、きみは……」

 よく見ると複眼の中からも煙が立ち上っている。思わず笑いそうになったワトソンは慌てて表情を引き締めた。

「きみは殺人鬼なのか」


「難しい質問だな。それは」

 ホームズは脚を組み替えた。

「事件が起きた夜に限って、頭脳の中の行動記録が残っていない事を鑑みれば否定はできない。だが、ぼく自身に殺人を犯す理由がないから、肯定もしづらいな」


「犯罪を犯す動機がないのだな。ホームズには」

「ああ。機械だからもないがね」

 いや、そんな冗談を聞きたかったのじゃない。


「だが真犯人を見つけなければ、君が逮捕されるぞ。いくらあのドイルという刑事が鈍くても、いつかは気づくだろう」

「そうだろうね。だが、まずはお客さんだ。ちょっと話を聞こうじゃないか」


 ☆


 ハドソンさんに案内されて部屋に入ってきたのは、すらりとした女性だった。センスのいいドレスに、今年流行しているらしい形の帽子を頭に載せている。

 なにより印象的なのは、大きな理知的な瞳だった。

 ワトソンはその美しさに言葉を失った。


 ソファに腰掛けたその女性は、顔を伏せ肩を震わせはじめた。


「どうなさったのです、お嬢さん」

 目一杯、紳士的な声でワトソンが声をかける。

「ご心配ごとがおありなら、このワトソンが聞きますぞ」


「それは…ありがとうございます。でも……」

 苦しそうにワトソンに答えた彼女は、不意に顔をあげ爆笑しはじめた。

「あははは、さすがホームズ。見事な腕前よね」

 ワトソンは再び唖然とする他なかった。


 憮然とした表情でホームズは煙草をふかす。どうやらホームズは複眼の向きで表情を変えているらしい事にワトソンは気づいた。

 その女性は顔をホームズに近づけて、にこりと笑った。


「あなたなんでしょ、連続殺人犯というのは?」

 悪魔のような微笑みだった。


 ☆


「ホームズ、この人を知っているのか?」

「君はあまり関わり合いにならない方がいいよ、ワトソンくん」

 なぜか、ハドソンさんまで頷いている。


「失礼ね、人を疫病神みたいに。申し遅れました、私アイリーン・アドラーと申します。ホームズの『元妻』です」

 彼女は凄艶に微笑むと、ワトソンに向かい会釈した。


 妻って、ホームズは機械じゃないか?


「違うよワトソンくん。妻じゃなくて、元、妻だからね」

 ホームズ、わたしが突っ込みたいのはそこじゃない。


 ☆


「彼女とは、いわゆる学生結婚でね」

 ホームズがしんみりとした口調で語りはじめた。

「実に多くの男が、この女の美貌にだまされたものさ。ま、ぼくもその一人だけれどね」

「やだ、恥ずかしい」

 ホームズと彼女は二人して屈託なく笑っている。ワトソンは曖昧に頷いた。


「それで」

 ワトソンはぶっきらぼうに言った。

「それから、ぼくたちの甘々キャンパスライフが始まった訳だけれど……」

 ワトソンは右手をホームズの顔の前に広げた。

「その話は、今聞かなきゃならないのか、ホームズ」


「そう怒るな、ワトソンくん。この話をしなければ、彼女の機嫌が悪くなるのだよ。そうなったら、必要な情報も手に入らないだろう?」

「うむ。それは確かに困るけれど」


 どうやら、このアイリーン・アドラーという女性は情報収集の専門家のようだった。それもどうやら、政府機関の。


 ワトソンがそれを教えてもらったのは、たっぷり一時間ほども二人の惚気のろけ話を聞かされた後だった。


「で、真実はいったいどうなんだ。ホームズ」

 うんざりした表情でワトソンは続きを促した。


 ホームズの複眼がキラリと光る。


「決まっているだろう。真実はいつも……」

 ホームズはそう言って人差し指を立てると、片方の複眼をつむった。



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