紙とペンと喫茶店

宮崎ゆうき

紙とペンと喫茶店

 微睡む午後の喫茶店。ソファーに座る僕らは何も話さない。

 高く昇った、昼の太陽はキラキラと世界を照らしている。窓から差し込む日の光もまた、僕らのテーブルの上で、ちらちらと舞う埃を輝かせていた。

 僕は、そんな埃がとても綺麗で清潔なものに思えてしまう。僕もこの光に照らされれば誰かに美しいと思ってもらえるのだろうか。例えば目の前の彼女とかに――。

 

 テーブルに置かれた、二つのホットコーヒー。君と僕のホットコーヒーのはずなのに、なぜだろう。二人ともそれを飲もうとはしなかった。飲んだって良い。そのはずなのに、僕らはただただ無言のまま座り続けていた。変な空気がホットコーヒーの湯気を歪な形にしていた。それを芸術的と言えばそうなのかもしれないが、僕には歪な汚い形としか思えなかった。


 僕は彼女の顔を盗み見る。彼女はただただ、窓の外を眺めていた。目の前のホットコーヒーや埃や僕なんか、これっぽちも興味がないと言う風に。

 試しに声を出してみようか、思いかけて僕はとまる。彼女の前では喉にボールが詰まったみたいに声を出す隙間すら無いような気がした。きっと思い切ってコーヒーを飲んでみても、溢れてぼたぼたと口から零れてしまうだろう。


 僕はもう何もかもめんどくさくなって目を瞑ってみる。そこで初めて、たくさんの音に包まれていたことに気付いた。

 食器がこすれる音は、きっとマスターが片づけをしていて、フォークとお皿がこすれる音は後ろに座っている、老紳士のナポリタンだ。

 遠くの方からは、主婦たちのお昼の井戸端会議らしい声が聞こえてくる。

 開閉されるドアはカラン、コロンと陽気にのんびりと自分のペースで鳴っているように思えた。「でも、その音は君のペースで鳴っているのではないよ」と心の中で言ってみる。すると、またカラン、コロンという音が聞こえて少しだけ楽しくなった。


 瞼を閉じた世界は日の光に照らされて、黒色と言うよりはオレンジ色に近い色で平面的に広がっていた。子供の頃の夕方の風景を何故か思い出して、懐かしくなる。あの頃は何も考えずに、走り回っていた。息が切れても楽しかった。苦しいはずなのに楽しかったのだ。今ではそれが正反対になっている。目を開けると彼女はまだ窓を見ているだろうか。それとも、すでに何処かへ行ってしまったんじゃないだろうか。さっきのカラン、コロンはもしかすると――。いろいろな想像が巡り巡って、いつの間にか僕の中から音が消えた。

 

 視覚も聴覚も失った僕は次に世界の匂いに気付く。テーブルの上で湯気を立てるコーヒーの匂いや木や埃の匂い、彼女の甘い香水の匂いが綺麗に混ざって一つの世界を作り出していた。そこで、僕は彼女がまだいることに気付く。良かったと僕は胸を撫でおろし瞼を上げた。

 

 彼女がこちらを見つめている。吸い込まれそうなくらい黒く大きな瞳は艶々と光を反射させ、まるで宝石のようだ。彼女は軽く微笑むとテーブルを指でトントン叩いてみせた。僕は彼女から彼女の指先へと視線を移す。そこには真白な紙とペンが置かれていた。僕が目をつぶっていた内に取り出したのだろうか。まあそんな事はどうだってよくて、その二つが何を意味するのか僕にはわからなかった。


 僕は分からないと言う風に首を横に振って見せる。


 彼女はそんな僕を見て悲しそうな顔をし、テーブルの上に置かれたペンを握った。そして、真白な紙に何かを書き始めた。

 ペンから出る真黒なインクは紙に綺麗な曲線や直線を描いていく。まるで、魔法の様で僕は目の前の彼女が魔法使いのように思えてならなかった。何を書いているのだろう。そんな疑問のような好奇心のようなモノがお腹から溢れる。字でないことは明白で何かの絵を描いているのは確かだ。でも彼女が何を書いているのかはいまいち分からない。ただ、それでも彼女の動かすペンはまるで動物のように生き生きと踊るようにインクを吐き出し、何かを描いている。紙もまた、動物のように生き生きとして見えた。


 この中で僕だけが死んでいるように思えた。


 彼女が書き終わるのにどれだけの時間がかかったのだろう。僕はいつのまにか寝てしまっていたし、起きた頃には窓の外は暗くなっていた。

 何かを書き終えた彼女はまた窓の外を眺めている。

 

 喫茶店はいつの間にかBARに姿を変え、色んな人たちにお酒を提供していた。

 彼女の絵はどこに行ったのだろう。そう思って僕はテーブルの上を隅々まで見てみる。しかし、紙とペンなんて一つも無くて、昼間おいてあったホットコーヒーだけが、ウィスキーに姿を変えて二つ並んでいた。

 

 僕は眠気覚ましにウィスキーを口に運ぶ。アルコールが僕の喉をじんわりと熱くさせた。

 なぜ彼女はずっと窓の外を見るのだろう。そう言えば、ぼくがここに座ってから一度も窓の外をまともに見ていない。僕も彼女のように窓の方に視線を向ける。真っ暗だと思っていた世界は、月の光でふんわりと青白くなっている。いつだって僕らの世界には光があるんだなと思った。

 窓の外に広がる星空は手を伸ばせば掴めてしまいそうなほどだった。僕らの世界は喫茶店でありBARで完結する。彼女が窓を眺める理由がその時やっと分かった。

 

 窓の外に広がる、星で出来た草原に、年配の男が一人大きな網を携えて立っていた。何故かチョコレートを食べたくなって僕は、マスターに左手を上げて注文する。

 彼女がくすくすと笑う。

 一緒に食べようと僕はチョコレートが盛られた小さなお皿を、彼女の前に差し出す。彼女は溶けてしまいそうな美しい笑顔を向けてチョコレートを一つ口に放り込んだ。

 

「君の書いた絵を見せてくれないか」と言えない僕は本当に臆病でだらしない。だけど、生きているような気がした。チョコレートを食べてウィスキーを飲んで彼女と同じ星の草原を見つめ、命が戻ったきがしたのだ。

 

 だから僕は生れて初めての言葉を君に、ありったけの感謝をこめて言った。


「紙とペンをかしてくれませんか?」







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紙とペンと喫茶店 宮崎ゆうき @sanosakasa

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