祝婚歌
Nico
Side A Track 1
夕日の差し込む職員室には、香夏子が答案に丸を描く音と、建て付けの悪い窓が風に震える音が聞こえている。
シュ、シュ、カタカタ。シュ、シュ、カタカタ。
田村君、八十九点。
「お先に失礼しまーす」という間延びした挨拶を残して、同僚の教師が帰路に着く。
「はい、お疲れさん」と教頭の声が答える。
教頭、まだいたのか。
見れば、東急ハンズで買ったという「?」みたいな形のツボ押し器具で肩甲骨の下をマッサージしながら、窓の外を眺めている。マッサージなら家に帰ってやればいいのに、と思うが、数日前に奥さんとケンカをしたらしい、という噂を早紀から聞いたのを思い出した。それを聞いた香夏子は、あの歳になっても奥さんとケンカをするのか、と感心したものだ。
「結婚も二十年も経てば、妻なんて空気みたいなものだよ」と教頭は常々軽口をたたいていたが、それが本心ではないことは誰が見ても明らかだった。空気とケンカをする人間はいない。
一度閉じられた扉がすぐに開き、早紀が姿を見せる。
「川野先生、合唱部は今年はどうですかな?」
早紀がまだ扉も閉め切らないうちに、マッサージを続けたまま教頭が尋ねる。
「おかげさまで、順調です」
「そうですか」と教頭は相好を崩した。
早紀が受け持つ合唱部は部員が二十人を超える大所帯で、昨年度の県大会では準優勝という輝かしい記録を残していた。それだけに先生方の期待も大きい。教頭の「今年はどうか」という問いも、それを如実に示している。
香夏子の隣の席に腰を下ろすと、早紀はため息をついた。
「あの様子だと、まだ仲直りしてないみたいね」
早紀も香夏子と同じことを考えているらしかった。
「部活は終わったの?」
「いま休憩中」
そう言って、デスクの上に置いてあったペットボトルのお茶に手を伸ばす。香夏子がチョコレートを差し出すと、それも一つ指で摘んだ。
「合唱部は大変ね。みんなの期待の的だから」
「なまじ、賞なんて取ったもんだからね」と早紀は去年の成績をそう表現した。続けて「でも、みんな歌が好きだから」と言い、香夏子の机の上にある英語のテストの答案を人差し指で叩いた。
「英語が嫌いな子に、英語を教えるよりは断然楽よ」
「違いないわね」と香夏子も笑った。
歌は順位を競うものではない、というのは酔った時の早紀の口癖で、数日前に同僚何人かと仕事帰りに飲んだ時も、同じ趣旨のことを言っていた。
――私は百人に「上手いね」って言われるよりも、下手でも一人の人間の魂を揺さぶるような歌をみんなに歌ってほしいわけ
「式の準備は進んでるの?」
「週末は式場通いよ」
「いいわねー」と早紀が羨む。「私も誰かいい人見つけたいわ」
「早紀みたいに綺麗で歌が上手ければ、いい男だって見つかるでしょ?」
「歌が上手ければ男が寄ってくるってのは、ディズニー映画の中だけよ」と早紀は言う。
そこで教頭が、やおら立ち上がった。鞄を机の上に載せたところを見ると、どうやら帰る決心をしたらしい。香夏子はあることを思いつく。
「そう言えば、あそこ行ったことある?」
その質問は隣の早紀に向けられたものだが、声は窓際の教頭まで届いてるはずだ。
「どこ?」
「JRの改札前にできたケーキ屋」
「改札の前にあるのって、惣菜屋じゃなかったっけ?」
「そこがつい何日か前にケーキ屋に変わったのよ。試しに昨日買ってみたんだけど、それがおいしいのよ。特にモンブランが絶品」
「へぇー、あたしも帰りに寄ってみようかな」
「そうしなよ。絶対、気に入るから」
言いながら、教頭の様子を伺う。特に何かを出すわけでも、入れるわけでもなく、ただ鞄の中の書類を
「女性だったら、誰でもケーキは好きよね。嫌なことあっても、ケーキ食べたら忘れちゃうもの」
香夏子と早紀は二人で目を合わせ、ニヤニヤしながら教頭の様子を伺った。教頭は咳払いを一つすると、「お疲れさん」という決め台詞を残して職員室を出ていく。
足音が聞こえなくなってから、二人は声を出して笑った。
「私たちって、上司思いね」
「教頭、買いに行くかしら?」
「私の予想だと行くわね、あれは」
「仲直りできたら、私たちにも還元してほしいわ」
二人で一頻り笑いあった後、早紀は「そろそろ行かなきゃ」と言って、腰を上げた。
「頑張ってね」と声をかける。
「おう、今年は優勝いただくわよ!」と威勢の良い掛け声を上げる。
歌は順位を競うものじゃないんじゃなかったっけ? と、香夏子は心の中で突っ込む。
早紀がいなくなり、職員室には風に揺れる窓の音だけが残った。香夏子は再び答案に目を落とす。
カタカタ、シュ、シュ。カタカタ、シュ、シュ。
西川君、四十三点。
そうだ、私も帰りがけにあのモンブランを買っていこう、と香夏子は思う。
伸びと一緒に、あくびが一つ出た。
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