最悪の悲劇【ミステリー】


 最悪の悲劇は突然やってくる、なんて言うが、「そりゃそうだろう」と思う。


 だって事前に判っていたら、対策をとる。


 対策をとれれば、『最悪』は避けられるだろう?




 避けられる筈だ。






 残業を終え、深夜遅くに帰って来た俺は、燃える我が家を無言で見上げる。


「……あ…あの。剛は……父や、母は……」


 我に返って、先程から何やら話しかけてきている近所のおじさんに、つっかえながら問いかけた。


「皆逃げて、逃げていますよね……?」


 確認するように訊くと、おじさんは「いや、それが」と顔を曇らせる。


「弟の剛君は逃げるには逃げられたみたいなんだが、どうやら彼が、火をつけたようなんだ」


 さっき警察に連れて行かれたと、声をつまらせた。


「それから、ご両親はどうやら……」


「どういう事なんですかッ!」


 声を荒げた俺に、「私もよくは判らない」とおじさんは慌てて首を横に振る。


「あ、すみません……」


 おじさんに罪はない。これは八つ当たりだ。


 謝れば、「警察が君を捜していたよ」と教えてくれた。


 今更ながら携帯を見れば、着信が何件か入っている。


 剛から4件。見知らぬ番号から5件。


 どうやら見知らぬ番号は、警察からのようだ。


「いつもサイレントモードにしてるから、気付かなかったんだ……」


 ――こんな時間に電話してくる奴がいるなんて、思いもしなかったし。


 独り言のように呟く。


 もう1度家を見上げれば、消防隊員の懸命な消火により、俺の家だけで火は食い止められたようだった。


「近所の家に燃え移らなくて良かった」


 微かな声で言うと、隣からはおじさんの哀れむような視線が向けられる。


 何も言葉が出て来なくて、おじさんに頭を下げて近くにいる警察官へと声をかけた。


「すみません。この家の住人です」


 一瞬目を見開いた警官は、「大丈夫ですか」と支えるように俺の腕を掴んだ。




 警察の話によると、剛が両親を刺し殺し、家に火をつけたのだと言う。


「ご両親に対して、以前から憎しみが芽生えていたとの事なんですが……」


 お心当たりありますか、と確認された。


「剛が就職に失敗して引き篭るようになって、両親はそれを心配していました」


 将来について、言い争う事も確かにありましたけど……。


 でもこんな、と首を振った俺に、「最近何か、前触れのような事はありませんでしたか」と警察は質問を重ねた。


「弟がこの前、俺になるべく早く帰ってきてくれって言ってきました。理由を聞いても、何も言わなかったんですけど……。ですが俺も、年末で仕事の方も忙しくて……」


 どうしようもなかったんです、と頭を抱える。


「あ、それと」


 顔を上げた俺は、声を落とした。


「飼ってた犬が……もう老犬だったんですけど。2週間前突然姿を消しました。いなくなってから数日後に、川で死体で見つかって……」


「そうですか。それももしかしたらですが、弟さんが関係しているかもしれませんね」


 何やら書き込んで、警察は声を和らげる。


「どこか、泊まれる場所はありますか?」


「ええ。彼女の所に……」


 弟には会えますか、と尋ねれば、「すみませんが」と断られた。


「ジョンの時に、その重大さに気付いていれば」


 ジョン? と訊き返して犬の事だと気付いた警察は、「ああいや、まだ判りませんが」とその関連性については濁した。


「ご迷惑をおかけします」


 頭を下げて、警察署を後にした時は、もう夜明け近かった。





 ――ジョンを知らないか?



 あの夜。


 剛の部屋のドアを開け訊いた俺に、弟は椅子を回転させて振り返った。


「知らないよ」


 メガネを押し上げた手の袖口に、茶色い毛がたくさん付いていた。


「父さん、母さん! ジョン見なかった?」


 慌てて階段を駆け下り、リビングにいた両親にも尋ねた。


「は? 何を言ってる! 老いぼれ犬の事なんて今はどうだっていいだろう!」


「そんな事より、お父さんとも話し合ってたんだけど、剛をどうにかしないと! 近所でも噂になってて恥ずかしいわッ」




 どうだっていい?


 そんな事より?




 2人がそう言った命が、何より大事な事を教えようとしていたのだ。


 その事に2人が気付いていたら、こんな結末にはならなかった。




「兄さん、なるべく早く帰ってきてくれない? じゃないと、そのうち俺……」




 俺が子供の頃から可愛がっていたジョンの命の重さを、剛も気付く事さえできていたなら――。






「ああ、明美? 悪いな、こんな時間に押しかける事になってしまって。……ありがとう。そうだな。そこはまだ良かったよ。お前の家にパソコンや着替えを幾つか置いておいて」


 俺の代わりに泣きじゃくる、電話の向こうの恋人を慰める。






 最悪の悲劇は、突然やってくる。




 そうだな。そうさ。

 だからきっと、きっとこれは――。






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