8.課題


「おーい」


 体を揺さぶられ、夏希は目を覚ます。そばには千春が立っていた。

 昼食後も居間の座椅子に腰かけて本を読んでいたが、いつの間にか眠ってしまっていたようだった。


「ああ、西城さん。今何時?」


 と、夏希が訊くと、


「三時くらい」


 と、千春が答える。


「めずらしかね、読書中に寝落ちとか」

「西城さんの病気がうつったのかな」

「は? 病気とかなかし」

「それでどうしたの? おやつでも作れって?」

「部屋に来て」


 端的に命じて、千春が居間を出ていく。夏希はシアターラックから流れっぱなしになっていた音楽を消し、彼女のあとを追った。


「もしかして、まだ課題やってたりする?」


 部屋に入り、夏希が質問する。

 彼女の机を見ると、午前中に見たワークの山はほとんど減っていなかった。


「もう死にそう」


 千春は無表情のまま泣き言をこぼし、ばたりとベッドに倒れ込んだ。

 机上には数学のノートが開かれていたが、ほぼ真っ白だった。かろうじて、端っこの方に『やばー』だとか『あー』だとか、あとは犬なんだかパンダなんだか分からないイラストが落書きされているだけだった。


「進捗はなんパーセントくらい?」

「三割六分三厘」

「凄い。野球なら首位打者だ」

「待って。やっぱ二割一分六厘」

「え、なぜ下げる」

「全然進んでなかって言いよぉと」

「それはまあ分かるけど。本当にやってたの?」

「解けるわけなくない? 私いつも寝とぉとに」

「今になってそんな事実に気づかれても」

「くそが」


 荒っぽく寝返りを打つ千春。

 寝巻きのまま着替えていないから、ベッドの上にいる方が様になっていた。


「俺のを写させてほしいってわけじゃないのか」

「絶対見せてくれんじゃん」

「ノートなら貸してもいいけど」

「もう一声」

「ノートなら貸してあげてもいいけど」

「くそが」

「ほら、ぶっ倒れてても終わんないよ」


 横になっている千春の腕を引っ張り、ゆっくりと立ち上がらせる。華奢な見た目通りの軽さで、容易に机に向かわせることができた。


「座ってても終わらんけどね」


 千春はやる気の感じられない声を出す。


「東江君、なんかやる気が出るようなこと言って」

「気合いだ気合いだ気合いだ」

「似てない」

「ものまねしたつもりじゃなかったけど」

「お互い、不器用だと辛かね」

「俺は、西城さんほどじゃない」

「どうかな」


 夏希は押し黙る。

 千春は腕枕を作り、気だるそうに顔を伏せた。


「俺、ちょっと電話してくるから」


 と、夏希が切り出す。

 千春は「誰に?」と訊いてきたが、夏希は構わず廊下に出て、自室へと向かった。

 スマホを取り出し、連作先一覧から『川田利乃』を選択し、通話をタップした。

 利乃は中々、電話に出なかった。

 長い呼び出し音が耳朶で響いたのち、ようやく繋がった。


『もしもし、東江君?』


 利乃の声が、少しだけ聞き取りづらかった。


「川田さん。今、大丈夫? なんか騒がしいけど」

『あ、うん。ゲーセンにいるから。あんまりうるさくないとこまで移動してきたんだけど』

「あ、ごめん。遊んでたんだ」

『うん。健太と、田上先輩とね』


 夏希は一瞬、返答に窮した。


「川田さん、断ったんじゃなかったの?」

『最初はね。どうせあたしはおまけだろうって思って』

「じゃあ、どうして」

『昼過ぎだったかな、ハルちゃんとラインしててね』


 ハルちゃんとは千春のことだ。四月も終わり始めた頃、クラスメイトの女子からはそう呼ばれるようになっていた。


『ハルちゃん、課題でカンヅメなんだってね』

「まあ、自業自得というか」

『ハルちゃんも言ってた。身から出た鯖って』

「錆じゃない?」

『原文ママなんだけど』


 夏希は笑みをこぼした。利乃も電話の向こう側で笑っているようだった。


『それでね、ゴールデンウィーク最終日なのに、お互い遊びに行けないの辛いねって話になって』

「川田さんは、予定なかったの?」

『うん。だから、ちょっと考え直して。どうせ暇だから、遊びに行ってあげてもいいかなって』


 利乃の声は満更でもなさそうだった。夏希は密かに胸を撫で下ろした。


『東江君は、用事あるって聞いたけど』

「ごめん、川田さん」

『え?』

「健太に、川田さんも誘ってみたらって言ったの、俺なんだ」


 利乃が沈黙する。しばらく、ゲーセンの音だけが聞こえた。

 ほどなくして、『そっか』と、彼女の声がこぼれた。


『もしかして、それ言うために?』

「迷惑だった?」

『ううん。ありがとね。おかげで』


 少し、利乃が言葉に詰まる。


『なんでもない。じゃあまた部活でね』

「うん、また」


 電話が切れる。夏希は長い溜め息をついた。

 ふとドアの方を見ると、わずかに開いた隙間から千春がのぞき込んでいた。


「バレてるよ」

「あっそ」


 堂々と、千春がドアを開けて入ってくる。


「ねえ、東江君」

「なに?」

「やっぱり、写させてくれん?」


 彼女は気だるげな面持ちのまま、両の手のひらを広げた。

 夏希は天を仰いだ。それから、スクールバッグに入れておいたワークの束を取り出し、彼女に手渡す。


「今日だけだから」

「はいはい」


 千春は得意げに笑ってみせる。

 今日一番の笑顔に、夏希は小さく肩を落として苦笑した。


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