5.もがみ荘


 ゴールデンウィーク最終日の朝。

 自室のベッドで寝ていた夏希は、スマホの着信に気づいて目を覚ました。

 画面を見ると、下宿の管理人である【西城さいじょう紗英さえ】の名が表示されていた。


『もしもし、まだ寝てたかしら?』


 通話ボタンに触れて耳に近づけると、紗英のおしとやかな声音が聞こえてくる。

 夏希はゆっくりと上体を起こしながら、


「この電話で起こされました」

『あら、そうなの? おはよう』

「おはようございます」

『今日もね、帰れないの。たぶん明日も』


 申し訳なさそう声の紗英。

 ゴールデンウィーク中、彼女は一度たりともこの下宿『もがみ荘』には帰ってこなかった。


「ということは、あさっては帰ってきますか?」

『うーん、ちょっと分かんないかなぁ』

「そうですか。昨日まではマサ君のとこでしたっけ。今日はタキさんですか?」

『タキさんは明日。今日はユキ君、いえ、ヤマちゃんだったかしら? あ、今日がタキさんだったかも?』


 次々と出てくる男性の名前。

 夏希は大きな溜め息をついた。


「紗英さんももう三十路なんですから、そろそろ色々とわきまえた方が」

『あら、嫉妬してくれてるの?』

「違います」

『残念。でも、私がいない方が、夏希君的にもいいんじゃないかしら』


 夏希は首を傾げる。


「どういう意味ですか?」

『ほら、なんて言ったっけ。ビンビンな関係?』

「ウィンウィンのことですか?」

『あ、そうそう。惜しいなぁ』


 お茶目に言って、微笑みまじりの吐息をこぼす紗英。


「で、なにがウィンウィンなんですか?」


 と、夏希は改めて訊ねたが、


『あら、ちょっとごめんなさい』


 しばらくして、紗英が通話を切った。

 夏希はスマホを枕に投げつけ、ベッドから下りる。寝巻きの上から薄いパーカーを羽織り、ふたたびスマホを手に取ってから自室を出た。

 この『もがみ荘』は木造二階建ての下宿で、夏希や千春の部屋は二階にある。

 台所や食堂、洗面所や風呂場などはすべて共用で一階にしかない。トイレだけは二階にも一つ存在するが、夏希はなるべく一階のトイレだけを使用するようにしている。


 一階に下りた夏希は、ひとまず顔洗いだけ済ませたあと、台所へ行って朝食の準備に取りかかった。

 もがみ荘の朝食はパンであることが多い。前日に最寄りのパン屋で買った、甘いパンと辛いパンを一つずつ。これは夏希と千春の間で共通している習慣の一つだった。

 夏希は買いもの袋の中から、包装されたジャムパンとウィンナーロールをそれぞれ取り出し、食堂のテーブルに置く。

 その後、冷蔵庫からコーヒー粉の入った瓶、食器棚からカップを一つ取り出したが、夏希は少しだけ考えたのち、スマホで千春に電話をかけた。

 長い呼び出し音が鳴ったのち、


『んぅ?』


 と、千春の寝ぼけているような声が耳朶でそばだつ。

 夏希は控えめな声で「おはよう」と挨拶してから、


「コーヒー、入れるけど」

『何時?』


 夏希は台所にあった掛け時計を確認した。


「八時二十三分」

『え、はや』

「俺もさっき、紗英さんに起こされたんだ」

『え、帰ってきとらすと?』

「いや、今日は帰ってこないっていうモーニングコールで」

『あーね』


 と、千春は適当に相槌を打ったのち、


『もう起きるけん』


 返事を待つことなく電話を切った。

 夏希はスマホをポケットにしまってから、食器棚にあるもう一つのカップを取り出した。

 二人分のインスタントコーヒーを入れ終わった頃、寝巻き姿のままの千春が台所までやってきた。爆発事故にでも巻き込まれたのかというほど酷い寝癖をしていた。


「おはよう」


 と、夏希が声をかけると、


「さっきも聞いた」


 千春は毒づくように言って、食堂のテーブルに着いた。

 夏希は千春のコーヒーに少量のミルクを混ぜたのち、彼女のもとへ運んだ。


「ジャムパンってそっちが食べるんだっけ?」


 千春はテーブルに置かれた買いもの袋を漁っている。


「西城さん、メロンパンでしょ」

「そうだっけ」

「昨日、自分で選んでたじゃん」

「そうかも。でもそれは昨日の私」

「今日の西城さんは気分じゃない?」

「どっちかっていうと、今朝はジャムパンの気分」


 夏希はコキコキと首を鳴らしたのち、買いもの袋の中に余っていたメロンパンを取ってジャムパンと取り替えた。


「紗英さん、なんて?」


 夏希も席に着くと、千春がピザパンの袋を開けながら訊ねてくる。


「今日は帰らないって」

「それ、さっきも聞いた」

「今日はユキ君なんだって。いや、タキさんって言ってたかな? ヤマちゃんとも言ってた気がする」

「マサ君じゃなかと?」

「それは昨日までだってさ」

「ふぅん」


 ピザパンを食べ進めたのち、千春がコーヒーを一口すする。

 すると、わずかに口元をゆがめ、


「にがっ」

「ミルク入れたよ?」

「なんで安定せんとよ。こないだはよかったとに」

「目分量だし。俺はブラックだし」

「ちゃんと量っとってよ」

「いっそ半々にして、カフェオレにする?」

「嫌。朝からカフェオレとか、ない」


 千春は粛々とコーヒーをすすっていた。


「紗英さん、明日はなんて?」

「たぶんタキさん」

「なんがそんな楽しかとか、分からん」

「叔母さんなんでしょ? 分かってあげなよ」

「無理。私なら結婚するだろうし」

「まだ遊びたいってことなのかな」

「怖かとよ、たぶん」

「ふぅん?」


 曖昧に肯定して、夏希もコーヒーを一口飲んだ。安っぽい苦みが舌の上を流れていった。


「そういえば、課題は終わった?」


 と、夏希が思い出したように訊ねると、


「は? なんそれ」


 千春が途端に青ざめる。


「ゴールデンウィーク中の課題、どの教科も結構出てたでしょ?」

「記憶にない」

「そりゃあ、西城さん、いつも寝てるから」

「くそが」


 吐き捨てるように言うと、千春は立ち上がってコーヒーを飲み干す。空のカップを夏希の前に差し出すと、足早に食堂から立ち去った。

 結局、ジャムパンは余ったままだった。夏希は消費期限が明日の午前八時まであることを確認してから、買いもの袋の中へ戻した。




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