1.教室


 開いていた窓からのどかな風が吹き込む。

 東江夏希は読書を中断し、窓の外へ視線を向けた。彼のいる二年A組の教室は二階にあり、窓からは花壇のある庭園が望める。

 パンジー、ノースポール、フリージアなど、春らしい花々が賑わう一方、それらを観賞している生徒はあまり多くない。今も三人ほどの女子生徒が、花壇近くのベンチに集まりだべっているだけだった。

 時おり甲高い声を響かせる彼女たちだったが、なにについて語り合い笑っているのか、夏希に知る由はなかった。

 ふたたび、教室に視線を戻す。

 風が運んできた駘蕩とした外気が蔓延したか、昼休みの室内は驚くほどのんびりとしていた。

 残っている生徒はあまりおらず、おのおの穏やかに時間を潰している。机に突っ伏し、寝ている生徒もいた。


「ねえ」


 ふと、となりの席からブレザーの袖を引っ張られた。

 視線を向けると、西城千春がこちらを見ていた。

 中学生みたく華奢な体つきに、中学生みたく幼い顔立ち。

 髪も真っ黒なおかっぱ頭で、ところどころ微妙に寝癖が残っていて野暮ったい。今時の女子高生とは思えないほどの無頓着さが感じられた。


「なに?」


 と、夏希が訊くと、


「今日の晩ご飯、どうすっと」


 と、千春が訊き返してくる。まだ眠たそうな声だった。

 教室での彼女は、授業中であれ休み時間であれ、構わず眠っていることが多い。

 この昼休みもずっと寝ていたはずだが、どうやら今しがた起きたようだった。


「まだ決めてないけど」


 と、夏希が答える。

 千春は何度かまばたきをしたのち、


「なんで決めとらんと」

「まだ昼休みだから」

「は? あー」


 黒板の上にある掛け時計を見て、千春は合点がいったようにうなる。

 もしかして、と夏希は思い当たり、


「もう放課後だと思ったとか?」

「それ」

「残念だったね」

「別に」


 短く答え、千春はふたたび机に突っ伏す。

 夏希も読みかけの本を開き直し、


「さっきお昼食べたばかりなのに、もう夕飯の話?」


 と、それとなく追及した。

 千春は顔を上げないまま、


「なん? 早く決めとっても支障なかど」

「そうだけど。あと、方言出てるけどいいの?」

「いくない」

「いくないって方言?」

「違う」

「そう」


 千春は中学まで地方住まいだったらしく、たまに方言が出る。

 周りからは『方言の方が愛嬌があっていい』と言われているが、本人は標準語で話そうと努めているらしい。

 ただしその成果を夏希はあまり感じていない。


「で、夕飯どうすると」


 ふたたび千春が訊ねてくる。

 先ほどより方言感は減っていた。しかしまだ訛っていた。


「なにか食べたいものがあるの?」


 と、夏希が訊くと、


「チキン南蛮」


 と、千春が答えた。

 夏希はふと考えて、


「それ、スペシャルな日に食べるんじゃなかった?」

「そうだっけ」

「自分で言ってたじゃん」

「そうかも」


 と、千春が投げやりに答えた時だった。


「そういうとこだぞ、東江!」


 大きな声が割って入ってくる。クラスメイトの大橋おおはし健太けんただった。

 あまり綺麗に染まっていない赤茶色の髪が特徴の健太は、なにやら不満そうな顔をして、夏希の机の横で仁王立ちしていた。


「そういうとこ?」


 と、夏希が訊くと、


「だから、そういう会話してるのが夫婦っぽいって言ってんだよ」


 と、咎めるように健太が言う。

 夏希は小さく溜め息をついた。


「別に、普通の会話してただけだけど」

「普通ってなんだよ」

「特別でなくありふれていること?」

「国語辞典かよ。そうじゃなくて、普通のクラスメイトは教室で晩飯の献立なんて話し合わないってことだよ」


 健太はなじるような口調だった。

 夏希はとなりの席を見やる。千春は顔を伏せたまま起きる気配がない。


「大橋の中では、晩飯について話し合うことは夫婦っぽいって認識なのか?」


 そう夏希が訊ね直すと、


「晩飯の献立について、だ」


 健太は皮肉っぽく訂正してくる。

 夏希は首を傾げた。


「なにか違うのか?」

「全然違う。晩飯の相談だけだったら、どっかファミレスとかに食べに行くだけかもしんないだろ。それだったら友達か、単に彼氏彼女かもって関係だ」

「ああ」

「だが! 献立を話し合うって、それはもう一つ屋根の下の食卓で一緒に食べるって前提だろうが」

「実際、そうだけど」


 夏希と千春は同じ下宿に住んでいる。

 もちろん部屋は別々だが、食事については、食堂で一緒に食べている。


「あっさり認めるなよ。大体、クラスメイトのくせに同居してるって時点でもう友達以上のだな」


 と、健太がくどくど続けようとした時、


「ちょっと、うるさいんだけど」


 夏希の前の席に座っていた女子が振り返る。


「あんた、また東江君と西城さんに突っかかってるの? そろそろ飽きてもいい頃だと思うけど」


 彼女は川田かわだ利乃りの

 ウェーブのかかった長い茶髪が特徴的なクラスメイトで、健太とは幼なじみだという。


「いや、利乃、普通に考えておかしいだろ? 教室で晩飯の献立話し合ってるなんてよ。それでただの友達だって言うんだぜ。信じられねえよ」


 健太は大仰な身振り手振りをまじえて言う。

 それを見て、利乃は微苦笑を浮かべた。


「だから、二人はそういう関係なのって、何度も教えたでしょ。部活とかで」


 夏希、健太、利乃がクラスメイトになったのは二年生に上がってから。

 しかし三人とも文芸部のため、一年の時から顔見知りだった。


「でもまさか、ここまでとは思わんじゃん? ここまでガチで夫婦っぽいとは思わんじゃん?」

「そんなじゃんじゃん言われてもね」


 眉根にしわを寄せる利乃。

 が、健太は引き下がらない。


「まあ、下宿先が同じってことを考えて、晩飯の件は百歩譲っていいとしてだ」

「なんであんたが譲る必要あるのよ」

「オレはその続きも、つまり二人の会話内容をほぼすべて聞いていたわけだが」

「大胆な盗聴告白ね。趣味悪い」

「東江が西城さんに、『なにが食べたいものはあるかいハニー』と訊いたわけだ」

「東江君の性格上、ハニーなんて絶対言わないと思うけど」

「そしたら西城さんが、『チキン南蛮❤』って答えたわけだ」

「あんたちょっときもいわよ」

「うっせえすみません」

「で、なにがダメなの? 至って普通の会話じゃない」

「このあとが重要なんだ」


 もったいぶるように溜めてから、健太は訴える。


「チキン南蛮と言われた東江は答えた、『スペシャルな日に食べるんじゃなかったっけ?』と。いやスペシャルな日ってなにさ! どんな日さ!」

「いちいち声張らないで!」


 バシッと、利乃が健太の後頭部をはたく。


「ってーな。お前もいちいち手ぇ出すのやめてくれよ」

「健太が悪いんでしょ」

「じゃあスペシャルな日ってなんなんだよ。利乃には分かるのかよ」

「知らないわよ。東江君と西城さんの間でだけ分かってることなんでしょ」

「それだよ。きっとチキン南蛮もなんかの隠語なんだぜ。あるいは符牒とか、ジャーゴン的な」

「それ、意味一緒だから」


 利乃が呆れたように突っ込む。

 勝手に話を膨らませている健太たちを、夏希はただぼおっと眺めているだけだった。

 千春の方は顔を伏せたままで、話を聞いているかどうかは分からなかった。


「中々、面白い話題で盛り上がっているようだね」


 また、別の男子が彼らの輪に加わってくる。

 気取った口調で健太のとなりまで歩いてきたのは、クラスメイトの美沢みさわ光晴こうせいだった。

 眉目秀麗で一目置かれている男子だが、かなりの変人としても知られている。夏希は深い溜め息をついた。


「んだよ美沢。あとしゃべり方きもいぞ」


 と、健太が邪険にすると、美沢はふっと微笑む。


「なに、大橋が喚いているのをすべて聞いていたからね。興味深いと思って」

「盗聴なんて趣味悪いぞ」

「あんたが言うな」


 ここぞとばかりに利乃が突っ込む。


「つまり大橋は、東江と西城さんの深い部分で理解し合っているようなところが、夫婦っぽいと思っているんじゃないか?」


 と、美沢が訊ねると、


「まあ、そうかもしんねえ」


 渋々、健太は頷いた。

 ならば、と美沢は続け、


「ちょっとしたクイズをやってみないか。この二人が、本当にお互いを理解し合っている仲なのかどうか確かめるために」

「クイズ?」


 夏希は首を傾げた。


「ああ。これを使うんだ」


 美沢がポケットから取り出したのは、まだあまり減っていない二束の付箋だった。

 それらを夏希と千春の机上にそれぞれ置く。何事かと、千春が少しだけ顔を上げた。


「今から僕が、東江か西城さん、どちからに関する質問をする。たとえば西城さんに、『好きな食べものはなんですか?』と訊く。これに対し、西城さんは素直な答えを書き、東江は西城さんの答えを予想して書く」


 と、美沢が説明すると、


「互いに言い当てていけるかどうかで、理解度が分かるってこと?」


 利乃が察して訊き返す。


「まあそういうわけだ。どうだ、大橋」

「面白そうじゃん。どうせ暇だし、やってみようぜ」

「決まりだな」


 美沢と健太により、勝手に話がまとまってしまう。

 夏希はふたたび、大きな溜め息をついた。対して千春は、目の前に置かれた付箋の束をジッと見つめていた。




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