魔法の紙とペン、そして。

人間 越

魔法の紙とペン、そして。

「――ここに魔法の紙とペンがあります」


 何の前触れもなく、私の前にはチャンスが舞い降りていた。

 そう、これは紛れもないチャンス、なのだ。おそらく。


「はは。何かの心理テストですか? でしたら随分とありきたりな気がしますけど。でも、面白い。いいでしょう」


 目の前の男が何か異形のものであることをなんとなく感じていた。というのも、ここは私の家であり、招いたわけでもないのに、それどころか男が尋ねてきた記憶も、まして見知らぬこの男に対して扉を開けた覚えもない。そもそも私は自分の仕事部屋から一歩も動いていないのに、気づいたら居たのだ。まるで湧いて出たかのように。

 それでも悲鳴を上げずに、言葉で応じられたのは私が物書きの一人だったからだろうか。不思議な出来ことを夢想し、かつそれに直面した登場人物の内心や行動を推し量り物語を紡ぐ、そういう仕事をしてきたからかもしれない。

 果たしてそれも、ここ数年がさっぱりなのだが。仕事がない。

 色褪せた着物にボロボロのちゃんちゃんこを羽織、棚から溢れた本たちが足の踏み場を犯す部屋。部屋は長い事喚起していないので心なしか埃っぽく、匂いは据えた紙とインクの混ざった、例えるならば劣悪な古本屋のようなものだろう。生憎、匂いばかりはこの空間の住人である私には分かりかねるが。

 ともあれ、そんな閉鎖された空間に湧いて来た男は、汚れ一つない一目で値の張るものと分かる、光沢を帯びたタキシードを纏い、怪しく笑う口元だけを見せるようにシルクハットを目深に被っている。

 もはや、洗練された超常との邂逅。

 神か悪魔か、人間の上位に在るモノの道楽のようにすら思える、人が空想する異質。冷静に見てみれば、笑いすらこみ上げてくる。いや、これは世に参った私が見ている幻の類か。

 時代に取り残され、見てくればかりいっちょ前な、困窮しきった哀れな小説家の見る妄想。ついに頭のネジが飛んでしまったのか。


「まさか。心理テストはありません。比喩でも誇張でもなく、事実としてこれは魔法の力の籠ったペンとそして紙なのです」


「なるほど、なるほど。そりゃ、すごい。でも、そんなものをどうして私に? いや、待てよ。まだ、くれるなんて言ってないな。見せびらかしに来たってわけかい」


「いえいえ。魔法のこれらはあなたのものになりますよ。あなたがそう、望むのなら」


「へえ。そりゃいい。じゃあ、貰おうかね」


「はい、どうぞ」


 男は次の瞬間に消えていた。

 そこに件の紙とペンを残して。


 ☆     ☆       ☆      ☆     ☆


 どれくらい経っただろうか。

 結果から言えば、小説家の男はそれから偉大な賞を取る、なんてことはなかった。

 というのも、紙にもペンにも魔法なんて掛かっていなかったからだ。そんなものがあれば、誰も苦労しない。

 けれど、貰ってから男は短編を一つだけ書き上げた。

 魔法が宿っていると信じて書き連ねた一文字、一文字。なんてことはない、非凡な作品だ。面白くもない、男女の恋愛譚。けれど、今までの世界のどこにもない、唯一つの作品だ。

 小説を作るということは、簡単だ。けれども、難しい。

 どこが難しいなんていうのは、人によるし、同じ人にしても変わる。書き出しや設定作り、モチベーションや完成までを綴ることが難しい。

 それは小説に関わらず言えることかもしれない。

 結局は自分のタイミングで、自分のペースだ。それを維持するために必要に駆られる必要がある人もいるかもしれない。締め切りを設けた結果、質が下がることがあるかもしれないし、自由奔放にやった結果、未完のままになることもある。作品の質だって、不確かなものだ。読み手の感じ方だって、全然小説になんか興味のない人の感性と、古今東西の様々な作品を読んだ目の肥えた人の感じ方が同じはずがない。作者が目の前にいれば、読者は気を遣って褒めるかもしれないし、お構いなしにズバズバ批判できる人もいるかもしれない。それどころか、書けたことに意味のある、書き手の自己満足の作品だって、まぎれもない作品だ。

 そもそも物語なんてものは作らなくてもいいのだ。

 だが、それでも、それでも何かを書こうとするものは、書き手が書き手になる瞬間には、誰もが問われているのかもしれない。


 ――ここに魔法のペンと紙があります。

   さあ、君は何を綴る?


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