紙とペンと夢

@chiyashizuka

第1話 27

 湖が見える原っぱ。まだ少し冷たい風が心地よく、耳と白のワンピースをふんわり通りすぎていく。

 もうすぐ4月。新しい事を始める季節。でも私は、立ち止まったまま。ここにずっと。


 10年前の4月、彼女に出会った。

 右も左も分からない私に、同じ状況で隣に立っていた彼女はこうつぶやいた。

「心は二つ身は七つ」

 ん?『心は二つ身は一つ』ではなくて?

「あの・・・、それ違うんじゃ・・」

彼女にそう指摘しようとしたとき、彼女の体はぐにゃりと歪み、そのまま床に倒れてしまった。貧血をおこしたようで、就職した初日にも関わらず医務室へいき、それからしばらく彼女の姿を見ることはなかった。


「紙井さん、今日の夜は空いてる?」

同僚だけど一つ年上の夢野彩乃は、定時になるとほぼ毎日こうして私に声をかけてきた。誘いには気まぐれに乗ったり乗らなかったりしたが、今日は彩乃の様子がいつもとは違っていた。

「たまには3人でってのはどう?」

「3人?もう一人は誰?」

「辺銀さん。知ってる?」

「ペンギンさん?」

初めて聞く名前だった。もちろん、この場合の初めては、生まれて初めての初めてだ。

「ペンギンさんって、それニックネーム?」

「違うよ、本当に辺銀っていう苗字。珍しすぎるよね。」

そんな苗字、本当にあるんだろうか。

「で、その辺銀さんはどこの誰?」

彩乃によると、入社した年は私たちと同じ年だが、事情があってやっと今年から働き始めた経理部所属の子だと言うことだった。

「知り合いなの?」

「ちょっとね。」

彩乃の意味深な態度はいつものことで、たいした事ではないのはもう5年の付き合いで分かり切っていたが、やっぱり気になった。

「気になるなー、何ちょっとって。」

「まあ、今日3人で飲みに行って、ゆっくり話そうよ。」


 彩乃と2人住宅街を通り過ぎ、ちょっとした林を横目にあるいていると、

「辺銀さんが予約してくれたの。もうついてるって。」

そう言って、立ち止まったのはいつもの居酒屋とは違い、趣のある日本料理の店前だった。

 個室に案内され部屋に入ると、ロングヘアーのいい意味で妖艶な雰囲気のある『ペンギン』さんが、こちらを見て微笑んだ。

「初めまして、辺銀です。紙井みくさんですね。」

落ち着いた心に染みてくるような声。こんな不思議な雰囲気の人初にめて出会った。

「は、初めまして。」

同じくらいの年なのに、こんなに違うと引けちゃうな。

 ペンギンさんの向いに彩乃と2人座るとすぐにお通しが運ばれてきた。注文した飲み物で初めましての乾杯をした。

「それで、ペンギンさんと彩乃はどこで知り合ったの?」

彩乃の方を向いて話したが、それにはペンギンさんが答えた。

「私の元へ夢野さんがやってきたのよ。紙井さんとも初めましてじゃないわ。」

え?初めましてじゃない?

「どこかでお会いしましたか?」

聞けば、入社式の日に会ったらしい。そういえば、貧血で倒れた子が目の前のペンギンさんに似ていたような気もしないではない。

「で、彩乃とはどうして知り合いに?彩乃がペンギンさんの所へ来たというのは?」

ペンギンさんの不思議な雰囲気と彩乃が結びつかなくて、矢継ぎ早に質問をしてしまった。

「紙井さんって、夢野さんと似てる。」

そう言って、笑った顔は妖艶な雰囲気とは違い愛らしかった。

 

 彩乃とペンギンさんが出会ったのは5年も前。あの入社式の日だった。

 入社式当日。私、夢野彩乃は昨夜から超緊張状態で一睡も出来ずに朝を迎えた。アルバイトもした事がない、人間関係を作っていくのも苦手。不安ばかりが積もり積もって高い高い壁を自分で建設している状態。

「彩乃、起きてるの?今日、入社式でしょー。」

下から母が叫んでいる。

「起きてるよー!」ていうか、寝られなかったんだよー。

重い体を引きずるようにリビングへ降りると、いつにもまして爽やかな母が満面の笑みで、

「おはよー。よっ!今日から社会人!いっぱい稼いで、お母さんに恩返ししてよー。あっ、エステのプレゼントしてしてー。それでナイスバデーになって、お父さんをみかえしてやるの。イヒヒヒ。」

母のいつもの弾丸ジョークで、少し体が軽くなった。

「お母さん、ナイスバデーじゃなくて、バディーね。」

そんなことを言いながら、支度をして会社への初の道のりを歩きだした。

 早すぎる時間に会社に到着すると、社員証が配られた。

「夢野彩乃さん。」

「はい、そうです。」

少ししか歳がかわらないであろう女性社員に社員証をもらうと、その女性社員の横で部長みたいなおじさん(後にとてもお世話になるのにこんな印象)が、「夢野彩乃さん?」

険しい顔でそう尋ねられ、

「は、はいそうです。」

と、何も悪い事してないか頭を廻らせ緊張しながら答えると、

「すぐに高野総合病院へ行きなさい。お母さんが倒れられたそうだ。」

「えっ・・・?」お母さんが倒れた?どういうこと?

パニックになってしばらく動けずにいると、

「私が付き添いで一緒に行ってもいいですか?」

と、後ろから私と同じ新品のリクルートスーツの女の子が来て、私の背中をそっと支えてそう申し出てくれた。

「病院まで送り届けたら、戻ってきますので。」

部長のようなおじさんも了承し、2人で病院へ向かった。まだ、状況が呑み込めない私をずっと何も言わずに優しく背中に手をあて寄り添ってくれたのが、辺銀さんだった。

病院へつき、受付に名前を告げると病室ではなく地下に案内された。

暗い廊下の向こうにお父さんの姿が見えた。廊下に座り込み、子供の三角すわりみたいな恰好で、声をあげて泣いていた。

「お父さん・・・。」

何があったのか聞きたくなかった。

「お母さんはこちらです。」

そう言って案内された部屋は、異空間で息が止まりそうだった。

白い布を看護師が外すと、そこには誰だかわからない人が眠っていた。色はどす黒く、生気がないとはこういう事をいうんだと思わせるような。そんなわけのわからないことを思いながら近づくと、母のようだった。最近じっくり母の顔を見ることがなく、すっかり目じりには皺がきざまれていた。お母さんって、こんな顔だっけ?違う人じゃないの?

「自宅で倒れられて、病院へお越しになった時には心肺停止からずいぶん経っておられたようで・・・。蘇生処置も行いましたが、残念ながら・・・。お父様には、先ほど医師より同じように説明をさせていただきました。」

今朝の母とのやりとりを思い出していた。そんなわけない、めちゃめちゃ元気だったし。



 

 


 





 


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