カラフル・シープ

梅星

第1話

「ねぇ、ヒツジの絵を描いて」


 広げたノートの隅を、華奢な指がそっとつついた。僕はそれを視界の隅に捉えながらも、目の前の数式に没頭したフリをする。端正に並んだ数字と記号、それの導き出す先を、ただ知っている通りになぞるだけの、簡単な作業。


「ねぇ、ヒツジの絵を描いて」


 繰り返された言葉には、先程よりもやや口角の上がっている気配がした。白い余白に添えられた指先は、窓から差し込む陽の光を掬い取るように、小さなリズムを刻みながらノートの上を踊る。


「……ここは図書室ですよね?」

「ええ、そうよ」

「生徒が勉学に勤しむためにある場所ですよね?」

「勤しむ、だなんて、難しい言葉を知ってるのねぇ、キミ」

「こうして生徒が今、まさに図書室の役割を正しく全うしようとしているのに--それを邪魔していいんですか、先生」


 ようやく顔を上げた僕の正面で、先生はそっと髪をかきあげる。耳元のピアスが一瞬覗いて、すぐに零れ落ちた髪の一房に遮られ見えなくなった。


「正しくは司書教諭よ」

「先生であることに変わりはないでしょう」

「ええ、そうね。だからこれは、勉強の邪魔ではなく、私の教育的指導」

「ヒツジを描くことが?」


 微笑む先生の口元から目を逸らして、僕はため息をつきながら再び数式へと意識を向けた。付き合ってられない、と言わんばかりの僕の態度に、先生はさすがにノートの端から手を離す。なのに、ペンの先は止まったまま、ノートは所在無げに消しゴムのかすを貼り付けたままだ。得意なはずの、数字と記号を規則正しくなぞるだけのことが、何故か上手くできない。


「キミの絵、見たわ」


 その一言に、一瞬で全てのものが輪郭を失った。跳ね上がる心臓が連れてきた白く滲んだ世界は、やはり一瞬で元に戻る。

 それは、とっくに見慣れてしまった、つまらない線に縁取られた世界。


「鉛筆画、いえ、デッサンと言うのかしら。私、絵のことは詳しくないけれど……とても上手だと思ったわ。立体的に描くための捉え方というか、鉛筆の濃淡から線の細さや太さにもすごく気を配っていて……とても工夫されているのが伝わったもの」


 やめてくれ。

 それは、そんなものは、絵なんかじゃない。


「繊細で、丁寧で--」


 違う。いや、違わない。

 ただ繊細なだけ。ただ丁寧なだけだ。

 そんな、そんなものは--


「すごく、キミらしいって思ったわ」


 ぽきり、と芯の折れる音がした。

 僕はひどくゆっくりと顔を上げて、正面に座る先生を、睨んだ。きつく眉根を寄せて、抉るように直線的な視線を容赦なく浴びせかける。

 僕の視線を、先生はただ静かに受け止めた。組んだ指の上に顎を乗せた先生は、柔らかな日差しを頬に髪に絡めて、小さな日向と日陰をその顔にいくつも散りばめていた。その複雑な濃淡は、難解な輪郭は、僕の拙いペンでは、捉えきれない。


「そうですよ。あれは、実に僕らしい絵だ。誰に見せてもそう言われた。ただ目の前のものを見える通りになぞっただけの--僕と同じ、中身のない空っぽの絵だって」


 吐き捨てた言葉は、思った以上によく響いた。人気のない図書室の、押し黙った本と本の隙間にさえ届きそうなほどだ。乾いた声はむやみに四方へ飛び散り、そして消えていく。


「絵になんか興味ないくせに、描いてる対象さえどうでもいいくせに、妙にリアルに細かなところまで描いてあって、だから上手に見えるだけ。だからいつも、最終的には、選ばれない。比べるとわかるんだ。僕の絵には--何もないって」


 デッサンなら、美術部の誰よりも上手かった。それは、部員は勿論、顧問の先生も認めてくれた。けれどそれ以外--練習や下書きではなく、作品として描いた僕の絵は、そのどれもが評価されなかった。静物画も人物画も風景画も、全て同じような絵になった。選ぶ対象はまるで違うのに、見る人に与える印象が全く同じだというのだ。もっと熱意を、もっと夢を、もっと伝えたい何かを込めて、と繰り返し指導を受けたけれど、とうとう最後まで、僕にはそれが理解できなかった。

 何故なら僕には、何もなかったから。絵に込めるような何かなんて、何一つ持っていなかったから。

 どう足掻いても、ペンはただ対象を縁取るだけ、紙はそれを載せるだけ。そうして描かれた絵は、どうしようもないほどに--誰の心にも響かなかったのだ。

 次第に周りは僕から離れていき、僕も絵とは距離を置いた。

 そして、ここで一人、受験勉強に勤しむに至る。


「何もない僕に、星の王子さまみたく想像力の大切さでも教えようって言うんですか? 本来なら立場が逆だと思いますけどね。あれって、子供の持つ豊かさを大人に気付かせる話だったと思いますけど。まぁ、描いてもいいですよ。ヒツジの入ってない、空っぽの箱でよければ。それでもう僕に構わないでいてくれるなら--」

「できた!」


 唐突に叫んだ先生は、その勢いのまま立ち上がると、僕の眼前に小さな紙を突き出した。そこには、へにゃへにゃの線で描かれた、ふにょふにょな何かが、今にも崩れ落ちそうな姿で描かれていた。


「………………タヌキ?」

「ヒツジです!」


 どこからどう見てもヒツジでしょう、と胸を張る先生に、僕は呆れを通り越して笑ってしまった。


「じゃあ、これはどう? こっちは自信作なんだから」

「…………イルカ?」

「足が四本あるでしょう! これならどうだっ」

「……ペガサス?」

「幻想動物じゃありません! ヒツジです! 次はねぇ、次こそすごいんだから……これぞ最高傑作……」

「先生、いったい僕は何に付き合わされているんです?」


 なおもペンを取り、紙に何か--今回もどう見てもヒツジではない何か--を描き続ける先生の様子に、さすがに僕も笑えなくなってきた。


「何言ってるの、キミも早く描いて」

「はい?」


 ふいに手を止めて、先生は顔を上げた。はらりと落ちかかる艶やかな髪の下から、ピアスの小さな煌めきが覗いた。


「描いてもいいって、言ってくれたじゃない。空っぽの箱」


 長い睫毛が、綺麗な扇型に弧を描く。その微笑みが妙に眩しく見えたのは、きっとピアスが陽の光に乱反射したせいだ。僕は慌てて先生から目を逸らして、ノートのページをひとつめくると、その紙一面に大きな箱を描いた。今まで何度も静物画を描いてきたけど、ここまでいい加減に、適当に描いたのは初めてだ。出来上がったのは、自分でも笑えるほど、不恰好で不細工な箱だ。


「そうそう! 私、こんな箱が欲しかったの! じゃあその箱の蓋、しっかり開けておいてね」

「え?」


 僕の正面に現れたのは、靴を脱いだ先生の足。軽やかに机の上へ乗るその肌色を辿り、膝へ、太ももへと昇った僕の視線は、ついに薄いレースの布地を捉え--


「--っ!?」

「えいっ!」


 スカートの裾が宙に舞う。

 そこから溢れ落ちたのは、無数のヒツジだ。

 視界いっぱいに広がり、降り注ぐ紙のヒツジの群れ。その一匹一匹が、頼りなげで曖昧な輪郭で描かれた、けれどどれもが個性に満ちた特別なヒツジたちだ。花びらのように薄いそれらは、折り重なりながら空中をくるくると回り、迷いながら、惑いながら、我も我もと、僕の描いた箱の中へと舞い降りた。


「空っぽの箱なら、これからいくらだって、なんだって入るでしょう。それってすごく、素敵なことよ。まずは、私の可愛いヒツジたちを、貴方の中に住まわせてあげたらどうかしら」


 ふわりと覆い隠された肌色の向こうで、先生の瞳がキラキラと輝いていた。その色彩は、今まで僕が描いてきたどんなものよりも眩しく、華やかで、無限の色に満ちていた。

 描きたい。

 描きたい。

 描きたい。

 この色を、この人の色を、表現したい。

 そんな気持ちが身体の奥底から勢いよく湧き上がり、瞬く間に全身を駆け巡り僕の体内を掻き乱した。その熱はあっという間に行く先をなくして、僕の中でどんどん温度を上げて膨らんで--


「あら」


 頬に触れる、先生の白い指。


「大丈夫? 顔色が--」

「い、だっ、あっ、だい、大丈夫、です」


 漏れ出した僕の声は、先生の描いたヒツジのように、へにゃへにゃのふにょふにょだった。

 慌てて視線を逸らしたその先で、頬を赤いペンで丸く塗られたヒツジが一匹、僕に微笑みかけていた。

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カラフル・シープ 梅星 @umehoshi

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