優しさは日射しあるいは傷薬

 翰川先生は瞬間移動の連発で帰り道を省略すると、あたしをお醤油入りの袋と共におばあちゃんの家にそっと押し出して、自分はアパートの自宅に戻ろうとする。

「せ、先生?」

「お泊り会はまた今度になった」

「っ」

 あたしのせいで。

「キミのせいじゃない。僕が悪かった」

「どうして、責めないの」

「逃げ場を失わせて追い込んだ。キミは繊細な女の子なのに、考えもしないで。……済まない」

 謝らないでほしい。

 みっともなく恋心にすがるあたしに助けを出してくれた彼女は、とても優しい人なのだから。

「その醤油に、手紙を貼り付けさせてもらった。おばあちゃんに見せてくれ」

 頷くと、翰川先生があたしを撫でる。

 暖かくて涙が出そうだ。

「光太はアパートの自分の部屋に戻っているし、ミズリも僕を家で待っている。ミドリさんはキミを待っているので、きちんとただいまを言っておいで」

「うん……」

「明日、僕は光太とデートをする」

「? デート?」

 彼女はあたしの額を指で優しくつついて微笑む。

「光太のことをがっちり引きつけておくので、キミが明日自宅に戻っても顔を合わせることはない。これは保証しておこう。光太と話さざるを得なくなる時までに、きちんと自分の心を定めるといい」

「心……」

 揺れて傷ついて忙しい、子どものようなこの心。

 正直持て余し気味だ。

「すき焼きは明後日か明々後日か……まあ、とにかく延期だ。具材は時間停止装置に入れておけばいいしな」

「ごめんなさい、先生」

「気にしなくていいんだよ。ミドリさんといろいろ話すといい」

 おばあちゃんに、何を話せばいいのだろう。

「何でも話していいんだ。光太への恋心と、失恋したこと。アパートを継ぐ継がない。大学で学びたいことでも、何でも」

「なんでも……」

「ミドリさんはキミの育て親だ。親は、育て子の心を聞きたいものなのだ。それに、大学に行くことについては、きちんと考えを伝えてきなさい。佳奈子はそうすべきだよ」

 額をつつかれると暖かくてくすぐったい。

「ね」

「……うんっ……‼」

「またね、佳奈子」

「はい、先生」

 深く頭を下げて先生を見送る。

 海色の髪が見えなくなったところで、急いでおばあちゃんの家に駆けこむ。

「おばあちゃんっ‼」

「……お帰りなさい、佳奈子ちゃん」

 今日のあたし、泣いてばっかりだ。

 泣くつもりなんてなかったのに、勝手に涙が溢れてくる。

「っ……」

「たくさん泣いていいのよ。そうしたら、気持ちも落ち着くからね」

「お、ばあ……ちゃっ、ごめん。ごめんなさい」

「偉かったねえ。ごめんねえ。ばあちゃんがわがまま言って、お泊り会なんて……佳奈子ちゃんが傷ついてないわけないのに、酷いことしちゃったね」

「うぁ、ぅく」

 面倒でわがままで子どもなあたしを優しく包んでくれるおばあちゃん。

 なんでこんなに優しいんだろう。幸せで死んじゃう。

「……優しい子」

「おばあ、ちゃんの方っ、が。優しいっ、のぉ……」

「あなたの話、聞いたことがなかったわ」

 あたしの話?

「佳奈子ちゃんになる前のあなた。あなたはどうして、おばあちゃんのところに来てくれたの? 来る前はどんな人だったの? ずっと気になってたのよ」

 誰にも話したことがない。

「ばあちゃんね、じいちゃんが病気して亡くなって、息子を一人で育てたわ。がむしゃらに働いて……でも、その息子も、お嫁さんと孫娘と一緒に……」

 一緒に、飛行機事故で居なくなった。調べたし、コウからも確認のように伝えられたから知ってる。

「世界が終わってしまったような気がした」

 たまに、初めて見た日の彼女を思い返す。今はあたしの部屋になっているアパートの一室で、大量のおもちゃとともに、妄想の中の孫娘と遊んでいた。

「でも、いつの間にか佳奈子ちゃんが居たの。空から降ってきたみたい。孫娘が、帰ってきたみたいで……」

 なりすましたのに、許してくれた。

「大好きよ。……こんな他人の老人をおばあちゃんって呼んでくれて、ありがとう」

「……」

 泣きそうになるから返事ができない。その代わりに、ぎゅうっと抱きつく。

「死ぬ前のこと、覚えてないの。……気付いたら、あたしは……こと切れた自分の遺体を、見下ろしてて」

 あれはどこだったろうか。

 確か、札幌のどこかの、廃墟ビルと路地が煩雑に入り組んだような場所で……その廃墟の3階だか4階だかで、あたしは死んだ。

 あたしの記憶は、『ああ、死んでるんだなあ。あたし幽霊なんだ』と、自分の状態を認識した瞬間から始まっている。

「……警察があたしの遺体を運び出して……引き取り先を探してた。供養したり、お墓に入れてくれる人が居なかったから、児童養護施設の人が引き受けてくれたの」

 おばあちゃんはあたしを抱きしめて、痛切な声で言った。

「頑張ったねえ。偉かったねえ……」

 夏休み中、おばあちゃんと一緒に、自分のお墓参りをした。よくよく考えるとすごく奇妙な状況だったけど嬉しかった。

 コウともお墓参りに行った。神社の石段を駆け上って競争して、一緒に花火を見た。

 どちらの思い出も、永遠に色褪せない。

「ありがと、おばあちゃん」

 おばあちゃんを抱き返す。

 いつもなら気恥ずかしくなってしまうかもしれないけれど、今日は甘えてみたい気分だ。

「……おばあちゃん」

「なあに?」

「シェル先生ね。あたし……佳奈子になる前のあたしのこと、調べて見つけたんだって」

 もらったファイルはアパートの自分の部屋に置いてある。開けてさえいない。

「ねえ、有り得ないよねえ。すごい。すごく意味わかんない……」

 ぐだぐだと言葉を吐き出していると、おばあちゃんがあたしのおでこを指でこつんと突く。

「そのことは、おばあちゃんも先生からきちんと聞きました」

「……え」

 この顔はちょっと叱っている顔だ。

「おばあちゃん、知らされてたの?」

 首を横に振る。

「佳奈子ちゃんが誰だったかは知らないわ。『佳奈子だけが見るべき時に見るべきで、誰に知らせるかは佳奈子が選ぶでしょう』って仰ってたのよ。しっかりとした優しい先生ね」

「…………」

 シェル先生、嫌われてるなんて疑ってごめんね。

 でも、着信拒否については直談判させてね。

「うん。あたしが見たいと思ったときに見るわ」

「! それがいいわね」

「……一生来ないかもしれないけど」

「それでもいいそうよ」

 おばあちゃんは柔らかく笑ってあたしを撫でる。

「生きていたことの証明だから、自信を持って欲しい。……なにもかもシェル先生の受け売りね」

 どこまでもあの人は。

 不条理なまでに賢くて優しい。

「最近……もしお父さんが居たら、シェル先生みたいだったのかなあ……って思う」

「あら、それは素敵ね」

「今日ね。いろんな話がしたいの。あたしの将来の話もそうだし、おばあちゃんがアパートについて思ってること。あたしが東京でなにを学びたいか……いろいろ」

 もし良いのなら、おばあちゃんの家族の話も聞きたい。

「いい?」

「もちろん。たくさんお話ししましょ、佳奈子ちゃん」



 まずはあたしの思いの丈から。

「あたしはこのアパートを、アパートとして継ぎたいと思ってます」

「うん」

「継ぎたい理由は思い出がたくさんあるから。でも、人は思い出を食べて生きていけるわけじゃないわ」

 霞を食べる仙人でもあるまいし。

「だから大学で経済と経営を学びたい。戻ってきたらおばあちゃんの仕事を手伝って、学んだことを活かしていきたいと思う」

 あたしの宣言を聴き終えたおばあちゃんが頷く。

「嬉しいわ。でも、条件があるの」

 指を二本立てて、あたしの目をじっと見る。

「手に職をつけておくこと」

 一本目を折る。

「資格を取るってこと?」

「経営は厳しいものになると思うから、家賃収入だけじゃなくって、いざとなったら自力でお金を稼げるようにしておきなさいってこと。資格職も良いわね」

 なるほど。

 そう考えると、アパート管理業務と両立が可能な仕事が良さそう。それも考えておこう。

 おばあちゃんが二本目を折る。

「アパートを継ぐとしても、期限を決めて。これ以上の維持が難しいと判断したら、アパートを潰して土地を売るなり、駐車場にするなり……佳奈子ちゃんが決めてね」

「……うん」

 アパート管理の内容や苦労などを話していくうち、話はあたしの失恋に移った。

「あたし、コウのこと、小さい頃から好きだったの。気づくの遅かった。……恥ずかしかったのね」

 変に大人ぶろうとする一方で、コウとの関係の変化が怖くなって、恋心を否定した。

「ばあちゃんは知ってたわよ。……二人のこと、ずっと見てたもの」

「……恥ずかしい……」

「恋って、一人でいると甘酸っぱいけれど……人に知られてると思うと気恥ずかしいわよね」

「おばあちゃんもそうだったの?」

「そうよお。じいちゃんとはお見合いだったんだけど……一緒に暮らすうちに恋をしたの。義母さんと義父さんに知られて、顔から火が出るかと思ったわ」

 可愛い恋話だ。

「三人とも良い人だった。今でも、じいちゃんと義父母さんのことは大好きよ」

「……あたしも、そんなふうに、恋したり結婚したり、できるかなあ」

「出来るわよ。佳奈子ちゃんだもの」

「…………ありがと」

 勇気を出して、失恋の経緯を吐き出す。

「コウね、あたしの友達のこと好きなの」

「京ちゃんかしら」

 紫織と京のことはおばあちゃんにも何回か話している。

「うん。その子、すっごく良い子なの。……辛い思いして、今も後遺症に苦しんでるのに、優しくて芯があって……あたしが男子だったら告白してる」

「あらまあ。素敵な子なのね」

「紫織もそうかも」

 あの子も、自分の心の傷をわかっていないけれど、人のことを考えられる強い子。

「京も紫織もね、二人とも大好きなのよ」

 この言葉は本心だ。

「でも、京本人はコウが京のこと好きって知らないの。……紫織もコウが好きだった失恋仲間だけど、紫織はあたしなんかよりずっと大人なの。わだかまりなく、京と話してる」

 8年越しの恋が破れて辛くないはずがなかったのに、紫織はそれを飲み込んで、今ではコウの恋を静かに応援している。

 強過ぎると思った。

「うん」

「京とまた仲良くしたいから、頑張る」

「うん。ばあちゃんは応援するからね」

「ありがとう」



 翌日の昼に、おばあちゃん家の玄関で頭を下げる。

「ありがとう。また来るね」

「いつでもいらっしゃい」

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