幽霊

ペキニーズ

第1話

 最近どうにも肩が重い。なにをするにも怠くていけない。あんまりにも怠いものだから大学にも行けていない。

 まず、朝起きても体を起こす気力がわかない。まあこれはいつものことなのだけど、それにしても動かない。布団の中でじっとして、目が覚める昼頃になるとやっとこさ体を起こせるようになる。一限に出た試しのない僕からしても、これは異常なことである。

 そして昼から、とりあえずサボるわけにもいかないアルバイトへ行く。スーパーの品出しなので、チーフさえいなければ座り込んでシフトが同じのバイト仲間と話し込むだけの簡単な仕事である。しかしこれも上手くいかない。体の重みがどうやら頭のほうにも波及してしまったようで、ミスを連発してしまったのだ。

 これにはさすがにバイト仲間のイガラシくんも心配そうな顔をしていた。僕は笑って大丈夫だと手を振ったけれど、そのすぐあとにまたミスをしてしまって、これを見ていたチーフがさすがに、今日はもう帰れと強引に僕を締め出した。僕は大人しく従った。すきあらばバイトを使い潰そうとシフトをねじ込む、あのチーフが帰れと言うのである。それほど今日の僕は酷かったのだろう。

 帰り道は日が沈みかけていて薄暗い。一人暮らしのアパートまでは十分も歩けば着く距離だ。けれどその十分分の徒歩さえも厭わしい。一歩足を踏み出すたびに多大な労力が必要なのである。まるでひとりだけ十倍の重力のなかにいるようだ。そういえばドラゴンボールでそんな修行をしていたなあ、もしかしたら僕も、この不調がおさまったあとは悟空やベジータみたく屈強なZ戦士となっているかもしれない。んなわけないけどね。

 つらつらと頭はどうでもいいことを思考し続ける。どうでもいいことで頭が埋め尽くされていく。そうしていると不思議と体の重さを忘れられた。そんなこんなでほとんど意識朦朧としながらやっとアパートにたどり着いて、あ、と僕は気づく。僕の部屋は四階で、また、エレベーターなんて高機能なものはこのアパートには備わっていないのである。

 仕方ない登るか、と足を階段にかけて、二、三段登ったところで僕は気絶した。



 気がつくと僕は病院のベッドで寝ていた。

 どうやら話を聞くに、アパートの階段で倒れていた僕を管理人のおばさんが偶然発見し、救急車を呼んでくれたようだった。

 皺ひとつない白衣に見を包んだ医師が、神経質そうに告げる。身体に目立った異常はなく、恐らく過労で倒れたのだろうということだった。おかしな話である。この僕が過労で倒れただって? この自他共に認めるぐうたらが? 友人にでも話せば、これは本当に面白い笑い話になることだろうな。

 医師の説明が終わったところで、僕は最近、体が妙に重く、日常生活にも支障をきたしているという話をした。ふむ、ともっともらしく頷いた医師が言う。

「精密検査をしてみますか?」

 僕はいちもにもなく頷いた。

 そして検査を受けた僕に医師が言うのは、先程とまったく同じことだ。身体に目立った異常はなく、恐らく過労だろうと言うのだ。思わず笑ってしまう。

「いや先生。過労ではないんです。それは確かです」

 ふむ、とまたもっともらしく頷く。

「じゃあ、身体じゃなくて精神的なものかもしれませんねえ」

 大事をとって一日入院し、後日僕は紹介された心理カウンセラーを尋ねたが、そこでも「あなたの精神は健全そのもの」とプロのお墨付きをいただいた。

 ということは、僕は心も体も健全なのにぶっ倒れてしまったということになるのだけれど、これは一体何なのだ?

 よくよく考えれば恐ろしいことだ。僕は僕の体の異常を理解している。けれども、その道のプロたちが「そんなはずはない、おまえは正常だ」と僕の感覚を否定する。体の異常は確かな事実なのに。これではまるでオオカミ少年のようである。僕は別に嘘ばかりついてきたわけではないが、言っても言っても信じてもらえないという状況に限れば似ているだろう。

 カウンセラーから心の健康を保証してもらい、僕は相変わらず重苦しい体を引きずりながら、アパートに帰った。

 部屋に戻り、しばらく見れていなかったスマートフォンを見ると、いくらか通知が溜まっている。僕はこういう通知は全部消してすっきりさせてしまいたいタイプなので、片っ端から目を通していく。

 途中で、電話が掛かってきた。番号は実家のものである。

「もしもしー」

「入院したんだって?」

 妹の声だった。妹はいま高校生で、反抗期真っ盛りの尾崎少女だ。家を出てからは仲が良かったわけでもないので疎遠だった。その妹がわざわざ電話を掛けてくるとは何事か。

「ああ、まあ、してたけど」

「お母さんが言えってうるさいから言うんだけど」

「あ?」

「お大事に」

 それだけ言うと、電話は切れてしまう。

 なんだ、我が家の妹は。なかなかどうして可愛いところがあるじゃあないの。

 僕はほっこりした気持ちになって、また通知を消化する作業に戻る。

 珍しい通知があった。高校卒業から一切動きがなかった三年三組のクラスラインだった。なんだと思い開いてみる。

 どうやら、クラスメイトのひとりが亡くなったようだった。



 紫野について僕が知っていることはあまりにも少ない。ひとつが陸上部に所属していて、なかなかに大層な記録を残していたらしいこと。もうひとつが、一年の頃からずっと三組だったこと。以上である。どうして僕が紫野のクラスを知っているのかと訊かれれば、それを説明するのは実に簡単である。僕と紫野は三年間同じクラスだった。それだけの話である。

 ここまでの説明でお察しいただけると思うのだけれど、僕は紫野と特に仲が良かったわけじゃない。それはもちろん三年間同じクラスだったのだから何度か話をしたことはあるけれど、それだけだ。

 紫野が亡くなったと聞いたとき、僕の心にぽつんと浮かんできた感情は寂しさでも悲しさでもなく、困惑だった。ほとんど関わりのない人間、けれど三年ほとんど毎日会っていたのだから顔や声まではっきりと覚えている人間。そんな人間が亡くなったとき、どんな心境になればいいのか。僕は冷血なのかもしれない。ただ、誤解のないよう記述すると、まったく悲しくないわけではない。元々、これからの人生で僕と紫野が会うことはなかっただろうと思うが、それでも、会わなかったであろう紫野の顔はもうこの世界には存在もしていないのだと思うと、なんだか悲しくなってくるのである。僕の頭に浮かぶのは、セーラー服で、健康的に焼けた浅黒い肌の、どこか憮然とした女の子だった。少し下世話な話になるけれど、この紫野という女の子は陸上部のなかにあってずば抜けて可愛かった。どこかごつごつした女の子たちのなかに細身で可憐な紫野が立っているところをよく見かけた。その対比は、紫野という少女の価値を、さらに引き上げることになった。彼氏がいたという話はとんと聞かなかったが、これからの将来、きっと明るい未来があったに違いない。だがもうその道は閉ざされたのである。未来永劫に。

 深く考えれば考えるほど、僕は紫野が亡くなったことがどんどん悲しくなってきた。あの女の子が死んでしまったことが、取り返しのつかない世界の損失であるかのように思えてきた。あんなに可愛らしかった女の子が亡くなって、今、正体不明の体調不良で大学にもバイトにも行けない穀潰しが生き延びている。世の中というのはまったくどうしてこうなんだろうね。

 紫野の葬式があるとのことで、元クラスメイトもよければ出席してほしいとのことだった。ちなみに、ラインの送信者は紫野と特別仲の良かったゴウダさんだった。ゴウダさんは雄々しい名字ではあるが華奢で色白な女の子である。恐らく紫野の家族とも付き合いがあって、そのよしみでこうしてラインを送ってくれているのだろう。

 出席したいのはやまやまだったが、残念なことに僕は今この体だ。とてもではないがわざわざ実家の方に帰って葬式に出席して、なんてハードな日程をこなせるコンディションじゃない。

 それにしても、紫野が亡くなるとは。いつの話なのだろうか。紫野が亡くなってその親友のゴウダさんに情報がいくまで、恐らくそう時間はかかっていないのではないだろうか。

 まあ、そんなことはどうでもいいか。

 体にかかる重さが、少し増したような気がする。ああ、だめだ。今日はもう何もする気にならない。早く眠ってしまおう。シャワーも浴びれていないが、それさえ億劫だ。もう明日でいいか。

 僕は這うようにして布団に潜り込んで、目を閉じた。意識が混濁してきて、すぐに眠ることができた。紫野がいつもの不機嫌そうな顔で夢に出てきた。夢見心地でぼんやりと思った。そういえば僕は、紫野の笑った顔を一度も見たことがなかった。

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