かきのこしたもの
須々波 啓太
第1話
フローリングの床に少しずつ血だまりが広がってゆく。私の腹部にはナイフが突き刺さり、決して小さくはない傷を作っていた。ナイフの持ち主はもはや部屋にはおらず、足にも傷を負って動けない私は、ただ一人でうずくまるだけ。携帯電話は持ち去られ、助けを呼ぶことも出来ず、失血多量で死ぬのは時間の問題に思えた。
その私の前に、気付いたら「そいつ」は居た。それは朦朧とする意識が見せる幻覚か。何とも形容のし難い、奇妙な『何か』だった。はっきり分かることは一つだけ。人を喰ったような、不快な笑みを浮かべているということだ。
『契約をしないか』
笑いながらそいつは言った。
『何でも願いを叶えてやる。その代わりにこちらは魂を頂く。ありふれた、お決まりのやつだな』
つまりは悪魔ということか。
『まぁ、そんな感じのところなんだろう。さぁ、望みはなんだ? どの道すぐに死ぬのだから、どうせなら契約しようじゃないか。ただ、うっかり何でもとは言ってしまったが、命を助けてと言われると困ってしまうな。それではこちらの待ち時間が随分長くなってしまう』
助かりたいという気持ちは無かった。刺された時点で、これも運命と諦めてしまった。それに、生き延びたところでそれからどうするか、何もイメージ出来なかった。
『それは好都合。では、お前を刺した者を殺してやるか? すぐ始末も出来るが、じわじわと苦しめるコースもあるぞ。まぁお前の場合、その様子を見て楽しむことは出来ないがな』
意趣返しの必要もない。私を刺した男は古くからの友人だった。その友人との間に生じた、女性を巡るトラブルが発端だったが、私はその友人を未だに恨めずにいた。
『なら、女の方か? お前の女がこそこそと男に近付くような真似をしたことが、そもそもの原因だろう? 裏切りの代償を払わせてやりたくないか?』
それも不要だ。そういう女だと最初から分かって付き合っていたし、その奔放さが魅力だとすら思っていた。今更責めようという気にはなれない。
『おいおい、じゃあ一体どうするんだ? せっかく手っ取り早く魂が手に入ると思って参上したってのに。契約の取り付け前に死なれちゃ困るんだから、早く決めて貰いたいんだが……』
実際、私は体から徐々に力が抜けつつあった。それほど時間は残されていないのだろう。しかし身寄りもなく、愛する者は離れ、生にすら執着を失った私が、この世に一体何を遺すというのか――。
「――紙とペン」
『何だって?』
私が発した言葉に、忌まわしい笑みだけは崩さぬまま、そいつは戸惑ったように聞き返した。
「白い紙とペンが欲しい」
気付くと私は一枚の紙切れを手にしていた。
『後はこれだ』そいつから伸びる、腕のような何かがペンをこちらに差し出す。
『本来なら願いは一つだから紙だけ渡してさっさと消えてしまうところだが、ささやかな願いに免じて、今回は特別にペンを貸してやろう。後でちゃんと返して貰うぞ』
真っ黒で、何の変哲もないペンだった。
『お前のような奴が最期に何を記すのか、少し興味もあるしな』常に笑った顔が余計に喜色に歪んだ。
『刺した男の名前を書くか? 殺さないまでも、然るべき罰は与えたいんじゃないか?』
つまらないことだ。願わくば、私の方だけでも彼を友人と思って死にたいのだ。
『辞世の句でも残すつもりか? 残したところで、誰も読みはしないだろうに』
その通りだ。そのようなものを書いたところで、興味を持つ者など居はしない。
『ならば何だ? お前は一体何を書き遺したいというんだ?』
意識がおぼろになるなか、わたしはさいごのちからをふりしぼってぺんをはしらせた。
いま、せかいでわたしにしかかけないものをかきのこそう。それがいちばん、いみがあることのようにおもえた。
やつはずっと、わらっているようだった。
「警部、これが被害者の手元に」
若い刑事は、事件現場に残された紙切れを年嵩の男に差し出した。マンションの一室で失血死した男。その男の傍に落ちていたものだ。
「これは……ダイイング・メッセージ、というものなんだろうかね」
「どうでしょう……」若い方は首を傾げる。
「あったのはこの紙だけで、ペンは見当たらないんですよ。この部屋で書かれたものではなく、持ち込まれたのかもしれません。ペンは犯人が持ち去った可能性もありますが、それだと肝心の紙の方を残していく理由が分かりませんし」
警部と呼ばれた年嵩の男は手にした紙切れをひとしきりジッと見ると、若い方に顎をしゃくった。
「じゃあ、君はこれが何か分かるか?」
「うーん……?」再び首を傾げて言い淀む。
「どう表現したらいいのか……言えることは、『不快な笑顔の何か』だとしか」
かきのこしたもの 須々波 啓太 @suzunami
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