杉野颯太Ⅲ-2
「何もできなかったんだ」
背後から聞こえた、嘆きのような弱々しい声に、颯太は振り向いた。秀一はうつむいたまま、小さい体をさらに縮こませるようにして、じっと自分の足元を見ていた。続きを発することをためらっているのか、彼はしばらく黙っていた。颯太はスムーズに話ができるように緊張をほぐすと、静かにに耳を傾け、彼の言葉を待った。そんな颯太の心遣いをわかってくれたのか、秀一がゆっくりとしゃべり始めた。それは誰かに向かってというよりは、自分自身に向けた独り言のような感じだった。
「さっきの戦いで僕は何もできなかった。ただ小動物のように怖気づいて、震えているだけだった。神那くんも天宮先生も一生懸命守ろうとしてくれたのに、僕は何もしなかった。月島さんを見つけるって意気込んだのに、いざとなったら結局いつもこうだ」
秀一は唇をかんだ。
「やっぱり、僕はダメな人間だ」
「見たこともない化け物なんだ。誰だって怖いし、仕方ないさ」
颯太は鉄パイプを投げ捨てた。付着していた砂が手のひらに残り、ぱらぱらと落ちた。
「杉野くんは怖くなかったの?」
その言葉に、颯太はあらためてあのときのことを振り返った。目の前に現実離れした化け物がいるという驚きは確かにあった。だが、自分でも疑問に思うほど一切の恐怖心はなかった。高層ビルの屋上を命綱もつけずに飛び回るように、怖いという感情だけが、颯太の中からすっぽりと欠落していた。
怒りが感情を塗りつぶしたから?
天宮の腕から流れる血と、愕然と立ち尽くす秀一や優花が視界に入ったとき、颯太の中で煮えたぎるような憎悪が沸き上がった。それが怯えるという感情を上書きしたから、自分はあんなにも果敢に挑むことができたのではないのだろうか。だが、優花はともかく、2人のことは嫌いだったはずだ。それなのになぜあそこまで自分は奮い立たったのか、その原因がなんなのかはよくわかっていなかった。
「俺は、どうでもいいと思ってるから。自分がどうなろうと、どうでもいいんだ」
結局、迷路に入った考えはそこへと落ち着いた。
どうでもいい。
べつに死んでもいい。
そんなあきらめの感情から、自暴自棄になっただけなんだ。
そう自分自身に言い聞かす。
それなのに、部屋を飛び出したときの形容できない不安は、街灯に照らされアスファルトに写し出された自分の影のようにしっかりとそこに存在し、離れることはなかった。何もかもどうでもいいと言い聞かせているのに、死への脅威は微塵も感じなかったのに、あの少女のことを考えると胸が締め付けられる自分がいることに、颯太は戸惑いを隠せなかった。
「お前が普通だよ。俺が異常なだけさ」
「そんなことないよ。颯太くんは強いから。僕の憧れだから……」
秀一は羨望に似た、やわらかなまなざしを颯太に向けた。
「思えばここに閉じ込められなかったら、こんなことにはならなかったかもしれないね」
「そうだな……」
「また扉閉めないでね」
「そんなことしねぇよ。それにもしそうしたら、今度は天宮にぶん殴られるだろうよ」
「天宮先生、いい先生だね」
「ただのお節介好きだろ」
「僕の学校にはあんな先生いないから羨ましいよ」
「あんなのはどこにもいねーよ。逆に希少生物だ」
「そうかもね」
秀一はくすりと笑った。それはずいぶんと長い間見ていなかった、懐かしい笑顔だった。
「でも、こんなこと言うと変だと感じるかもしれないけど、僕は閉じ込められて良かったと思っているんだ」
「良かった?」
「きっかけはなんであれ、またみんなで集まれたっていうことが、なんていうかあのときみたいで、僕は嬉しかった」
「まあ、おかげで化け物に襲われ、殺されそうになったけどな」
「僕も心のどこかで死んでもいい、そう思っているのかもしれない」
颯太はこぶしを握った。落ちきらなかった砂がざらざらとした感触をもたらし、それが不快だった。颯太はじっと秀一の顔を見つめた。瞼がすこし閉じられていて、あきらめのような物憂げな色がにじんでいた。
「杉野くんたちだけなんだ」
「なにがだよ」
「こんなに普通にしゃべれるの。塾でも学校でも友達はいなくてさ。友達というかみんながライバルみたいな感じでピリピリしている。何か話そうにもドモってうまく言葉にできなくて、それなのにいつもまわりばかりを気にして。誰も僕のことなんか眼中にないのにさ。いい大学に入っても卒業したとしても、これじゃ就職なんてできないだろうね」
「授業さぼりまくりで高校中退コース一直線の俺よりましだよ」
「じつはね、成績もそんなよくはないんだ。勉強することしか脳がないのに、その勉強もダメで、人と満足に会話もできない。本当にどうしようもないよ……」
そんなことないだろうと言おうとしたが、それは言葉にはならなかった。
自分には何があるだろう?
颯太の中で考えが巡る。結果はすぐに出た。
自分には何もない。
才能も、目標も、なにもない。
「勉強できないって言ってもトップクラスの進学校での話だろ。お前は俺よりはるかに頭がいいよ。それにまだ先は長いんだ。俺に対してそんな饒舌になれるなら、きっと他の人ともうまく話せるようになるさ」
「そんなことないよ……」
秀一は黒い煙に覆われた空を寂しそうに見上げた。
「それに杉野くんだけは普通に話せるって言ったけど、本当は昨日まで怖かったんだ。だから、駅で会ったときも、気づかないふりをして通り過ぎようとしていた」
「ああ、知ってた。だからわざと呼び止めたんだ」
「いじわるだね」
「そうだな、最低の奴さ。生きてる意味も価値もなにもねぇ、最悪のクソ野郎だ」
「僕も、なんの価値もない人間だよ」
颯太は何も言わなかった。ただ黙って手についた砂を振り払った。
「そういえば颯太くんも平気なんだね」
「何がだよ」
「この煙ね、普通の人が吸うと具合が悪くなるみたいなんだ。なのになぜか僕たちだけはだいじょうぶみたい。魔法みたいな力といい、なんで僕たちだけがこんなことになったんだろうね。もっとヒーローにふさわしい人物なんてたくさんいるはずなのに、なんで僕らなんだろうね」
「知るかよ」
「そうだね、わかんないよね」
生暖かい風が吹き、前髪が揺れた。脆くなったのか、体育倉庫のむき出しのコンクリートの一部が欠け、崩れ落ちていた。
「卒業しても壊されないから、そのままかと思っていたのに、この学校もだいぶ老朽化しているみたいだね」
「そうだな……」
「月島さんも変わったんだよね」
「ああ」
「不登校だっけ。信じられないな、あの月島さんが……」
校庭で走り回る元気ななぎさの姿を思い浮かべているのだろう、秀一は目を細めた。
「姿も昔とは全然違った。車椅子に座っていて、まるで死人みたいだったよ」
颯太は目を閉じた。瞼の裏にあのときのなぎさの姿が浮かぶ。それは焼き付けられた写真のように鮮明ではっきりとしていた。どうして俺はあのとき声をかけてあげられなかったのだろう。
「この場所で走り回っていた頃のなぎさは、もう思い出の中にしか存在しないのかもしれない」
誰もいない校庭。古くなり廃校となった校舎のように、時間は推移し、環境は変わっていく。事実は思い出となって、その記憶も曖昧となり、やがて風化し、消えてなくなる。
「颯太くんもその……」
「知ってるのか?」
「うん、母さんから聞いた。」
「そうか……」
「柊さんも大変だったみたいだね」
「そうだな」
「みんな別れてからいろいろあったんだね」
「ああ、何もかもが変わってしまった」
「でも、昨日の月島さんは、僕の知ってるときのまま月島さんだった」
そうだった。昨日会ったなぎさは、姿形はもちろんだが、その態度も仕草も小学生の頃と寸分変わらなかった。あいつだけが過去からワープしてきたかのように、あのときのままだった。
「秀一はなんでなぎさを探そうとしたんだ。優花に言われたからか?」
「それもあるけど……僕は謝りたかったんだ」
「謝りたい?」
「うん。月島さんと別れるとき、僕のことを気遣ってくれたのに、僕はそれを拒否してしまった。それがずっと心残りで胸にひっかかっていた。だからもう一度会って、そのときのことを謝りたかった。まあ、いまの僕じゃ、うまく言葉にできる自信はないけど……」
自嘲的に秀一は笑った。
「杉野くんはなんでここに?」
俺は——。
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